一章 猫の恩返し(1)
まだ新しい制服の裾を翻しながら、華月が俺の前を走っている。俺と華月にとっては、いつもと変わりばえしない月曜日の光景だ。
華月と同じ近所の高校へ通うようになってから1ヶ月ちょっと。
それはもうランドセルを背負いだした時から、幾度となく繰り返されてきた登校風景だ。
こういう時、先頭を走るのは、決まって華月の方になる。いつから、そうしたのかもう思い出せない。それまでは、待ってよ〜、と後ろから追いかける華月のことなどお構いなしに、どこへ行くにも俺が競って先頭を走っていた。
もう、あの頃とは違う。
俺が前を譲るようになった頃、「どうしたの?」と華月が不思議そうに問いかけてきたことがあった。
わざわざ、危なっかしい華月がこけたり、ぶつかったり、しないように、そして、華月に進行スピードを合わすために、などと正直に恥ずかしいことを言うバカはいない。いや、俺は一人その恥ずかしい人を知っている。俺と半分遺伝子がまったく同じ、生物学上の父親だ。
しかし、そもそも、こうやって母さんや華月の後ろから、ひょこひょこと、くっついていって、普段は放任しつつ、危険な時にとっさに手を出すというのは父のスタイルだ。そして、同時に、俺が物心ついたときに刷り込まれた困ったスキルでもある。
鉄は熱いうちに打て。
三つ子の魂百までも。
これは父を育てた祖母の教育方針のようだ。何も、それを真似することないとは思う。おそらく父の策略で、自分が手が回らないときに、俺に二人のお守りをさせようという計画は、まんまと現在進行形で成功している。それはもう、父は早くから実行に移したに違いない。そして、これはほぼ確信だ。なぜなら、悲しいことにというか、これも陰謀のような気がするが、俺と父の思考はよく似ているからだ。
ちなみに、もう一つの祖母の教育方針は、働かざるもの食うべからず。
これは、なぜか華月と母さんには適用されない。
我が家は、男尊女卑どころか、女尊男卑。いや、姫が二人いる。こっちの方が正しいだろう。
さらに、いつまでもあると思うな親と金。これは祖母の座右の銘。父が昔ため息をつきながら、そう教えてくれたことがあった。いうまでも無いが、それも我が家に世襲された。
ふと俺は気がついた。
「華月?」
なんだか、心ここにあらずな華月に、俺は後ろから低い声を投げかける。
ただでさえ、注意力散漫な華月が考え事をしているときは、歩く凶器か、歩く災害か、歩く台風の目のどれかで表現できる気がする。だから、未然に防ぐのが最大のポイントだ。
「ぼーっと走ってるとコケるぞ」
「うるさいな…」
えらく不満そうな声が返ってきた。
なんだ?反抗期か?
今朝は甘ったれて自分にへばりついていた華月が急にヘソを曲げた理由が、とんと思い当たらなくて、自然に眉間にシワがよる。
内心、今までにない華月の態度に、俺は困惑していた。顔には出さないから、華月は気がついていないだろうが…。
これが、お年頃ってやつか?
自分もその“お年頃”なはずなのに、周囲の友人や、親戚を含む大人たちは「雪月(颯き)君は落ち着いているね」「颯君はかづちゃんの父親みたいだね」などと言う。実際、最近華月は自分の娘なのではないかと思う時もある。妻も居ないのに、子育てしている気分になる高校1年の健全な男児なんて、たしかに、老け込んでるのかもしれない、とたまに自分で思って落ち込む事もある。
そうなったのも、我が家の家族構成員が原因としか考えられない。
やることなすこと危なっかしくて見ていられないのに、自由奔放すぎてやたら手のかかる母。
そのDNAを色濃く受け継ぎすぎ、というか、父の遺伝子どこへいったんだ、と思わず突っ込みたくなるような姉。
苦労性、かつ心配性、かつ仕事で多忙を極める父の気苦労を少しでも軽減させてあげよう、と、父の代役を勤めるのは自分しかいないのだ、と覚り切ったのは、4歳のことだったと記憶している。そういう自分も父のDNAを色濃く受け継ぎ過ぎたのかもしれない。
そんなことを考えながら小さくため息をついた時、目の前の歩行者用信号が青に点灯した。
同時に、だーっと、まるで徒競走のピストルが鳴ったかのように、華月が一目散に走り始めたので、げ、と俺は小さく呻いた。
…たく、青になったからって左右ちゃんと確認してから渡れと、何度言ったら…
と、また後で華月に説教しなきゃな、と思った時だった。
あぶない!
