〜第七章〜
『言葉は、重ねる事で強くなるの。友情も愛情も、続ける事で強くなっていく。たとえ行き着く先が絶望だとしても、それまでの軌跡は光り輝くものかもしれないわ。絶望を感じるにも幸福を感じるにも、まずは他人と関わらずには始まらない……ねえ、あなたはよく自分を人形だと言うけど、心はどんなものにでも宿るのよ。パンドラの箱は、私もあなたも、皆持っているもの。それを忘れないで』
あの時の博士の顔は、何だか忘れられない。
昔に聞いたときは何とも思わなかったけど、今なら博士の気持ちが……少しだけ、分かるような気がする。
大切な人がいる今なら、自分もその軌跡を作っていきたいと思えるのだから。
「……将来、ボクと関わったせいで二人が傷つく事になるかもしれないよ?」
譚檎を手伝えるようになった時、きっと昨日のような戦いがある。それに弥生や由宇が巻き込まれないという保障はない。その際は全力で守るが、絶対的な安全とは言えない。
そして二人が傷ついた時――必ず林檎は、心を傷つけてしまう。
「大丈夫、私は陸上で鍛えた鋼の体と頑強なハートを持ってるからね!」
「むしろ傷つかない人間関係なんて、本物とは思えません。大丈夫です、林檎が思うより私達は強いですから」
「…………分かった。なら改めて、二人ともよろしくね」
独りが淋しい自分に、差し出された手を払いのける程の強さは……無い。
誰かと一緒にいる事の安らぎを、名前を呼んでもらえる喜びを、捨てきれなかった。
でもこのまま弱くていいのか……優しさをするだけの自分でいいのか。
――よくなんて、ない。
「ボク、まだまだ弱いけど……すぐに強くなるから。だからそれまでは、ごめん……二人の優しさに甘えさせて」
「うんうん、存分に甘えなさい! でも甘えるなら由宇の胸がいいわよ、無駄に弾力あるからね~」
「仕方ありません、弥生にはない母性で包み込んであげますから――これからも、よろしく」
二人から向けられる笑顔は眩しかったが、林檎はそれを真正面から受け止め、弱々しくも、しっかりと同じ笑顔を返してみせた。
それが心からの笑顔だったかどうかは、自分でも分からない。
でも今は、この笑顔を絶やしたくなかった。
「青春……と呼ぶにはちょっと暗すぎるわね」
「あの頃は皆あんなもんだ。それより林檎がもし人間として暮らす事を選んだら……どうするつもりだ?」
富裕荘の一室、まだ眠っている華雪を起こさないよう小声で話しているのは、朱毬と譚檎だった。
ぎこちなく笑う林檎の後ろ姿を見送りながら、譚檎は溜め息を吐いた。
「どうもこうも、これまで通り自分達で頑張るしかないでしょ? そうやって……私は【神通主】を、見つけ出す」
「しかし、お前の妖力はもう……」
「……だとしても、まだ時間はゼロじゃない。最後の最後まで諦めるものですか……諦められる、ものですか」
譚檎はそう言うと眠っている華雪へと近づいた。雪のように透き通った頬に前足を置くと、白い靄のようなものが譚檎から流れ込んでいく。
すると華雪の頭から耳が生え、次いで開いた目蓋からは金色の双眸が露わになった。
「さて、それじゃあ行くわよ」
「……私としては、あの『魔女』には会いたくないんだがな」
「何か言ってきたら引っ掻いてやるから安心なさい」
猫のために窓を少し開けると、二人は部屋を後にした。
全ての授業が終わり、人も少なくなった放課後の学校。
この日まだ鈴を見ていない林檎は、当てもなく校内をうろついていた。
昨日の今日なので休んでいる可能性もあるが、それを確認する手段は持っていない。弥生や由宇にも聞いてみたが、鈴の事は知らなかった。せめてどのクラスにいるのかでも分かれば探せるのだが……そういえば、自分は鈴について何も知らなかった。
友達のはずなのに。
今更ながら気付いた関係の薄さに落ち込むが、それでも探す事は止めなかった。
事情を知っている朱毬ならと思ったが、朱毬とも今日は会っていない。
