飼い犬の憂鬱
俺の名前はコロだ。犬種は柴犬と何かの雑種らしい。そのせいだとは思うんだが、見た目は普通の柴犬と特に変わりはないんだが(毛の色は茶色だ)、体が少しだけデカいんだ。だからといって特に気にしてはいない。だってよ、俺は殆どの時間をマイホーム(犬小屋)にくくり付けられた鎖で結び付けられていて、そもそもが他の柴犬を見る機会なんてそうそうないしな。つまりは比較対象と対面することも殆どないし、例えそんな奴らと散歩中にすれ違って『あれ?なんかデカいなお前』なんて言われたって傷ついたりなんかしないぜ。
だってよ、俺には大好きなキーちゃんが居るからよ。
このキーちゃんていうのは俺のご主人様を務める中学一年生の女の子なんだがな(大抵のお世話はキーちゃんのお父さんがしてくれているんだがな……)、とっても優しいんだ。優しいって言っても、俺だけに対して優しいわけじゃあないんだぜ。それこそ他所の犬に対しても優しくて、散歩中にすれ違うヤツらのことも可愛い可愛い言ってくしゃくしゃ撫でるんだよ(妬けるぜ)。
キーちゃんの優しさはなにも犬に対してだけってわけじゃあない。道端で見かけた子猫に草をやったり(猫って草好きなのか?)、鳩に向かって口笛を吹いたり、あとは道に迷ったお婆さんを目的地まで案内してやったり。そんな優しさに溢れたキーちゃんは俺の自慢のご主人様なんだぜ。
そんなキーちゃんにもいくつか弱点があってだな……。
一つ目は少しおっちょこちょいなところ。俺がまだこの家に来て間もない頃、腹を空かせた俺を見かねてキーちゃんが玉ねぎを持ってきてくれたことがあってな。俺はなんだかいつもと違う飯だな、程度に思いながらシャキシャキいわせながらその玉ねぎを食っちまったんだよ。あの後はまさに地獄だったな。今思い出しただけでも冬毛がよだつぜ。
腹を下して、食ったものも吐いちまって。そんな俺を見てキーちゃんは、私のせいでごめんねって泣きながら、一晩中俺のマイホームの中で俺のお腹をさすってくれたんだ。俺はそのキーちゃんの姿を見て誓ったね。ああ、ずっとキーちゃんと一緒に居ようって。それからというもの、キーちゃんは俺の飯に一層気を遣ってくれるようになってな。確かあのあたりから俺のドッグフードがちょっといいヤツに変わったんだっけな?後から聞いたんだがよ、安いドッグフードだと健康に悪いものが入っていそうで心配だ!ってキーちゃんがお父さんを説得してくれたみたいなんだ。別に安いヤツも食っていて違和感はなかったし、味もそこそこだったから構わなかったんだけどな。それでもそのキーちゃんの気持ちはうれしかったなあ。
二つ目の弱点はな、ちょっと頼りないところだな。あれは確か俺がまだ二歳だった頃のことかな(ちなみに俺は今、人間で言うところの大体六十歳ぐらいの年齢だ)。小学校に入りたてのキーちゃんは、もう私はお姉さんだから一人でコロの散歩に行く!なんて言い出したんだよ。勿論俺は内心『おいおい、大丈夫か?』って思ったもんだがな、やっぱり大丈夫じゃあなかったんだよな。
あれは夏休みが始まったばかりの時期だったんだが、キーちゃんは昼飯を食い終わると『コロを川まで連れていく!』なんて言って、暑い中俺をマイホームから引きずり出したんだよ。いやいや、俺は川沿いなんて行きたくなかったよ。だってよ、ただでさえ暑いのに、川沿いには木一本生えてないんだもんな。日陰なんてありゃしない。案の定俺は散歩中にばてちまってよ、座り込んでベロ出してハアハアしちまったんだよ。そうしたらさ、キーちゃんが持っていた水筒の水を飲ませてくれてさ。あの水の味は忘れられねえな。冷たくて、体が内側から冷やされていくのがわかったよ。
川沿いをひとしきり歩き終わったとき、キーちゃんが俺に言ったんだよ。帰り道がわからないってさ。俺だって当然わからなかったさ。いつもキーちゃんのお父さんに綱を引かれてヘラヘラしながら歩いていただけだったからな。キーちゃん、段々と不安そうな顔になってきて、最後には泣き出しちまったんだ。俺は仕方ねえなと思いながら、キーちゃんが握っている綱を首輪でぐいぐい引きながら、何となくこっちかなっていう方向に歩いて行ったんだ。
