猫の恩返し(2)
俺たちが所属する水泳部の練習が終わり、家路につく頃には夜の9時を回っていた。今日は、月に1度のプールの清掃日で、これは華月や俺を含む、1年生全員の仕事だった。足腰を鍛える、という名目の元、水を抜いた50メートル温水プールの掃除をさせられる。
俺も華月もクタクタになりながら、校門を抜けた。
「かづ、寝るなよ」
眠そうな顔をしながら、フラフラ歩く華月を見ながら、俺はそう声をかけた。
「寝てない…」
「鞄、ちゃんと持って、ほら」
今にも華月の手から零れ落ちそうな鞄を、持ち直させてやる。しかし、その手は力なく、反応も鈍い。
これは、急いで帰らないと、歩きながら寝かねない。さすがに、今は華月をおぶって帰る体力は残されていなかった。
「かづ、頑張って」
そんな俺の声に、よくわからない言葉で応答する華月に、いよいよ身の危険を感じた。
絶対、寝る!
十五年の経験と俺の直感がそう言っていた。
俺は、とりあえず自動販売機で冷たいスポーツドリンクを華月に買い与え、意味を成さない言葉で抗議を続ける華月に何とか飲ませ、一刻も早く帰宅すべく近道を通る決意をした。
決意、というのは、それが近道をするには、かなり決意が必要な道であるからだ。
この近辺で育った子供ならば、『あの道は、夜は危ないからと追ってはいけない』と、刷り込まれている。
近道、それは、朝、二人登校した道。猫を置いてきた川原沿いの道のことだ。
その道は、今だ舗装されておらず、外灯もままならない。人がすれ違うことも困難な細い道。その道の両脇は、大きな桜が立ち並んでいる。春になれば、花見客も大勢訪れるような美しい光景が見られるのだが、日が落ちればその風景は一変する。その見事な桜の木の枝が横に広がって、外灯はおろか、月明かりすらも遮ってしまう。
当然、日が落ちたらその道を使うことは、幼い頃から禁じられていた。もちろん、女の子の華月がそこを一人で通るなんてことは、決して、決して、決してあってはならないと、我らが父上がそれはもう、半ば泣き落としのように、口うるさく、懇切丁寧に説明して見せたものだった。
今日はこんな状態だし、一刻も早く帰りたい。
俺は心の中で、父にごめんと一応謝って、左手に華月と自分の鞄を抱え、右手で、すでに半分以上まぶたが閉じている華月の腕をつかんで、ずんずんとその川原沿いの道を進んでいった。
薄暗いその道の木々は、1ヶ月前までは桜の枝にたくさんの美しいピンク色の花を付けていた。二人で遅刻回避のための走り込み(華月はこれを体力トレーニングのための早朝マラソンなどと言うが)の最中に、毎日のようにその花びらに見送られながら、花見を満喫しつつ登校したものだった。
今は、その枝にはたくさんの葉が茂っている。それがまた、川原沿いの道を進む俺たちから光を奪っていた。
幼い頃に植えつけられた約束を破ることへの罪悪感か、それとも暗闇の恐怖からか、自然と足は速くなっていた。
華月もいつの間にか眠気が吹っ飛んだようで、足取りもしっかりしている。しかし、逆に暗闇の恐怖が華月を襲い始めているようだった。
「颯…」
華月が声を震わせている。華月の恐怖が俺がつかんでいる華月の腕からも伝わってくる。
「早く、帰ろう」
「う、うん」
「暗いから、転ぶなよ」
そういって、華月を振り返った時だった。
俺の横目に、何か白いものがぼんやりと、目に飛び込んできた。
なんとなく、気になってそっちを見る。
急に足を止めて、川原のほうを眺める俺につられて、華月もそちらに目をやった。
「あ…昼間の…」
華月がつぶやいた。
こちらからすこし離れた大きな桜の木の下に、ぼんやりと白い猫の姿が映し出されていた。
「君、待ってたんだ!」
そういい終わるが早いか、華月が俺の手を振り解いて、猫の方へ、つまり、川原の方へ走り寄っていった。
「華月!」
ぎょっとして、華月を追いかける。
「待て!」
華月の腕を再びつかんだときは、すでに猫の前にたどり着いていた。
華月はそんな俺をよそに、実に嬉しそうにこちらを振り返った。
「颯、この子昼間の子だよね」
「そうかもね…」
正直、そんなことはどうでもよかった。早いところ、この道から抜け出して、家に帰りたい気持ちが大きかったからだ。それなのに、華月は、今まで自分で持ちもしなかった、自分の鞄を俺から奪い取って、ごそごそと鞄の中を漁りだす。
「う〜ん…ごめん、食べ物もってないかも」。
「かづ、今日はもう遅いから帰ろう。母さんが心配する」