(何かあったのかな? 今朝は片付けをそのまま押し付けちゃったし、謝りたかったのに……)
悶々と考えながら歩いているうちに、いつの間にか五階へと登ってきてしまっていた。
得体の知れないアメリシスならもしかしたら……そう思うと、足は自然に扉へと進む。昨日来た時は分からなかったが、今回は扉の向こうから気配を感じた。
しかし猿と犬の時のように明確にそうだと言えないのは、殺気を伴ってないからか。
あれこれ考えていても仕方ないので、林檎は扉を開けてみる事にした。
「アメリシス? 入るよ」
扉を開けるとソファが真正面にあり、その背もたれから飛び出た二つの後ろ頭を林檎はよく知っていた。
「朱毬さんと……華雪ちゃんに憑依した譚檎?」
「林檎? なんでお前がここに……まさか、アメリシスッ!」
「うるさいわね、私からは何もしていないわ。この子の『隠された機能』によって、部屋に施していた鍵が外れたのよ。そして勝手に、私の領域へと入り込んできただけ」
怒りを露わにする朱毬に、アメリシスはそ知らぬ顔で紅茶を飲む。朱毬の横で頭の耳をピクピクと動かしていた譚檎は、林檎のほうを一瞥するだけでアメリシスに向き直った。
「噂怪と遭遇した時に力が発動するなんて、タイミングが良すぎると思っていたのよね……何か枷を外すようなきっかけか、情報でも与えたの? ――こっちに来なさい林檎、あんたもこの覗き魔に、聞きたい事があるんでしょう?」
明らかに譚檎の言葉には、アメリシスを非難する色があった。だがアメリシスは軽く笑うだけで動じた様子もなく、隣に座った林檎に空のティーカップを差し出した。
「貴女の保護者たちは怒っているみたいだけれど、私達はお話をしただけよね? 噂怪の正体とか、この町の成り立ちとか……貴女に残された猶予、とか」
途端、空気が一瞬にして様変わりした。押し潰されそうな威圧感、恐怖がお腹の底から込み上げて、じわりと生暖かい汗が染み出してくる。
「……アメリシス、ふざけるのも大概にしなさいよ」
「あら、言ってはいけなかったの? 貴女があまりに頓着していないものだから、言っていいものだとばかり。ごめんなさい」
口先だけの謝罪に、更に譚檎の気配は険しくなっていく。林檎は横にいるだけで圧迫感や威圧感に胸を締め付けられるのに、アメリシスは平然としたままだ。
やはりこの少女は、異質である。
「譚檎……」
出された林檎の声は、とてもか細く弱々しいものだった。
その原因として恐怖や怯えといったものもあったが、それよりも怖かったのは、知っているはずの譚檎が知らない誰かに感じられた事である。
知っている雰囲気が様変わりしたと思う、とてつもない負の感情の渦。自分の認識を覆されたような、何も知らなかったんだと思い知らされる疎外感と孤独感を感じさせられる。
「……そんなに怯えなくていいわよ、もう大丈夫だから」
「う、うん」
もう一度呼びかけると、譚檎は華雪の顔で優しく笑ってくれた。
「あらら、こんなので噂怪狩りで役に立つのかしら。大元となったヴィクター・フランケンシュタイン博士の設計図とは違う精神構造に、この町専用に特化した各機能……貴女の創造主は一体、何を考えているのかしら?」
林檎の顔を覗きこんでくる碧い瞳に光は無く、暗い海の底がそのまま閉じ込められているようだった。
造られた存在である林檎よりも、生気のない瞳で笑う少女。譚檎と朱毬がいなければ、きっと目を逸らしていただろう。
しかし、林檎は逃げずにその視線へと立ち向かった。
「博士の考えは、ボクにも分からない……それより、教えてもらいたい事があるの」
「――いいわよ。ただ、お婆ちゃんがどう言うかしら?」
アメリシスが指を鳴らした直後、空だったティーカップから水音がした。見れば、琥珀色の液体が並々と注がれているではないか。
驚いて顔を上げると、朱毬の横に老婆が座っていて更に驚いてしまった。
それは、昨日会ったエンバーミング校長でその人であった。
