掌編 「傘を差して雨を見ている」
書き終えると時間をかかったことに気づいたため、読んでいただけたらさいわいです。
会社からの帰り道を河野優雄は、のこのこと傘を差して歩いていた。梅雨入りしたと人づてに聞いたから、どれだけ天気がよくても傘を携帯していたから多く濡れなくて済んだ。あと家まで五百メートルというところで、優雄は、立ち止まり、からだを左に向けて、道路の向かいをぼうっと見ていた。そして、傘をすっと下ろして、雲を見上げた。雨を降らしている雨雲は優雄の周りだけでなく、彼が歩いてきた駅から歩いていた道のり全てを覆っていた。酸性度が強ければ、長い時間雨を受けているのはよくない、優雄はそう思ったが、雨粒をすぐには傘で庇わず、少しの間、身体に浴びせた後で、再び傘を掲げた。しばらくその場所にじっとしていても、誰かが通り過ぎることはなく、優雄は空から流れる雨の時間を見て、あらゆる物に当たり、流れていく音の重なりを聴いていた。
優雄は、幾つかのことを連想した。二百年近く前に小林清親という浮世絵師は明治時代のある日のある時点の町の様子を絵にして記録した。それは、通り雨が降ったから、傘を差して家路へ急ぐ人々の様子を表していた。優雄が実際に生きたことのない時代に当然のように雨は降り、その雨粒は地上や地下水から河川や用水を通して海や田に流れ、太陽の気化熱を持って水蒸気と化して、準備ができると、また雨を構成する一部になる。そうして何遍も何遍も繰り返した雨粒をもしかしたら、俺は見ているのかもしれない。自分の生きている時代でしか、考えたり思い浮かぶことはできないのかもしれないが、雨粒は全てを知っている。遥かに俺が歳月とともに学んできた知識よりも、もっと実感を持って現場を体感している。可能ならば、その雨と俺は親しくなりたいと優雄は思った。
また、何かの映像か本で水は記憶を持っているということを優雄は学んだことがあった。それだけでなく、水には清める力があるということ、それは里山の湧水だけでなく、神社の柄杓で汲む水や、教会の儀式などに用いる聖杯にも、水それ自体が浄化の作用を持つことを知ったことがあった。自分達、人間の体内の半分以上は水だというが、社会を構成し、それぞれ分業を担っていく人間よりもはるかに水の方が偉いし、すごいのではないか、水素と酸素が化合すれば、水になるということは学校教育を受けた人なら今の時代は誰でも知っているとは思うが、じゃあ人為的に水以前の物から水を作り出すという話はあまり聞いたことがない。工業や化学メーカーだったら日常的に行っているかもしれないけれど、身の回りの当たり前としては馴染みにくいものだ。流れていく雨は、自分の現在地を惑わせる印象を受けると、優雄には以前感じたことがあった。そう感じたのは、自分の四方を雨が流れて覆うことで視界がぼやけ、目的地つまり現在の自分が務めていることへの障壁となっていたからだ。けれど、今優雄が雨をぼうっと見て、思うことは、この地球が出来た頃から延々と雨は繰り返し降っていて、自分の生きている時間は、流れている雨に較べたらあまりにも短いなということだった。自分は束の間を居座っている客人に過ぎなかった。もし、前世や来世が人にあるのだとしたら、自分は何かから生まれ変わった後だし、その後も何かに生まれ変わるかもしれない。そうなれば思っているよりは長く雨と親しんでいるかもしれないが、人は社会での生活を営んでいるがその前提に、地球の表面上に分散して生きている事実がある。降りしきる雨を見ている優雄は一人でいたが、そこに孤独感は感じていなかった。なにかに充溢されている感じだった。それは森林を前にして樹木とともにいる感じに近いかもしれなかった。あまりに短い人生の更に細分化された瞬間の連続を今として優雄は認識することはせずに受け入れていた。天気が晴れているとこうはならない。雨が人の心に別の世界を拓こうとする秘術なのかもしれない。
しばらくしてから、優雄はまた歩き出した。彼は思った。人の心象は不思議なものだ。衛星やビデオカメラから眺めれば、実際にはどの地点からどの地点へ移動しているのを表すGPSやある物を作り出したり、移したりしていくことしか人はしていないように見える。けれど、いつも歩いている道が嬉しいことあった時とつらいことがあった時では違うように見えることがある。人があらゆるものと関わると心になにかしらの感情をもたらす。この感情を排して生きることを決して人は望まないように思う。勿論、それは人だけでなく、他の哺乳類や全く違う生き物でさえ感情を持つ。それを諦めるという自動的なプロセスには決して陥らない。犬は縄張りを意識し、家畜の豚や牛は痛みを受けては暴れ、猿はグルーミングという毛繕いをし、トカゲは尻尾を残してその場を脱しようとし、海豚や鯨は音波で遠くに交信を図り、鰐は必要でない殺生はせずにのんびりとする。優雄は人の社会で生活しながらも、自分が動物に過ぎないことは忘れていなかった。いってみれば、彼は慎ましく生きようとした。だから、彼は雨と親しくなりたかった。信号のランプが青に変わった。優雄は信号機の近くにある電線が街灯に照らされ、雨に濡れていることをはっきりと見た。彼はそれの上に傘を差したいと思ってしまった。
かなり久しぶりの掌編でした。どうもありがとうございました。