歯車の回る音(2)
母さんの部屋の前へたどり着くと、すでに中から笑い声と明かりがドアの隙間からこぼれ出ていた。よくよく耳を澄ますと、案の定、前置きと常識というものを空のかなたへすっ飛ばした華月の会話が聞こえてくる。
「だから、ママ食べてあげてよ」
「懐かしいなぁ〜。そういえば毎日ケーキ食べてたね、あの時」
「覚えてるの?」
俺はドアを開けて中へ入ると、ケーキの入ったケースと小さな皿とホークを差し出した。華月に、麦茶を冷蔵庫から持ってくるように指示を出す。
「なんとなく……かな」
途端に母さんの顔が少し曇った気がした。
「私たちのことは!?」
麦茶が入ったボトルとコップを3つ抱えて、走って戻ってきた華月が問いかける。俺はその華月から、コップを受け取りながら母さんを目で追った。
「それも、なんとなく。ところどころなんだ……私ね……」
母さんはそこで言葉を切り、俺から受け取ったコップを見つめる。その表情は、今まで見たことがないくらい、悲痛に満ちていた。
華月が心配そうな顔をしながら、俺を見る。その目が、どうしよう、と言っている気がした。
……何かがあった。
何か、言いたくないようなことが。
それはその場の空気を肌で感じれば、誰にでもわかることだった。そのくらい、部屋は重苦しく、張り詰めている。息をする音すら、大きく聞こえるようだった。
聞いてはいけないのだろうか。
俺は、その答えが出せないまま、じっと母さんを見つめる。
母さんは、はっとなって俺と華月の顔を交互に見やり、ふわりと笑った。
「家族に秘密はいけないよね」
「秘密?」
華月は、その母さんの笑顔で、やっと息が出来る、とでも言うように、ほっとした顔をして見せた。
「秘密っていうか……言ってないことがあるの」
まるで、この重苦しい空気を打ち消すかのように、母さんは明るく俺にケーキを催促しながら、続けた。でも、その声の明るさが、逆にこれから語られようとしていることを暗く浮き彫りにさせるようだった。
「言えなかったこと、かな。私自身の問題なんだけどね」
俺も華月もなんて返事をしていいのか分からずに、母さんの言葉に耳を傾ける。
「ほら〜、せっかくだからケーキ食べようよ」
母さんはにこりと笑いかけた。その目は笑っていない。こんな時まで、俺たちを気遣うその優しさに、母さんの思いやりという心の強さを見た気がした。
「私ね、事故で3年間眠り続けていたことがあったのよ」
そのさらりと出た言葉に、俺は息を呑んだ。華月も口に入れたケーキでのどを詰まらせたようで、慌てて麦茶を流しいれている。
「事故って……」
俺の背中を、冷たい汗が伝っていくような気がした。
「新くんに会う前のことなんだけどね。私、車で事故にあったのよ。だから、今は車運転しないようにしているけど。というより、運転できないんだけどね、怖くて」
そういえば、運転するのはいつも父ばかりだ。てっきり、運転するのが嫌いだとか、車にのると爆睡してしまうとか、道に迷って目的地にたどり着かないとか、そんな理由からだろうと思っていた。
「その事故の時のことは全然思い出せないし、事故前後のこともあやふやなの。目を開けた時には、なぜか病院のベッドの上で……新くんが目の前にいたのよ」
母さんは言い終わる頃には、嬉しそうに、ふふっと笑った。
だが、俺も華月も同時に小首をかしげる。
「待って待って」
「何で父さんが目の前にいるの?」
「だって、まだ事故の前には知り合っていなかったって」
「いつ出会えるわけ? 3年間ずっと寝てたんだろう?」
俺たちの、連携攻撃にも母さんは動じない。さらに可笑しそうに声を上げて笑うだけだった。
「何て説明したらいいんだろうね〜。寝てる間に知り合った?」
「いや、俺に聞かれても!」
「意味わかんないし」
「ははは」
「ははは、じゃない!!」
俺と華月の声が重なるも、母さんはそれ以上説明するつもりはないらしい。ただ、嬉しそうな笑みをたたえるだけだった。
「私を救ってくれたのは、新くんと……優希よ」
再び、俺と華月は同時に小さく声を上げた。
俺の心臓がどくんと跳ね上がる音が聞こえる。
何で、そこに優希さんの名前がでてくるんだ。
一瞬にして俺の中を、黒い雲が覆うようだった。心臓から押し出された血液が、体中をめぐるのが分かるような緊張が俺に走る。
「事故にあった車に、優希も一緒にのってたの」
母さんの投げかける言葉は俺の頭をハンマーで殴ったような衝撃を何度も与えられた。頭が良く回らない。
──今なんて言ったんだ?