「校長先生? でも、扉の開く音はしなかったのに」
「ごめんなさい、林檎さん……」
申し訳なさそうな顔で謝ってくるエンバーミング校長に意味も分からずにいると、横のアメリシスがまた、訛りのひどいあの言葉を呟いた。
するとエンバーミングの身体が、まるで空気に混じっていくように輪郭を無くしていく。身体の反対側にある景色が見え、気のせいか気配も小さくなったように思えた。
「校長先生は……何者なの?」
「前に元人間と言っていたでしょう? つまり、私が喰らった七十五人目の人間よ」
「喰らっ……た?」
前に譚檎も、同じ事を言っていた。何かの比喩と思っていたが、まさか……愕然とする林檎に、アメリシスはさも愉快そうに笑いかけた。
「ご明察よ――私は存在ごと、魂すら喰らい尽くしたの。前に噂怪は意思を奪われるといったでしょう? ならその後、噂怪は何をするのか……人を喰らうのよ」
「その数は七十五人。喰らった人間は噂怪自身の糧となり、また【神通主】に捧げられる供物になる」
アメリシスの言葉を遮り、代わりに譚檎が教えてくれた。
「……供物って、人間を、何でっ」
「大昔から生け贄はあったわ。獣から人、食物や装飾品に変わったけど、根幹で求められているものは同じ――そう、『犠牲』よ。噂怪に成ったモノは喰らい、この町を跋扈する。私は元噂怪の一体……それが【七不思議】と呼ばれるモノ。これが、神通町」
林檎には理解できなかった。【神通主】が生け贄を求め、なぜ町の住人が犠牲にならないといけないのか。
どうしてアメリシスは、こんなにも楽しそうに語っているのか――分からない、林檎にはどうしても分からない。
もし自分が噂怪に成った時、弥生や由宇を喰わねばならなくなったら……そんな事をするくらいなら、自分は迷わず死を選ぶだろう。
いや、その前に……【神通主】に一矢報いねば、気が済まないはずだ。
「……ひどい」
「ひどい? 確かに【神通主】のやっている事は、一見すると横暴よ。理不尽すぎる……でもそれって、普通じゃないかしら? 強者が弱者を自分の勝手に扱うのは、どの時代でもどの国でも続けられている事よ。この神通町では、それが顕著に現れているだけ」
「だからって、自分勝手に何でもしていいとは限らないよ。そんな風に皆が思ってしまったら、この世界は他人の事を考えない淋しいものになっちゃう……誰にも優しくない世界になっちゃうから」
「……優しさって、その人のエゴでしかないのよね。他人にばら撒くように切り売りしているのは、結局は保身や見返りのため。優しさを無償のものだと思っているのは、心をよく理解していない貴女や馬鹿な奴ばっかり。祭られている様々な神だって、信仰を集めたいから願いを叶えるだけかもしれないわ。宗教家だって、お布施が欲しいから布教しているだけかもしれない。下手な言い訳を聞くよりも【神通主】は言い訳もしないし、きちんと見返りもくれる。おかげで私は、力を手に入れた」
「その力が、この部屋にいる時だけ世界中のありとあらゆる情報を手にいれられ、望む物を呼び寄せる力……覗き魔で欲しがり屋にはちょうどいい力だ」
「うふふ、褒め言葉として受け取っておくわ、朱毬」
全てを知り得て、手に入れられる力……凄い力だが、この部屋にいる時だけそれが出来るという事は、外に出ると出来ないのだろうか。
前に来た時、アメリシスは自分の事を『籠に囚われた小鳥』と言っていた。ただの例えなのか、自虐なのか……どちらにしても、今思えば可哀想な言葉である。
(優しさが無償のものなんて……私も信じていない)
打算的な考えというのは必ずあり、それを意識してようとしてまいと、見返りがあった時点でそれは無償のものとは違ってしまう。
善意というオブラートで包み込んだ自己満足……そう割り切ってしまったら、世界は淋しく悲しいものになってしまう。
世界の真実が冷たいものでも、そこに生きている者は暖かいと、信じたいから。
