第六話
やはり、大したことはない。
それが、魔石調律師の彼と相対したフィアナの率直な感想だった。
当然だ、あちらは魔術を嗜んだ程度の素人。本業の魔術師に叶う道理はない。
呆気ないと思いながら、フィアナは剣を中段に構え、風を刀身へ集中させる。
臆さず向かってきたことに一応の敬意を示し、自らの最大の技を持って幕を引いてやろうと。
彼が、地面に向かって槍を振るっているのが見えた。
それにどんな意味があるのか、わからなかったが、わかる必要もない。
やがて刀身が砂塵を巻き込んだ風で見えなくなる。この技を、生徒や教官は、いつからか“黒風”と呼ぶようになった。
この技で倒れなかった者を、フィアナは未だ知らない。
剣を腰だめに、フィアナが風に乗って駆ける。
彼が後ろに跳んだが見えた。しかし、関係ない。それぐらいの距離、気流を味方にしたフィアナならば一歩で縮められる。
彼女は地面を蹴る。彼我の距離がゼロとなり、最大の一撃を叩き込む……はずだった。
(遠い……?)
距離を詰め切れない。彼が速いわけではない。であれば、遅いのは。
羽根のようだった体に、ガクンッと重さが戻る。刀身に纏っていた風が少しずつ霧散していく。魔術を解いたわけではなかった。異変にフィアナは足を止める。
そこは、さっきまで彼が立っていた場所。
地面を見ると、そこには見覚えのある、しかしフィアナには読めない文字が描かれていた。すなわち、古代言語が。
(掛かった……!)
フィアナが動きを止めたのを見て、トウタは内心で喝采を上げる。
さっきトウタが槍を振るっていたのは、魔術を使って穂先へ文字を生み出し、それを地面に刻んでいたため。
その意味は失速、そして無風。
魔術は古代言語の影響を受ける。それを逆手に取り、マイナスのイメージの言葉を術者の近くに刻むことで、その効力を落としたのだ。
響律。トウタはその技法をそう呼んでいた。
トリックへ気づかれる前に、彼女を仕留めなくては。
トウタが地面を蹴り、大上段からフィアナへ向かって槍を振り下ろす。
彼女は頭上で剣を横に構えて受け、払い退ける。そのまま下段へ得物を構えなおし、一歩踏み込んで斜めに切り上げてくる。
トウタは石突き側の手を前に出し、柄で受け止めた。
しばしの拮抗。魔石が黄色の輝きを放つと同時に、トウタは後ろへ跳ぶ。直前まで立っていた地面から、無数の土の棘がフィアナへ向かって突き出した。
「ちっ……」
遅れ、彼女も後ろへ跳んでそれをかわす。
そこへ、土の棘を駆け上がったトウタが上空へ跳ぶ。陽光に目を焼きながら、フィアナは真上からの槍を受け、弾き飛ばす。
その軽い手応えに、彼女が目を見開いた。
トウタは槍だけを投擲していた。
地面に着地し、焦燥の色を浮かべたフィアナが振り返った直後、その鳩尾へトウタは肘打ちを叩き込む。
完全に不意を突いた一撃に、彼女の体から力が抜け……そのまま地面へ崩れ落ちた。
数秒置いても動く気配のない姿を認めたライラは、勝者の名前を告げた。
「しょ、勝者、トウタ・エレッジさんです」
トウタはふぅ、と安堵の息を漏らす。
(危なかった……)
古代言語の効果は、それが刻まれた周囲数メートルにしかない。
もし、足を止めずにあの場を抜け出されていたら、こちらの負けだった。
だが、本当に彼女は恐ろしい。調律が万全であったなら、響律さえ打ち破っていたかもしれない。
そう、彼女の魔装具に目をやった時だった。その魔石が、直視できぬほどの輝きを放ったのは。
(負けた……、私が……?)
