戦え、言の葉。
ラジオ番組で
1人旅 ラジオ忍ばせ 2人旅
はダメで
1人でも ラジオ忍ばせ 2人旅
がいいと言う川柳(?、俳句じゃないでしょ、季語が無いもの)の添削をやっていた。
え?そうか、旅が季語?芭蕉の句《旅に病》んだのが、秋(ただの例ですホントの季節は知りません)だったから、季語は秋とか?季語の創り出し方は、特に絶対的な方法論がなく、事例を覚えるしかないでしょう?でも、新たに創られてもいるわけですから、誰か俳句の世界の第一人者が何名かで相談して創ってはいるんでしょう?なら、《完全な絶対》などないというわけでしょう?なんか、ホントに、ややこしいですね、季語。
閑話休題。
テレビでも、プレバト(ちなみに、プレッシャーバトル、の略らしい、プレゼンバトル、の略かと思ってた)で、俳句の添削コーナーが人気でしょ。
という、今やけっこう笑いながらやれたりする添削ですが、そもそも論で、添削して頂いて句が整ったとして、それは自分の句じゃなくなる気がしますがね。それは最早添削者の作品になっていると、私は思うのです。まだ、上の例ではピンと来ないかもしれませんが、中には、「こうすれば、目の前に情景が浮かぶでしょ?」とかおっしゃって、もともとの句と似ても似つかない別ものにされているのをそのテレビ番組で見たこともけっこうな確率でありそうな。
だいたい、ラジオだったので字面はわかりませんが、上の二つにしたところで、どう考えても作者が書きたかったことは、1人旅って本来はちょっと寂しいものだけど、ラジオがあれば寂しさも紛れるわってことでしょう?あと、「1人」と「2人」の旅を連ねて生じるユニークなところを表現したかったのでしょうが、添削後、あえて解説の必要な話になってしまってますよね。とういか、添削後のヤツの良さが私にわからないのがダメなのですかね。でも、その割に、自分の過去の作品には、けっこう(もっとちゃんと整えてから発表しろよって声が頻繁にあがっても可笑しくなくないくらいは)手を入れてしまうのです。結果はともかく、手を入れている時の感覚は、多分わかると思うんですが、別ものになってもいいやと思って大胆に手を入れたりします。
いや、だから何?
と、言われても、ただラジオを聴いていて、ある添削の現場に立会って、それってなんか違うよなぁ、と思ったっていうだけの話ですがね。