「……例え保身や見返りが存在したとしても、優しくしちゃいけない事にならないよ。自分勝手に、他人の人生を壊す理由になんてなるはずない。そんなのボクは許したくない!」
「貴女もいつか理解する時がくるわ。この町で優しさなんて持っていたら、手痛い目に遭うってね。それに噂怪に成ったのを嘆く者ばかりではないのよ? 私のように、楽しく過ごしているのだっているし」
「アメリシスは……噂怪だったんだ」
「言ったでしょう? 私は七十五人の血肉と魂を【神通主】に捧げ、永遠の命と力を得た元噂怪で、【七不思議】の一体。一生消えない噂を背負う、町に縛り付けられたモノ。それでも、噂怪でいるよりはまだマシかしら――ねえ、譚檎?」
問いかけられた譚檎が黙ったままなのでアメリシスは溜め息を吐くと、「とにかく」といって紅茶を飲む。
「他に知りたい事はあるかしら? ないなら私、もう寝たいのだけれど?」
「ちょっと待ってよ、何で校長先生は存在してるの? 魂まで喰われたのなら、存在しようがないはずだよね」
「そんなの、私が魔術を使って復活させたからよ。けど身体までは復活できなかった、要は幽霊みたいなものね」
「あまり、私の事を知ってほしくなかったわ。林檎さんはまだこの町にきて数日なのに、こんな悲しいお話……例え妖怪でも、ここの生徒になった以上私はあなたを守らないといけないのに」
「……果たして、それは何から守るというの? 肉体のない幽霊のような貴女に、一体何が守れるというのよ。校長になったからという責任感や義務感、はたまた優しさによってそう思っているのなら、貴女は自分を買い被りすぎよ。自己満足で守るのなんだの言わない事ね……滑稽よ」
「おい! そこまで言わなくてもいいだろう!!」
「朱毬、でも貴女だって思うでしょ? この町は実力が無ければ生きていけない……傍で見ているしか出来ないのなら傍観者でいればいい。私はお婆ちゃんの心根は認めるけれど、偽善まで認めるつもりはない。それに、他人との馴れ合いなんかもね」
視線を向けられた林檎は、アメリシスの言わんとしている事が分かった。
決して親友にはなれないでも、友達として近くに居続ける。
弥生や由宇と交わした約束を、アメリシスは馴れ合いだと言っているのだ。
「……誰だって、一人は淋しいよ」
「そうね、それは認めてあげる。でもそれなら、自分の淋しさを埋めるために利用しているんだと割り切りなさい。友情だの愛だの言って、結局信じても……最後は裏切られるのよ」
「前に……裏切られた事があるの?」
アメリシスの言葉は、単なる他人嫌いとは一線を画したものに思われた。まるで昔の出来事によって心を傷つけられ、それ以上傷つかないために他人を信じないように。
心を開かず、言葉を信じず、優しさの裏には必ず打算があると思わなければ、他人と接する事さえ出来ない。
悲しい、とても悲しい心の壁が、見えた気がした。
「アメリシス……」
「『あれ』を裏切りと呼ぶんなら、人は生きる限りずっと裏切りを続けているわ。さあ、無駄話は終わりよ、私はもう寝させてもらうわ」
無理やり話に区切りを付けられたが、皆なにも言わず、譚檎が小さく咳払いをして腰を上げた。
「情報、助かったわ。また何かあったらよろしくお願いするわ」
「果たして、またなんてあるのかしら? ――いい加減変な意地を捨てないと、数日と保たないわよ」
譚檎は「意地ね……」と呟くと、強い光を宿した瞳を、黄金色に輝かせる。
「確かにこれは意地、でもね……人間・妖怪問わず、女には馬鹿みたいな意地を張ってでも、守らなきゃいけないものがあるのよ」
扉をくぐる寸前、譚檎はアメリシスのほうを振り向いて笑う。
強く、優しく、妖艶な――女を凝縮したような笑みで。
「私は譚檎、白猫の譚檎。私の踊りを拒めるものなんてこの世にはいない――そう、【神通主】だってね」
そのまま一人で出て行ってしまった譚檎を追いかけるように朱毬が出て行き、林檎も後を追おうとしてアメリシスに呼び止められた。