帰るときに、今日は遅くなったから、メールで連絡は抜かりなく入れておいたが、それでも心配するのが親というものだろう。
そして、今日はきっと、母さんが夕飯を作っているに違いないが、その夕飯を作ったあとのことを思うとうんざりする。
料理は食べる専門の母上である。ごくたまに作る料理も、味や見た目はそれほど悪くない。むしろ、いいほうだろう。ちょっとオリジナリティー溢れていて理解できないときはあるが。
この間は、牛肉しかないのに、豚汁を作ると言い出して、牛肉の臭みがたっぷりな味噌汁が出てきた。こっそりピーマンが入ってるという独創的なその牛肉ピーマン炒め風味噌汁が、不思議味の一品だったのは言うまでもない。
そこまでは、俺も許せる。…頑張れば。作っていただいたのだから、顔に出さないように、文句を言わないように、感謝の気持ちを込めて残さず食べる努力をしよう。食べ物を粗末にしてはいけない。
問題は、そのあとの台所。
ガスレンジの上の換気扇に何か茶色い5センチ大の物体が、べとっとへばりついて、これは何だろう、としばらく考え込んでいたら、「あ、味噌がね、上に飛んじゃったの」と飄々と言われた時には、「へー…味噌なんだ、これ…」と切ない気持ちになったものだった。
そのあと、どうして味噌が換気扇につくのかについて考えながら、無言で1時間かけて台所をピカピカにした息子に、父は軽く肩をぽんぽんと叩いて、ため息を一つ漏らして自室に戻っていった。今だ、その怪奇現象については結論がでていない。母上はどうやら、普通の市販の味噌を、空飛ぶ味噌に変えてしまったらしい。その不思議パワーを華月に遺伝させないでほしと心底思ったが、これは俺のわがままなのだろうか。
きっと、今も台所は大惨事か怪奇現象を迎えていることだろう。そして、クタクタな現状に、追い討ちを掛けるようなその台所掃除が待っているかと思うと、早いこと帰って、ぴかぴかに片付けて、とっとと寝たい、というのが切なる今の俺の願いだった。
しかし、そんなことは、台所の惨事をまったく気にしないのと同じく、気にも留めていない華月は、この猫のことが気になって仕方ないのだろう。助けたついでに、家につれて帰りたいと言い出さないか、内心ヒヤヒヤしてた俺がいた。なぜなら、その華月が拾った猫の世話をするのは、当然、俺だからだ。
「華月、帰ろう」
「ん〜…でも〜」
華月は諦めきれず、まだ、鞄をあさっている。
どうやって華月をつれて帰ろうかと考えあぐねていた、その時。
強い風が、川原からそこら一帯を包み込んだ。
その風の強さに俺までもが思わず、うわっ、と声を上げて、目を瞑る。
桜の木が揺れて、葉たちの唄が降り注いできた。
なんだったんだ、今の風は。
そう思った、まさにその瞬間。
─── オマエ モウスグ キエル
「は?」
先に声をあげたのは華月だった。
「今、颯、なんか言った?」
「いや?」
俺たちは顔を見合わせて…同時に視線を足元に移した。そして、再び顔を見合わせて、はは、っと笑った。
そんなまさか。
おそらく華月も同時にそう思ったに違いない。こういう時は双子であることを実感する。
でも、すぐにまた、同時に俺たちは顔を凍りつかせた。
─── オマエ ワタシヲ タスケタ。
ダカラ オマエヲ タスケル。
自分の耳を疑った。
正確には耳でもない。じゃあ、何なのか、と問われてもその答えを持っていなかった。
「颯。あたしのほっぺた、つねって」
頭が真っ白になっている俺に、華月がそう言った。俺は、それ、から視線をそらさないで、華月の頬を軽くつねった。
「痛い?」
「ありえないくらい痛い…」
華月はとても痛そうに自分のほっぺたを擦っている。
「…なんか俺もほっぺた痛くなってきた…」
「颯のほっぺ、私つねってないって」
「そうだけど。なんとなく」
そう言って俺も、自分の頬を手でさすった。
「ねえ、颯」
信じられる?と言いたげな華月の顔が横にあった。
「うん、かづ」
いったい、何がどうしてこうなってるんだろう。
というか、今何が起こった?
信じられないけど、でも、俺だけが聞いたんじゃない。華月もちゃんと聞いていたのは華月の反応から明らかだ。
つまり。
今、この目の前にいる…。
「この猫、しゃべったよね」
二人の声が、重なった。
目の前のそれ、つまり猫は、俺たちを見上げながら、ふにふにと白いしっぽを動かしている。何事も無かったように。
でも、間違いではないようだった。
確かに、“聞こえた”。
─── オマエニ カシテヤル と。