先に、口を開いたのは華月だった。
「優希ちゃんはどうなったの?」
華月がごくりと唾を飲み込む音を聞いた気がした。いや、それは俺の音だったのかもしれない。
「優希は……」
その次の言葉を聞かなくても、沈黙がすべてを語っていた。
「うそ……」
華月の手から落ちたホークが、甲高い音を立てる。
他には何も俺の耳に入ってこなかった。まるで、母さんの部屋にいるのに、遥か遠くで聞いているように感じる。
優希さんが母さんと一緒に事故にあった。
そして。
優希さんが死んだ──……。
その瞬間、俺の中で何かがぷちっと音を立てたような気がした。そして、次の瞬間、俺の脳裏に、彼女の様々な表情が鮮明に思い出される。
「好きなことやって、笑って暮らせてれば、充分だよ」
その声が耳に焼き付いて離れない。
その笑顔が瞼を熱くする。
急に胸を締め付けられるような気持ちでいっぱいになった。
もうこの世には居ないなんて。
会えないなんて。
夢を手に入れて、胸を張って生きている優希さんに会えると思ったのに。
絶対、優希さんの店に押しかけてやろうと思っていたのに。
「どう? あたしの城よ。って、勝手にさわるんじゃない!」
なんて言われながら、厨房で料理してやろうと思っていたのに。
死んでしまっているなんて。
俺は、取り繕うことも忘れて、じっと自分の手の甲に落ちる熱い雫を見つめた。後から後からあふれてくる涙で、視界が揺れ動く。
「だって……」
俺の口が勝手に言葉を綴っていた。
「だって……自分の店を持つって……今頑張って、好きなことするって」
だって……。
そんなことって……。
あんなに、楽しそうに夢を語っていたのに──。
俺はその衝撃に、声も出ないでいた。しばらくして、華月のすすり泣く声が耳に入ってきた。顔を上げると、母さんの頬を、静かに涙の雫が伝うのが目に入ってきた。
「優希ちゃんは……」
涙をぼろぼろとこぼしながら、華月が母さんに詰め寄った。
「いつ……?」
母さんは力なく笑い、華月をそっと抱きしめた。
「優希の誕生日。19歳の誕生日に……私のすぐ隣で──」
俺ははっとなって、母さんを見た。
「いつだって!?」
自然と声を荒げてしまうのを押さえることが出来なかった。
「21年前の──4月10日」
華月が俺を勢いよく振り返る。その瞳から、ますます涙が溢れ出す。華月も状況を飲み込むことが出来たのだろう。
なんてことだ。
どうして今日、飛ぶことができないんだ。
俺たちには何もできないのか。
このまま、繰り返される運命に、従うことしかできないのか。
────もっと早く、母さんに聞いていれば!
俺はぐっと唇をかみ締め、震える手を握り占めた。
いや違う。
まだ、何か出来ることがあるはずだ。
そのために、俺たちはきっと──。
「4月10日って……」
華月の弱弱しい声がかすかに耳に届いた。
俺も苦しい胸の痛みとともに、声を搾り出すのが精一杯だった。
「……昨日飛んだのが8日だ」