あの猫だね(2)
落ちる!と思った瞬間、私も颯も手を伸ばしていた。
私は倒れてきたママを両手で受け止める。
でも、その勢いで、ふわりと後ろに倒れそうになった。
やばい、落ちる!
そう思って、目をぎゅっと瞑ったとき、力強い腕に引っ張られた。
颯だった。
颯の手は片手を手すり、もう片方を私の腕を掴んでる。
ママは私の腕の中。
派手な音を立てて、ママの鞄だけが、階段を落ちていった。
「…あっぶねぇ…」
颯が深いため息をついた。
私も落ちるかと思った…怖かった…。
ほっとしたら私もため息が出た。
「…怖かった…落ちるかと思った…」
ママが、そんなことを言いながら私の顔を見る。
「え?かづ?…あれ?颯まで!」
ママはすっとんきょうな声を上げてる。
のんきなもんだなあ…今死に掛けたのに…。
なんだか、急に腹が立ってきた。
「ママ!階段気をつけてよ!」
「…うわ、びっくりした。かづに叱られるなんて」
「びっくりしたじゃないよ!死ぬとこだったんだよ!」
思わず声を荒げた私に、周りの人が視線を投げかけてくる。
なのに、ママはそんなのお構いなし。
「死ぬなんて、大げさね〜!ちょっと落ちそうになっただけじゃない」
私の頭から血の気が引いた。
颯の言うとおりだった。あの時私が飛び出して、階段に気をつけるように言ったところで、こんな会話が繰り広げるだけだったと思う。
「母さん」
それまで黙って、ママの代わりに落ちた鞄と荷物を拾い上げていた颯が、地の底から湧きってきたような怖い声でママを呼んだ。
思わず、私までビクッと体を震わすほど、颯の目は据わってた。
こ、怖すぎる…。
もしかしなくても、ものすごい怒ってる…。
「とりあえず、通行人の邪魔だから」
颯は邪魔にならない場所まで移動することを私たちに促すと、深い重いため息を付いた。
「母さん」
「は、はい」
思わずどもってしまうママの気持ちもわかるけど、今は同情しない。
「今ね、母さんを助けようとした華月まで、落ちそうになったんだよ、気がついてた?」
「え?」
とたんに、ママの顔が青ざめた。
「母さんだけじゃなくて、ほかの人も巻き込むこともあるんだから、気をつけてよ」
ママは、私の顔を眺めてから、もう一度颯を見た。
ママの顔が、苦しそうに歪んだ…。
本当に死にそうだったことに、気がついたのかな。
「うん、ごめんね。気をつける」
ママは、今度は反省したみたいだった。
私がほっとするのと、颯がため息を付くのが一緒だった。
「わかったならいいよ。帰ってきたら、たっぷり父さんに説教してもらうから」
颯はにやっと笑った。
「げっ」
「うわ…説教長そう〜…」
私とママの顔が同時にひきつる。
「事細かに、報告するからそのつもりで」
「…がーん…」
そんな泣きそうなママの顔を見て、思わず私は笑顔になった。
颯もニヤニヤ笑っている。
「母さん、ほら、遅刻するよ〜?」
「はっ!そうだった!」
ママは、腕時計を見て、やばいっ小さくつぶやいて、颯の差し出した自分の鞄を受け取った。
「あんたたちも、遅刻するよっ。気をつけていっておいでっ」
そういい終わる前に、ママは階段を再び駆け上がろうとした。
でも、そこでピタっと動きを止める。
「気をつけます」
ママは颯の方を見て、笑顔でそう言った。
「そうしてください」
颯は、クスっと笑った。
……こういう時、私はママの子なんだなって、ちょっとだけ思う…。
身に覚えのある会話だな、と思っただけだけど。
「はぁい。二人とも、ありがとう!いってきます」
ママはとびっきりの笑顔で、こちらに手を振った。
「いってらっしゃい」