「格好付けても事態は何も変わらないっていうのに……考えているようでただの無鉄砲なところが、私は本当に嫌いだわ」
何だか親しい友人の事を語っているように聞こえて、つい笑ってしまうと睨まれてしまった。
「意見を曲げるなんて思ってなかったけど、これじゃあもう、貴女に賭けるしかないみたいね?」
「わ、私?」
アメリシスはポケットから何かを取り出すと、林檎に放ってよこす。
受け取ってみると、それはピンク色の包装紙に包まれた飴玉であった。
「妖力の込められた飴玉よ。これを時が来たら、貴女が食べるの」
「……譚檎のほうがいいんじゃない? ……あの話って、その、寿命の事、だよね?」
「……あれは絶対食べないわ。それに食べても、こんなの一時しのぎにしかならない――だから林檎、貴女の力が必要なの。【フランケンシュタインの娘】にしかない力……ブラオフランメに備わった、隠されたもう一つの機能が――」
朝は薄い鱗雲が広がっていたのに、いつの間にか太陽は陰り、灰色の雲が空を覆っている。
気温もグッと下がり、このままいけば夜には雪が降りそうな天気だ。
何となく町全体に活気の無くなってしまったような空の下、林檎は天門橋の近くへとやって来ていた。感覚の赴くまま……昨日鈴を見つけた時と同じ、妖力を感知できる能力に頼ってである。
「昨日は、猿と犬の噂怪がいたから鈴を見つけられたんだと思ってた。ううん、思い込もうとしてた。でも、違うんだね……鈴の妖力を感知して捜し当てる事が出来たんだ」
逢魔が時、辺りに夜の気配が僅かに漂いはじめ、影は一層濃くなっていく。
名前も分からぬ公園は鬱蒼とした木々によって薄暗く、鈴はそんな中にぽつんと立っていた。
後ろ姿に元気はなく、悲痛な叫びを上げていた昨日の様子と重なった。
「【後髪】……それが、妖怪としての名。ううん――鈴のお母さんの名前だね」
ビクッと、小さく鈴の背中が揺れた。それを見て心が苦しくなったが、林檎は話すのを止めなかった。
「妖怪の母親と、人間の父親――そして生まれたのが、『半妖』の鈴。最初に会った時、私と一緒だって言ってたのはこの事だったんだね」
「……あの時は、そう思っとったんや」
振り返った鈴の表情は、あの時昼休みに見た無表情そのものだった。悲しくて淋しい、笑う事を忘れてしまった顔。
「でも、林檎っちは違ってた。ちゃんと人間の中で……片方の世界で生きていけてた。アタイは駄目なんや……どんなに頑張っても、白と黒になんて分かれられへん。灰色のままや!」
叫んでも、鈴は無表情のままだった。後悔に彩られた声を発しながら、無表情で……涙を流していた。
「髪を引っ張るだけやから、悪戯好きなただの妖怪に思えるやろ? でも違う……アタイは髪の毛を引っ張ると暗がりに連れこんで……喰ろうてしまうんよ」
「…………」
「噂怪に成らんでも、人を喰らうんや! そんなんが人間と仲良しこよしで生きていけるか? 妖怪として生きるんは……嫌やった。アタイは人の世界を知っている、人の世界で生きていたかったんよ」
「……そうやって、ずっと悩んでたんだね」
「悩む? ――そうやな、悩んで、いつの間にかこの町に来とった。そして出会ったんや――妖怪でも人間でもない、新しい存在。新しい生き方に!」
鈴の肌が、じわじわと蝕まれるように黒く変色していく。腐臭が辺りに立ち込め、粘液がアスファルトに垂れて、腐らせる。
「……ねえ、教えて鈴。この町が好きだって言った事、あれは嘘? この町が好きって気持ちは、偽りだったの?」
「…………」
その時、鈴の顔に僅かだが感情が表れた。
今にも消えそうな、しかし、確かに――鈴は笑った。
「そんなわけ、あるはずない」
「よかった。ならやり直せる、大丈夫だよ。今度は一人じゃない、一人で悩まないでいいから。ボクが傍にいて、一緒に悩んであげるから――鈴はボクの、友達だから」
