きっかけはドーナツ(2)
「あ、出た」
その声を合図に俺と華月がぱちりと目を開ける。目に飛び込んで来たのは、母さんに良く似た女性と、見慣れないリビング。あたりを見回すが、置かれたテーブルも、黄色い花柄のカバーのかかったソファーも、白い壁にかかったカレンダーも、まったく記憶の中に引っかかるものはない。初めて目にするものばかりだ。
ここはどこなのだろう。
目の前の女性は誰なのだろう。
俺がきょろきょろしている間に、華月が目の前の女性に抱きついた。
「うおっと」
女性は華月の勢いとペースに押されて、小さく声をあげる。
「優希ちゃん! また来ちゃった」
「いらっしゃい〜」
華月はゆきという女性から体を離し、女性に微笑みかける。まるで自然に、女性は微笑み返した。
ずいぶん馴染んでいるその様子に俺は驚きを禁じえない。
「今日、何日?」
華月は女性に問う。
「4月3日」
「あれ、3日なの?」
「昨日は来なかったのね、絶対来ると思って待ってたのに」
女性はにかっと笑う。
「え〜! こっちの時間では1日しかたってないんだよ。何で2日にこれなかったんだろう」
華月は俺を振り返って答えを求めた。もちろん、その答えを俺が持っているわけもない。
「こんばんは」
女性が俺に微笑みかけた。
「……どうも」
「今日は起きてるんだね」
にやりと笑い、女性はソファーに腰かけた。
「今ね、姉ちゃんは仕事でまだ帰ってこないんだ。千明希は彼氏のところに出かけてるし、まーそろそろ別れるっぽいけど。時間の問題ってやつ? ママは今日は夜勤で帰ってこない」
女性は、話しながらリモコンをつかってテレビの電源を入れる。
「夜勤?」
華月は女性の隣に座り、尋ねた。
「うん、ママは看護師。おとといから夜勤」
「へ〜おばあちゃんは看護師さんだったんだ〜!」
華月が驚いて見せると、女性は興味を示した。
「あれ、知らないんだ? そういえば、私のことも知らなかったみたいだしね」
女性が面白そうに華月の話に食いついてきた。
「うん。私たち、ママの家族のことよく知らないんだ。あんまり会わないし」
「ねえちゃんは、遠くに嫁いだの?」
「ううん、近所。ここから2駅」
「近っ!」
女性は噴出した。
「でもね、この前来た時はね、お金使えなくて電車乗れなかったから、二駅歩いてここまで来たんだけど、すごく遠かったよ」
「歩いてきたの? だから疲れて寝ちゃったわけ?」
けらけらと女性が笑いながら俺を見た。
「情けないよね〜」
華月までが相槌をうって笑う。
俺は、明らかに自分が笑われているのに、なぜかその女性から目が離せなかった。何かが俺のなかで引っかかっていたんだ。
この声……どこかで聞いたような……?
「颯?」
「え、ごめん、何?」
考え事をしていた俺を不振に思った華月が俺を心配そうに見上げている。また倒れてしまうのではないかと思ったのかもしれない。
実際、自分でもいつ限界になるのかが分からないから困る。
前回、こちらに来てどのくらいの時間で倒れたのか、ちゃんと見ておくんだったと何度も後悔したものだ。
「ま〜、せっかく来たんだし、ゆっくりしてけば? 何もないけど。むしろ腹減ったけど」
「あ、私も〜。ね、颯、小腹がすいた」
「……へ〜そら大変だ」
雲行きが怪しくなってきたのをびんびんに感じながらも俺はさらりとかわす気満々でこたえる。
「ドーナツが食べたくなってきた!」
華月が叫ぶと、ユキさんまでがそれに賛同する。
「なに、彼作れるの?」
「めっちゃ上手いよ」
「ほうほうほうほう!」
俺は痛いほどに4つの目から視線が突き刺さり、降参というように両手を挙げた。
「……台所かります」
「喜んで。手伝いましょう、シェフ」
俺はげんなりしながらも、立ち上がった優希さんの後に続いた。
まさか、タイムスリップを経験し、21年前の人様の家の台所で料理する羽目になるとは……。
世知辛い世の中だと思い知る、15の夜だった。