テイクオフ(2)
5月28日、午後10時半頃。
こういう時の華月は、文句がつけられない。
俺はいつものように風呂から上がって、タオルで頭を拭きながら自室のドアを開けた。
「……」
そこには、俺のベッドの上で正座している華月の姿があった。俺の顔はおそらく引きつっていただろう。
……見なかったことにしよう。
無言のままに、ドアを閉めようと試みる。
「ちょ、ちょ、ちょっと!颯っ!」
華月があわててこちらに駆け寄り、もう一息で閉まるところだったドアの隙間に自分の足を突っ込み、それを阻止する。
俺は心の中で舌打ちをした。
こういう時ばかり、反応の早い華月だ。
「約束だよ!」
「……そうだっけ?」
「風呂も入ったし!」
「聞いてないし」
「歯磨きもしたし!」
「聞いてないから…」
華月は得意げにいちいち俺に人差し指を突きつけながら報告する。
報告内容は幼稚園児と変わらない気がするのは俺だけだろうか…。
さあ、どこからでもかかって来いと言わんばかりに華月は胸を逸らした。
「……宿題は終わったんっすか?」
「終わらせました!今日は真帆ちゃんと学校で休み時間にやっちゃったもんね!」
「……それはそれは」
もう一度言う。
こういう時、だけ、華月は完璧だ。
俺の教育の賜物なのか…?
喜ぶべきなのか…?
「じゃあ…」
俺が口を開くと、華月は目を輝かせて俺の次の言葉を待つ。
「……」
「じゃあ〜?」
「自分の部屋でおやすみください」
俺は早口で言い終わるや否や、ドアを大きく開けて華月の横をすり抜け、布団にもぐりこんだ。
「は〜っ!?」
布団の外から、華月の絶叫が聞こえる。
「本日のご来室ありがとうございました。すでに颯くんは寝ています。速やかに退出してください」
俺はわざと鼻をつまんで、電車のアナウンスのような声をだした。
すると、返事の変わりに、華月得意のヘッドスライディングが炸裂した。
勢いよく、華月の怒りのこもった攻撃に、俺は呻く。しかし、華月の攻撃は続いた。
俺に馬乗りになったまま、俺の横腹をくすぐり始めたのだ。
「ひぃ〜!や、やめてくださいお代官さま!」
「良いではないか〜」
「お、お許しを〜…うはははは」
「私の言うことを聞くか?」
「いひゃひゃひゃ、こんの横暴ですっ!」
「ええい、うるさい。まだやるか〜こうしてくれる」
華月は器用にクルリと向きを変え、俺の足の裏をくすぐり始めた。
これはたまらない。
「ギブギブ! お代官様、仰せに従いますっ!」
俺が観念すると、華月は満足げに
「うむ。最初からそのようにしていればよかったものを」と言いながら俺の上から降りた。
その時だった。
ガチャっという音とともに俺の部屋のドアがほんの少しだけ開いた。
俺も華月もドアの方をみる。
しかし、誰も入ってこない。俺たちは顔を見合わせて首を傾げた。
「ママ?」
華月はドアを開けて廊下を確認する。キョロキョロと見回すも、すぐに俺の方を振り返り、首を横に振った。
誰も居ないらしい。
「風かなぁ?」
「窓開いてないのに?」
「ほんとだ〜」
「母さんたちが、あんまり俺らがうるさいから覗きにきたんじゃないの?」
「楽しそうだから文句も言わずに静かに戻ったのかなぁ?」
「……楽しそう? 苦しそうの間違えじゃ?」
「え、ちょー楽しいじゃん、悪代官ごっこ」
「…………」
「おぬしも悪よのう〜ふぉふぉふぉ」
「お代官様こそっ!」
腹いせに、俺は華月にむかって枕を投げた。しかし、華月は枕をキャッチし、さらに高らかに笑った。
「ふぉ〜〜っふぉっふぉっ」
越後屋のため息と悪代官の笑い声が、部屋に響き渡った。
時刻は5月28日、午後22時47分。