重くなったリュック(2)
10分後。
私たちは、川原に居た。
颯が選んだのは、私たちがあの白い猫を助けた日。
私たちが川原にタイムスリップしてきたちょうどその時、川原沿いの道を悲鳴を上げて走る私の後ろ姿と、二人分の荷物を抱えてその私を追いかける颯の後ろ姿が小さく見えた。
タイムスリップは成功したみたい。
時間的にもぴったりでパーフェクトにね。
私は左手に握っていたスニーカーを急いで履くと、背負っていたリュックをぽいっと放りだして、川原の方に走り出した。
「あ、こら華月! ちょっとまて!」
後から颯の慌てた声が聞こえる。
「それ、よろしく!」
私はリュックを指差して、ひらひらと手を振り、先を急ぐ。
だいたい、リュックの中身は、万が一、タイムスリップが失敗したとき、そして帰って来れなかった時のために、颯が用意した荷物だ。
寒いといけないから上着とかジャージとか、私が持ってたありったけのお金とか。
こっそり台所にいってペットボトルに水を入れ、ママの密かな楽しみであるお菓子まで拝借してきて、リュックに詰め込んだ。
もちろん、全部、心配性な颯隊長のご指示にしたがったまで。
けれど、重いったらありゃしないし、走るのに邪魔なのは言うまでもない。もしかしたら、それが颯のねらいだったのかもしれないけどね。
身軽になった私は、あの大きな桜の木の下に標的の猫を見つけた。
「ちょっと、話を聞こうじゃないの!」
私は叫びながら、猫の前に仁王立ちし、にらみをきかせた。
なんて堂々とした猫なんだろう。普通、猫はこういうとき、びっくりしていつでも逃げられる体勢にかまえるものなんじゃないのかしら。
ところが、この猫ときたらどうだろう。じっとこちらを見つめたまま、目をそらすこともなく、背をぴんと伸ばして座っている。
きっと気品があるっていうのは、こういう時につかう言葉なんじゃないかと思う。
「いったいどういう事なのか説明してくれる?」
私は、負けじと、猫を見下ろしながら続けた。
「私たちに何したのよ」
どうして、タイムスリップが出来るようになったのか。
どうして、時間が止められるようになったのか。
どうして、颯が予知夢を見るようになったのか。
なんでママが死にそうになったのか。
聞きたいことは山ほどある。どれから聞いていいのか分からないくらい。
「さあ、答えなさいよ!」
私がたたみかけるように言っても、目の前の白い動物は、しっぽをふにふにと動かすだけだった。
そればかりか、小さくあくびをすると、桜の木の下から川原の方へ歩き出そうとした。
私は、そうはさせるかと、さっと回り込んで猫の前に立ちふさがる。
「もう逃げられないよ」
私はにやりと笑みを浮かべた。
私は、猫との距離をじりじりと詰め寄る。
猫はそれ以上、歩こうとせずにまっすぐその強い青い瞳をこちらに向ける。
追い詰めたのは私のはずだったのに、逆にこっちが捕らえられたみたいだった。
動けない。
ごくりと私は生唾を飲み込むのが精一杯だった。
「華月!」
背後からやっと追いついた颯が声を掛けてきたけど、私は猫から目をそらさなかった。
颯は私の先の猫に視線をうつしたのだろう。まもなく、「……居たか」という颯の抑揚のない呟きが聞こえてきた。
その時、初夏の香りがただよう川原からの風が、私たちを包み込んだ。
頭上の大きな桜の木が囁くように歌ったように感じた。
その風でなびいた猫の白い毛が月明かりを反射し、キラキラと光って見える。
なんて綺麗なんだろう。
まるでガラス細工みたいだ。そう思った。
でも、何かがおかしい。
私は眉をひそめる。
だって、こんなに桜の葉が生い茂った桜の木の根本に居るのに、なんでこんなに周りの様子がはっきり見えるのだろう。
まるで、街灯がそこにあるかみたいに明るく感じる。
私は、頭上に視線を移す。
桜の葉の間からかすかに、ぼんやりとした輪郭の月が見えた。
やっぱりおかしい。
こんな微かな月明かりで、こんなに桜の木一帯が明るく見えるわけがない。
どうしてこんなに猫が輝いて見えるのだろう。
なんなんだろう、この猫。
私はこの不思議な現象を目の前にしているのに、なんだかワクワクしてきた。
自分でも不思議だけど、ちっとも恐くはない。
それはきっと……。
私は隣に立つ颯の顔をそっと見上げた。その存在だけで、表現できない安心感を感じる。
颯がいれば、私は何でもできる。
颯がいてくれるから、私は自由に動ける。
私はぐっと唇の端に力を込めて、再び猫に向き直った。
「説明してくれ」
颯が静かに口を開いた。
すると……。
――ナニヲ シニ キタ
低い声が私の頭の中に響いた。まるで、おじいさんの声だ。
そして、それは以前聞いたあの日の猫の声と同じ声だった。
私は颯を振り返る。颯は私と目を合わせ、頷いた。
「お前に会いに来た」
颯が短く答える。
「お前は俺たちに何をしたんだ」
再び、川原からの風が草や葉の存在を告げる。
長く重い沈黙に感じた。知らず知らず、私はつばを飲み込んでしまう。
――ジカン ガ ナイ
「時間?」
私が口を開くまえに、颯が眉間にしわを寄せて聞き返す。
時間て何?
何の時間?
――オマエ モウスグ キエル。 ハヤク イケ。
「は? 消える? 意味分かんないんだけど、分かるように説明してくれない?」
私は猫に視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
しかし、その私の要望には応えるきはないらしい。
猫は黙ったまましっぽを動かすだけだった。
「行くってどこに行けばいいんだ?」
そんな颯の質問にも答えず、猫はゆっくりと桜を見上げた。
つられて、私も桜に視線を移す。青々とした葉が生い茂って力強い印象が強い。
その枝は太く横に伸び、根も幹も雄々しい。
つい数ヶ月前には、この木にはピンク色の小さな花びらが咲き誇っていたはずなのに、そんな様子はまったく想像できない。
――ハヤク……
私は、その声にはっとして猫を見た。その猫の姿は、だんだんと薄くなって、そして、すーっと消えてしまった。
「え?」
私と颯は小さく声をあげ、二人で顔を見合わせた。
と、同時に、颯の体が揺れた。颯の驚きの表情が一変する。
まるでスローモーションのように、颯はうつぶせに────倒れた!
数秒後、私の悲鳴が川原に響き渡った……。