猫の標(3)
そこで、俺は「じゃあ……」と妥協案を提案することに切り替えた。
「3日前の夜に行こう」
「3日前?」
華月が眉間にしわを寄せる。
「3日前の俺たちに会うんだ。そして、今日起こったことを伝える。それなら俺は動かないですむだろう? 伝えてすぐに帰ってきて病院にいく。これでいいか?」
十中八九、事実を知った俺たちなら、別の行動が取れたかもしれない。そして、何か結果が変わったかもしれない。自分自身ではあるが、他力本願なところが不安を誘うが、でも、他の誰でもない自分自身を信じるしか、今は方法がのこされていないのは確かだ。
「……でも、それなら治療してからでも同じじゃない?」
「ほんの少しだけだ。5分もあれば説明できる」
華月はしばらく黙って俯いた。そして観念したように、「わかった」と呟いた。
「絶対5分で連れて帰るからね」
華月がそう念を押すと、俺の腕を握り締める。華月が目を閉じるのにあわせて俺も目を閉じた。
数秒後。
「……飛んでない」
その声に俺も目を開け、あたりを確認する。確かに、俺の部屋ではない。さっきまでいたリビングだった。
「もう一度!!」
俺は不安をかき消すように声を張り上げた。華月は黙って頷いて再び目を閉じる。しかし結果は変わらない。
「……なんで?」
華月は呆然と自分の手を見つめた。
「力がなくなっちゃったのかな……」
「時間はとめられるか!?」
俺の声に華月は返事もせずに、再び俺の腕を掴んで目をつぶる。
「どうだ? 止まった?」
「……止まってない」
華月は気の抜けた顔で再び自分の両手を見つめている。
力が使えなくなった……?
それは──。
「もう優希ちゃんは助けられない」
華月の呆然と呟いた声が俺の胸を貫いた。
そんな……。
助けられない……助けられなかった……。
じゃあ、なんのために俺たちは!
『まあ、なんにせよ、笑って暮らせてればいいんだ』
不意に優希さんの声が心にこだまする。
見上げた天井が涙で揺れ動く。
『好きなことして、毎日笑って、それが一番贅沢なことじゃない?』
ごめん、優希さん。
何もできなかった。
何もしてやれなかった。
俺たちにはそれが出来たかもしれないのに。
貴方は夢に挑戦することすら出来なかった。あんなに楽しそうに俺に語ってくれた夢を、こんなに早くに手放さないといけないなんて。
本当は、すごく無念だったにちがいない。
だって、あれは優希さんだったんでしょ?
貴方は俺に『助けて』って言ったんだよね。
あの日、桜の下で見た夢の中、確かに聞いた苦しそうな声。
あの声は、俺に助けを求める声だった、そうでしょう?
あの白い猫は……優希さん、貴方だ。そうでしょ?
それなのに、俺は何もしてやれなかった。
何も……。
『これでいいんだ。あんたたちは、あんたたちらしく、楽しく生きていってよ』
不意に、違う優希さんのセリフがこだました。それは、俺の先ほどのおかしな夢のセリフだ。
いいわけない。どう考えても俺の都合のいい夢の中のセリフなはずなんだ。
でも……。
『じゃあ、ね。あんた──颯にあえて楽しかったよ。ありがとう』
どうして、こんなにはっきり耳に残っているんだろう。
夢のはずなのに。
なんでこんなにリアルに感じるんだろう。
そんな別れの言葉なんて聞きたくないのに────。
ぐっと、感情がこみ上げてきて、いっきに全身から溢れた。もう自分ではどうすることも出来ない悲しみと、苦しみに、息も出来ない。
俺は顔をくちゃくちゃにして涙をこらえた。でもすぐに、耐え切れずに両手で顔を覆う懇々と泉のように湧き出る涙は、きっと枯れ果てるまでとまらない。
お礼なんていわないで。
教わったのは俺の方だ。
楽しかったのは俺の方だ。
あなたの夢に俺も夢を見たんだ。
ありがとう。
俺、貴方の分までちゃんと生きるよ。
自分が笑って暮らせるように、夢を探すよ。
だから……。
もう一度あなたに会いたい────。