薄れゆく意識の中、フィアナは自らの負けを悟っていた。
(負ける、わけには……)
証明しなければならないのだ。ソラが最高の魔石調律師だったと。
ソラの生きた証を否定する奴らに、負けるわけにはいかない、絶対に。
(なのに……‼)
体は重く、指一本動かすことができない。
(……力が、欲しい)
そう心の奥底で強く願った直後、フィアナは白い世界に居た。
天も地も、見渡す限りが何物にも染まらぬ白の世界。
そこに、扉があった。
翡翠の輝きを放つ、巨大な扉が。
その扉がゆっくりと開く。そこから溢れ出す力の奔流に身を任し、受け入れ、フィアナの意識は覚醒した。
フィアナの周囲の空間が爆発した……そう違うほどの烈風が放射状に放たれる。
咄嗟にトウタはライラを抱き留めて庇う。一瞬も踏ん張ることができずに暴風にさらわれ、天高く舞い上げられる。暴風に揉まれたトウタは、地上五メートルで決闘場を覆う壁に激突した。
そのまま落下するが、炎弾を地上に向かって放ち、その爆風で衝撃を和らげる。体勢が整えきれず、右肩から落ちる。
鈍い音と同時に焼け付くような痛みが走り、肩から先の感覚が薄れていく。
「エレッジさん、血が……ッ!」
ドロリと生暖かいものが頬を伝う。どうやら、壁に叩き付けられたときに頭を切ったようだ。
しかし、それらの痛みをすべて無視してトウタは前を向く。
ありとあらゆるものを飲み込む黒風、それを纏う少女を。
「あ、はっ……、あはははははははははっ‼」
フィアナは笑っていた。
耐えられないというように肩を抱え、童女のようにけたたましく。
「いける、これなら、この力なら絶対に頂点を取れる! ソラ、あなたとの約束を果たせる!」
その足に、腕に、頬に赤い筋が走る。
魔術が彼女の制御下を離れ、彼女自身を傷つけていた。
暴走。そんな言葉がトウタの脳裏をよぎる。
「やめろッ‼ そのまま力を使い続ければ死ぬぞ!」
「負けるぐらいなら、ソラの夢を潰やすぐらいなら、死んだ方がマシなのよッ!」
暴風が、彼女の剣へ収束する。荒れ狂う風を、恐るべき精神力で統べてみせる。それを手に、フィアナはこちらへ向かってくる。
抑え切れなかった風が、彼女の体に傷を作る。
あれを喰らえば、確実に死ぬ。トウタも、ライラも。そして、間近でその衝撃を受けるフィアナも。
(くそッ! アレを使うしかないのか……)
トウタの身に付けていた銀のブレスレットに、古代言語が浮かび上がる。
この世界で唯一、トウタのみが知る文字が。
魔石が、月光の如き銀の輝きを放ち始める。トウタの左手へ銀の粒子が生まれ、ある魔術を形作り始める。
トウタは祈った。この無慈悲なる力が、暴風だけを吹き飛ばしてくれることを。
「さあ、これで決着よッ‼」
瞳を爛々と輝かせたフィアナが、天に掲げた剣を振り下ろす――直前。
バキンッという破砕音が辺りに響き渡った。
同時、暴風が搔き消える。
「……え?」
それは、一体誰の声だったか。
茫然とした顔で、彼女は足を着いた。
それに続いて金属の破片が散らばり、楕円の宝石が地面を転がった。
トウタもまた、やり場のない力を手に唖然としていた。
(台座が、砕けた……。力に、耐えきれなかったのか? それとも――)
「なんで……」
砕け散ったモノの前に膝から崩れ落ちたフィアナは、破片の一つを拾う。一つ、また一つと。そうして合わせようとするが、無残に崩れる。
「うそ……。うそよ……、こんなの……」
事実を否定するように、嫌々と首を振る彼女の頬を、雫が伝う。
トウタは左手の魔術を消し去ると、少女のもとへ歩み寄る。そして破片を一つ拾って、告げた。
「……昨日の言葉、訂正するよ。素晴らしい魔装具だ。
自ら砕けることで術者のお前を守ったんだから」
とても偶然とは思えなかった。だから、トウタは真にそう思った。
「私が、私が、無茶をしたから……? それで壊れて」
目線を合わせ、トウタは言い含めるように続けた。
「そうかもしれない。だが、これでようやくそのソラって子は安心できるんだと思う」
「安心……?」
トウタは頷いて見せる。
「俺だったら、大切な親友にあの魔装具を渡すことはできない。下手をすれば、術者の命を奪ってしまうかもしれないから」
「…………ッ‼」
「それがもし、意図せずにその大切な人に渡ってしまったら……俺は壊れて欲しいと思う。その人が傷付く前に。
だから、これでその子もようやく安心できたんじゃないかな」
それを聞いて、フィアナがどう思ったのかはわからない。
彼女は砕けた魔装具を握り締め、子供のように泣き続けた。