私たちは、久しぶりに、ママを見送った。
最近、そういえば私たちより先に仕事に出かけるママを見送りするのは、パパで。
ママに『いってらっしゃい』って言ってないことに気がついた。
「『いってきます』って何のために言うか知ってる?」
私はママの背中を目で追いながら、颯にそう言った。
「なんだよ、急に」
颯の方を見ると、なんだか嬉しそうだった。
「昔ママに教えてもらったの」
「母さんに?」
「うん」
颯は再び、もうママの見えなくなった、階段を見た。
だから、なんとなく、私もそっちを見る。
「『いってきます』はね、『ただいま』を言うために言うんだって」
「…なるほど」
「ママ…帰ってくるよね」
これで、ちゃんと今日家に帰ってくるよね。
大丈夫だよね。
「…そうだな」
颯の優しい声が、私を安心させた。
きっと大丈夫。
そう思ったら、目頭が熱くなってきた。
私たちは、しばらくそのまま、ママの見えなくなった背中を追いかけていた。
「ところで、かづ」
沈黙をやぶったのは、颯だった。
「ん?」
「俺たち、どうやって28日にもどるんだろう…」
「そうじゃん!どうすんだろう!」
そもそも、どうしてタイムスリップしちゃったかも分からないのに。
もどれるの!?
「…もどらないで、このまま学校へ行けって事かな…」
颯が、そんなことを言い出した。
「やめてよ…ほっとしたら眠くなってきたんだから私…」
「俺も…」
「家で寝たいよ…」
私たちは、がっくりとうなだれて、肩を落とした。
「でも、学校行くにも…手ぶらだよ…」
「あ、そうか。どっちにしても家に戻らないといけないのか…」
手ぶらで学校に行ったら、先生たちに何言われるかわからないし…。
「帰るか…」
「そうだね…」
27日をもう一度やり直すってことよね、私たちだけ。
なんかそれも不思議な話だけど。
そんなことを考えながら、颯の後をついて私も歩き出した時、颯が私の腕をぐいっと引っ張った。
「前、ちゃんと見て」
通勤時間の駅で、何も考えずに、前に歩こうとして人にぶつかりそうになった私を颯が、かばってくれた。
「あ、ごめ…」
ごめん、ありがとう、そう言おうと思った。
言おうと思ったのに。
その後の言葉を私は飲み込んでしまった。
「…あ…」
颯が小さく声を上げたとき、私たちは薄暗い部屋にいた。
あたりを見回しても、今まで目の前にいた、たくさんの通行人はいない。
どうみても、ここは颯の部屋。
「…もどってきた…の?」
半信半疑で、私が颯を見る。
颯は、慌てた様子で自分の机の上を探って時計を見る。
「28日」
颯は、時計の画面を私に見せた。
確かに、28日の3時01分の文字。
「…帰ってきた…のかな」
颯もほっとした顔をしてる。
よかった…帰ってこれたんだ…。
…ん?
よかった?
私がはっとして颯を見ると、颯も同じ顔をしていた。
そして、私たちはほぼ、同時に颯の部屋を飛び出した。
「ママっ!」
私たちは、一目散にママとパパの寝室へ!
「ママ、ママ、ママっ!」
私が叫びながら、寝室のドアを勢いよく開けると、ママとパパがベッドから何事か、と飛び起きるのが見えた。
生きてる!
ママが生きてる!
私は、胸が詰まって…苦しくなって…涙が溢れてきた。
「どうしたの、二人とも…ちょっと、かづ、何泣いてるの!?」
「ママぁ〜〜〜!」
私は、たまらず、ママに抱きついた。
「え、ちょっと、かづ?」
そんな困ったようなママの声と。
「なんだ、なんだ?華月はどうしたんだ?」
そんなパパの寝ぼけた声と。
「……すごく怖い夢をみたんだよ」
そんな颯の声が、ママのあったかい腕の中で聞こえた。