「同情せんといてっ……アタイの決心を揺さぶらんといで!! やっと自由になれる、悩まんで済む……アタイをこれ以上苦しめんといてよ!!」
顔以外、全て黒く変色してしまった鈴が、残った部分だけで引き笑いを浮かべた。
林檎は鈴の顔を見て柔和に微笑むと、ゆっくりと近寄り、その肩を抱いた。
触れた手が、頬が、黒い粘液によって腐食されていく。
焼ける音と肉の焦げた匂いがするが、林檎は鈴の側を離れようとはしなかった。
「何、してんのや……林檎っち! そんな事したら、駄目や!」
「大丈夫、大丈夫だから。ねえ鈴……ボクね、この町で妖怪として生きていく事に決めたんだ。大事な人を、友達を、【神通主】や噂怪の悪意から守りたいから……だからさ、鈴も一緒に、妖怪として生きていけない? 鈴の願いとは違っちゃうけど、でも――」
「林檎、っち」
「でも友達と一緒なら、この世界は自分の思っているより、もっと素敵なものへと変わると思うから」
林檎が、はにかむように笑顔を向ける。鈴の目から幾筋もの涙が流れ、涙に触れた部分から、変色が収まっていった。
「最初、自分に任せてなんて言った時は驚いたが……やったじゃないか」
「友達と一緒――ね。せっかく人間として生きる道もあったってのに、本当馬鹿な子」
物陰から眺めていた朱毬と譚檎は、一安心と溜め息を吐き、二人を見つめていた。
「鈴が噂怪に成りかけていたなんて……譚檎は気づいていたか?」
「いえ、最近会っていなかったし。久しぶりに会ったのは、林檎の案内を頼んだとき――ちょっと、待って。何で私はあの時鈴を呼んだのかしら?」
案内させようと思えば華雪や朱毬、幽季で十分だった。元より鈴と譚檎は親しい関係というわけではない。何かがあった時に頼るなんて、『普段』なら絶対しないはずだ。
「どういう事だ?」
「私の潜在意識を操り、鈴を呼ぶように誘導した奴がいる……最近出てこないから忘れていたわ、あんたの事――いるんでしょう? 【神使】」
「――俺はどこにでもいるし、どこにでも現れるよ。神のしもべはそういうものだろう?」
譚檎が呼びかけた直後、シャリンと鈴の音が辺りに響き渡った。
薄暗い闇から浮き出すように、小さな鈴が大量に付いた棒を持つ、親水高校の制服を着た男子学生が姿を現す。
「親水高校の生徒? 何でここに……」
「風斬先生、少し眠っててください」
再び鈴の音が響くと、突然朱毬は力を失ったようにその場に崩れた。譚檎はさして驚いた風もなく、雰囲気だけは剣呑なものにして【神使】と呼んだ男子学生を見る。
「……もう私の前には現れないと思ってたけど?」
「本来ならそうしていたかったよ。君は勝手に消えていくから、手を出す必要はないしね。あの人形だって、人間として暮らす事を望んでいれば何事もなく生きていけたのに――こっちの世界を選ぶ事で、神の怒りを買ってしまった。人の形をしたモノを壊すのは、少し気が引けるけどね」
その顔は美男子であるのと同時に、印象に残りにくい顔である。別れればすぐに忘れてしまいそうな……不快を与えない程度に造形を整えられた、人形の一体……【神使】に漂うのは、無個性な雰囲気であった。
「だったらどうして出てきたの? それはあんたの意思? それともあんたが神だなんて慕う、【神通主】の意思?」
「さてね、どっちのほうが君はいいかな――おいおい、こっちは戦う意思なんてないんだ。そんな物騒なものはしまってくれないかな?」
大仰に両手を上げる【神使】の目の前で、譚檎は氷柱を何本も空中に浮かせ、切っ先を【神使】に向けていた。
「戦う意思? そんなもの関係ないわよ。ああやって噂怪に成るのを邪魔されたら、あんたは必ず出てくると思ってたわ――さあ、【神通主】のところに案内しなさい!」
「あの人形をダシにしたのか、中々どうして……それでも俺を脅迫するには、ちょっと妖力が足りないかな」
甲高い音と共に、氷柱が微細な粒となって砕け散った。
同時に譚檎は走り出し、瞬時に作り出した氷塊を【神使】に投げつけた。