その時はつくづく思ったね。帰巣本能が強くてよかったぜってな。話の結果を言えば、夜の七時頃にキーちゃんと俺は家に帰ることができたんだ。キーちゃん、家に着くなり玄関の扉をガッと開けてさ、お母さーんなんて涙声で叫びながら家の中に入って行っちまったんだよ。俺?俺は長ったらしい綱を首輪にぶら下げたままマイホームで夜を明かしたさ。
あの時は正直どうなることやらと思ったが、今となってはいい思い出、ってヤツだな。楽しかったな。
そんな優しくてちょっぴり頼りないキーちゃんも中学校に入学するとさ、段々と大人っぽくなってよ。背なんかお母さんよりも大きくなっちまったんじゃないか? 部活やら新しい友達やらで色々と忙しくなっちまったみたいで、段々と俺を散歩に連れて行ってくれなくなっちまったんだよな。
そりゃ最初のうちは寂しかったさ。今まで沢山遊んでくれたキーちゃんが、俺のことを気に掛けてくれなくなっちまったんだからな。でもよ、それでいいと思うんだよ、俺はさ。だって考えてもみろよ。もしもキーちゃんが中学生にもなって部活もやらず、友達とも遊ばないで家に居るなんてことになったらどう思うよ?逆に心配になるだろ?俺はさ、キーちゃんが外の世界で楽しいことを見つけ出してくれて、うれしいよ。ちょっとした親心みたいなものなのかな(俺は去勢されたから親の心はわからずじまいだったけどな、チクショウ……)。
そんなキーちゃんを見ていて、ある時ふと思ったんだ。俺もキーちゃんと同じように外の世界を楽しんでみたいってさ。だって考えてもみろよ。物心ついてから俺はずっと鎖の長さの狭い世界の中で生きてきたんだぜ?そう考えるとさ、憂鬱になっちまってよ。俺だって老い先長い人生(犬生?)じゃないからよ、来る日も来る日も必死になって外の世界に出る方法を考えたさ。
そんなある日、お父さんに夕方の散歩に連れて行ってもらったんだ。今にも雪の降りだしそうな寒い日だったな。散歩から帰ってお父さんが俺の首輪にマイホームから伸びた鎖を付けようとした時、お父さんのポケットから変な音が鳴りだしたんだよ。お父さんは手に持っていた鎖を地面に置くなり、ポケットから小さい板みたいなモノを取り出して、それを耳に当ててなんだかぼそぼそと喋り始めたんだよ。俺はお父さんが一体何をしているのか理解できなかったがよ、今だ!と思って半開きの玄関前の門から勢いよく飛び出したんだ。
お父さんは俺が門から飛び出したことに気付いていなかったみたいでよ、なんともあっさり俺の脱出は成功したんだよ。門を飛び出して暫く行く当てもなく走っていたんだが、その時は人間がよく言う自由を感じたし、どんな言葉が当てはまるのか知らないが、山の中を生きているような感覚を取り戻せた気がしたんだ。とにかく気持ちが良かった。
俺が家を飛び出してから何回夜を明かしたかな。ある時ふと気付いたんだ。町中の至る所に俺に似た犬の絵が貼ってあることにさ。俺は『ほう、人間の世界でも柴犬が大きな勢力として認知されているのか』なんて考えて、なんだか誇らしい気持ちになったんだ。
それからまた暫く経った夜のことだ。その夜は何か硬いものを叩くような長く響く音が遠くから聞こえていたんだ。俺はその音を人が土足で出入りする家みたいな建物の横で飯を食いながら聞いていたんだ。そうしたらよ、その家からお父さんと同じ年齢ぐらいの太った人間が出てきて、俺のことを追い払おうとしたんだ。俺はすぐに逃げ出したよ。全速力でね。そうやって敵に追われるのもなんだか山に生きてるって感じがして楽しかったな。
全力で逃げていたら、太陽みたいに明るい光に照らされて、気付いた時には俺は倒れていたんだ。その時、何となく理解したんだ。ああ、俺の命もここまでか、ってさ。
そう考えたらキーちゃんの顔が頭に浮かんできたんだよ。また、キーちゃんに会いたいな。一緒に散歩したいな。頭を撫でてもらいたいな、って思ったよ。でももうそれが叶うことがないってことも何となく理解していたんだ。
外の世界を見てみたいなんて思うべきじゃあなかったんだ。俺は憂鬱な気分になったよ。俺は、キーちゃんたちと過ごしているだけで十分幸せだったんだって。そして、それに気付いていればよかったって。
キーちゃん、今頃何してるんだろうな。また俺が玉ねぎ食っちまった時みたいに泣いてなければいいんだけどな。
キーちゃん、楽しかったよ。さようなら。