第2話 覚醒
聖歴九八八年。
ボルトア大陸の一角に位置するトリアス帝国。
その帝都のはずれにあるスラムの一角で、胸を締め付けられるような感覚に押されて少年は飛び起きた。
「はぁ、はぁ…」
目が覚めても消えない不快感を紛らわすように、少年は胸を強く握りしめる。
そして、全身が汗でびっしょりと濡れていることに気付いた。
全身が熱い。
自分の体内で炎が燃え盛っているような鋭い熱さ、不快な熱さだ。
しかし、それは次第に鋭さを欠き、緩やかな温かさへと変わっていく。
(なんだ…?)
よくわからないが、不快感が消えたのは確かだ。
そうして少しの余裕ができたことで、少年はふと周囲を見渡した。
すると、薄暗く汚れた路地に、屋根の低い粗末な木製の家屋が立ち並んでいるのが見える。
饐えた臭いが鼻を刺激する。
不快な臭いに眉を顰めつつも、少年は少しずつ頭を覚醒させていった。
しかし、いつの間に眠ってしまっていたんだろうか。
記憶がない。
(酒でも飲んでたのか、俺は)
未だ覚醒しきらない頭でそんなことを考えたが、酒を飲んだ覚えはなかった。
周囲にある建物も、日本式の木造家屋とは異なり、見慣れないものばかりだ。
何とも言えぬ違和感を覚える。
(だいたい、俺は飛行機に乗っていたはずだ。そう、俺は…ッ!?)
そうして考え事をしていると目に入ってきた異変に、少年は脳内で悲鳴を上げた。
少年の視界に入って来た自分の手足は幼い子供のそれだったのだ。
そんなばかな。
俺は二十歳の学生だったはずだ。
自分は四十台の医師だったはずだ。
私は三十台の…
(!?!?!?)
重複する記憶。
それに少年は大いに混乱した。
自分が何者なのか、いや、何者だったか分からない。
途方に暮れた少年は自分の手足をゆっくりと見つめる。
それは飽食の日本で暮らしている子供のように綺麗な肌ではなかった。
栄養失調でひどくやせ細っているうえに、乾燥して荒れており、しかも垢で薄汚れている。
(ずいぶんと汚いな…)
少年は混乱していたが、しかし、それとは別に冷静にこの状況を俯瞰する彼がいた。
少年は今一度、自分の様子を確認する。
自分が身に着けているのは麻製のボロい布の服だけだ。
靴なんて上等なものはもちろん履いていない。
どのような目鼻立ちをしているかはわからないが、伸びきった髪の毛は、薄汚れていながらも黒いようであることはわかった。
(夢か?いや……)
自分が感じている、この感覚。
周囲に漂っている、不快な臭い。
自分が座っている、地面の感触。
そして、身体の痛みや倦怠感。
それらは、徹底的に現実だ。
夢じゃない。
ともすればその事実は少年の混乱を加速させそうだが。
しかし、皮肉にも夢じゃないからこそ感じられる生命の危機に、その混乱は最小に抑えられた。
少年が感じた生命の危機。
それは強烈な空腹感である。
現代日本に生きていれば決して知りえないほどに強烈なそれは、死を連想させるに十分であった。
とにかくなにか、なにか口にしなければ、この先長くはないだろう。
なにか訳の分からないことに巻き込まれて、訳も分からないままに死ぬ。
そんな耐えがたい事態を避けるためには、生きるための行動を起こさなければならない。
少年は心中にあった混乱を無理やりに抑えつけ、疲労困憊の体に鞭を打つ。
まずは現状を把握しなければ。
そう考えて少年は今一度自分の周囲に目を向ける。
自分はこのスラムの人間なのだろうか。
こうして路上で意識を失っていた理由はいまいちわからないが、とりあえず今はその点については放置だ。
少年は自らに起きた非常事態を確認するために、地面へと座り、頭を働かせる。
(まずは、ここがどこかだな)
往来の人々の堀の深い顔立ちを見るに、おそらくここは日本ではないのだろう。
日本にある外国人街という可能性もゼロではないが、こんな道路も舗装されていないような外国人街があるとは思えない。
いや、というよりも。
(そもそも、ここは地球なのか?)
さっきから聞こえてくる、街の人々の会話。
その会話自体は少年にも理解できるものだが、どういった言語か分からない。
日本語でもなく英語でもない。
フランス語やドイツ語のようなヨーロッパの言語でもなければ中国語や韓国語のようなアジア圏の言語でもない。
少なくとも、地球のメジャーな言語でないのは確かだ。
(それに…)
そして、少年が気付いたもう一つの、そして最大の違和感。
それは街を歩いている人たちがそれぞれ身体からごく微量の淡い光を放っている、ということだ。
最初は錯覚かと思ったが、目を凝らして視るとどうやらそうでもないらしい。
溢れる光の量は個人差があるようだが、大抵は本当にごく僅かだ。
ふと、自らの身体を見てみると、いつの間にか同じような光が溢れていることに気づいた。
他の人と比べるとかなりの量のように思える。
いや、むしろ垂れ流しになるくらいにあり余っている。
(……ははっ)
あまりの事態に笑ってしまった。
自分が知っている常識とはかけ離れた光景。
地球では絶対にありえない光景。
(馬鹿げてるッ……)
気付けば自分の身体は退行し、見知らぬ土地に放り出され。
さらには、当然のように人々が発光しているおかしな光景。
馬鹿げている。本当に馬鹿げているが――
(……おそらく、ここは地球じゃない)
そうとしか考えられなかった。
それ以外の可能性ももちろんあったが、これが一番腑に落ちた。
(クソッ……!)
考えうる限り、いや、考えもしなかった最悪の事態だ。
到底、簡単に受け入れることは出来そうにない。
だが、自分の知らない街に、自分の知らない言語。
そしてなにより理解の及ばない現象の数々。
それらは、この世界が自分の知る世界でないことを判然と示していた。
「ここは異世界である」と、完全に受け入れることは出来ないが。
実際のところがはっきりするまでは、そう仮定して動いた方が無難だろう。
(……最悪だ。これじゃどうしたって、慎重に動かないといけない)
しかし、この襲い来る飢餓感は如何ともできない。
出来るだけ慎重に、されど可能な限り早急に、この飢えから逃れなければ。
(問題を起こさずに食べ物にありつくには売っているものを買うのが一番だが、そのためには金が必要だ)
だが、自分は金など持っていない。
それどころか金目の物すらありはしない。
これでは物々交換すら望めそうになかった。
(つまり、食べ物を買うには金を稼がないといけないわけだが……)
少年は再び自分の姿を確認する。
いかにもスラムの貧しい子供といった感じだ。
これで仕事にありつけるとは到底思えない。
(いっそのこと盗んでしまうか?いや、……)
背に腹は代えられない。
まともな手段で食べ物を得るのが難しい現状、盗みという選択肢も棄てきれなかった。
しかしその選択肢をとる場合、失敗すれば即積みである。
(どうする…?このままだと本当に餓死しかねないぞ)
空を見上げると、既に日は傾き始めていた。
そろそろ暗くなり始めることだろう。
これ以上考え続けても、決して埒は開かない。
とにかく行動を起こさなければ。
こんなところで、訳も分からず死ぬなんて出来ないのだ。
少年はその身体に鞭を打ち、生きるために動き出した。
主人公はとある理由で精神的にも肉体的にもハイスペック君です。