横断歩道を渡り始めた俺の足元を、さっと何かがすり抜けていって、うっかり踏みそうになったと思った瞬間、それは数歩前にいる華月をも通り過ぎ、やっぱり華月も足がもつれそうになりながらも、それを何とかやり過ごす。
そして!
「あっ!」
自転車の甲高いブレーキ音と華月の声が重なった。
横断歩道の向かい側から勢いよく走ってきた自転車が、それ、をよけ切れないと思ったのだ。反射的に華月はそれを拾い上げようと、自転車の前に立ちふさがった。彼女の反射神経は、父親譲りでそれは、こんな時はとっても役に立つ。立つのだが…間一髪、自転車をやり過ごしても、華月の体は横断歩道から車道に転げ出てしまおうとしていた。
「華月!」
冷や汗がでた。
とっさに、俺は華月の腕を力いっぱい自分の方へ引っ張り寄せた。
「…あっぶね〜…」
タッチの差で、華月と前方から走ってきた車との接触は免れた。たぶん、今、俺の顔を鏡で見たら、真っ青に違いない。
「危なかったね!」
華月は、俺の腕の中で、そう言った。
でも、この会話は成り立っているようで、成り立っていない。
絶対だ。
ほっとした後に、くるのはなぜ苛立ちなのだろう。
「…わかってないだろう、華月」
「え?猫、無事だよ?ほら!」
華月は、自分の腕の中の白い猫の首根っこを、わしっとつかんで、俺の目の前にぶらりと宙ぶらりんな猫を見せてみせた。
いつも、華月はこうだ。やっぱり何も分かっちゃいない。
俺の心臓が止まりそうなほど、危なかったことも。現在進行形で、俺の怒りメーターが急上昇していることも。
「……今、その猫のおかげで、華月が引かれそうになったの」
「え?」
華月は思っても見なかっただろうことを言われ、目を見開いた。
「……怪我は?」
「どこも痛くないよ」
「なら、いいけど。後で、こってり父さんに説教されろ」
「げ…パパに言うの?」
華月は泣きそうな顔になった。
「当たり前だ。…ていうか、遅刻するぞ」
「あっ!そうだった!」
華月と母さんの説教は、やっぱり父に任せることにしている。俺の口から言っても、あんまり効果がないのが身にしみてよくわかっているからだ。父の長い長いありがたい説教を華月にしっかりしてもらおう。そして、俺は心に誓った。自分の娘がもし出来たら、こんな甘やかさない。……たぶん。
華月はとりあえず猫を抱えて走り、おかげで両手がふさがったことを理由に、華月の分の鞄を俺が抱え、先を急いだ。
そして、今日も今日とて、近道だ、といいながら華月を先頭に、川原沿いの道を走り抜けていた。
「ていうか!華月!」
川原沿いの細い砂利道を一列になって走りながら、いっこうに猫を手放そうとしない華月に声をかけた。
「それ、学校まで連れてく気か?」
とたんに、ぴたっと華月が足を止めて、俺はぶつかりそうになりながらも、何とかそれを避ける。
「急に止まるな!」
そんな俺の抗議なんぞ、華月の耳には届いてない。
華月は、そっとその猫を地面に下ろした。
「…とりあえず、君はここに居たまえ。学校が終わったら、君の身の振り方を一緒に考えようじゃないか。おやつも持ってきてやる。しばらく、ここで姫の帰りを待つとよいぞ」
華月は猫に向かって人差し指を突きつけ、得意げにそう言った。
「誰が、姫だ。…て、猫にわかるか!」
「爺や、参るぞ」
言い終わるが早いか、華月は身軽になって、走り出す。
「誰が、爺やだ!て、こら!鞄、自分で持て!」
「おお、遅刻、遅刻ぞよ〜」
そういって、俺たちが走り去ったその後姿を、白い猫がじっと眺めて、そして、すっとどこかに姿を消したことなど、俺たちは気がつきもしなかった。