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〜第六章〜

でも、独りの気持ちは分かるから……そっと手を握ると、アメリシスは微かに握り返してくれた。


 




廊下に出ると冷たい空気が身体を撫で上げ、たまらず部屋に戻ってしまおうかと後ろを振り向き、林檎は目を見張った。

先ほどまでピンク一色に彩られていたはずの部屋は、何の変哲もない普通の資料室へ様変わりしていたのだ。

……信じていいのだろうか。初めて会った、よくも知らない相手の言葉など。いや、それを言ってしまったらこの町に来て、本当に信じていい者などいるのだろうか。

誰が嘘を言っていて、誰が真実を言っているのか。

信じるに値する者は誰かと聞かれた場合、おそらく林檎は誰の名前も挙げられない。

――でも、さっきのアメリシスの言葉に嘘はなかったと思う。

そこだけは、信じてもいいと感じている。


(鈴に、会わなくちゃ)


思った途端、身体は走り出していた。昨日廊下にいた時の表情も、狐火の行列を見た後も、全部、鈴は悲しそうな表情をしていたではないか。

なんで放ったらかしにしてしまったのか――友達なら、ちゃんと傍にいないと駄目なのに。

とりあえず鈴を探そうと三階まで降りた時、ちょうど弥生達と出くわした。


「林檎! 帰ってこないから迷子になっちゃったのかと心配したよ。もう昼休み終わっちゃうから、早くお弁当食べないと」


「ちなみに次は移動教室なので、できれば早くしたほうがいいで――」


「二人とも。ボク、早退する」


突然の林檎の言葉がすぐに理解できなかったのか、二人がキョトンとしている間に林檎は再び駆け出した。

が、すぐに止まって二人のほうを振り向き、躊躇うように視線を泳がせた後、頭を下げる。


「それと……ごめん! ボクは皆にいっぱい隠してる事があるの。だから、ボクは心を開ききれない……上辺だけの仲良しにしかなれない。だから、本当の友達にはなれないんだ……ごめんっ」


鈴を心配し、探そうと躍起になっている自分に気付いた時、なぜか二人には謝っておかないといけない気がした。

例え相手に嫌われてしまうとしても、言わなければ弥生と由宇に対して失礼だと思ったのだ。

初対面の自分に優しく接してくれた事への感謝と償いではないが、林檎なりの誠意を見せたつもりだ。

最後に「有難う」と言ってもう一度頭を下げ、林檎は再び走り出す。



住宅街を歩く後ろ姿を見つけた時、その背中はいつになく小さく儚いものに感じられた。

一歩歩くたびに笑顔を振りまいていたような少女は今、寒さに凍える誰よりも震えているように見えた。


「鈴!!」


「…………」


だからこそ林檎は目いっぱいの大声を出して、彼女の名前を呼んだ。そうする事で彼女が自分に気付いてくれるように、決して一人ではなく、自分がいるよと教えてあげるように。


「昨日、ボクの事を見てたよね? どうしてあんな悲しい目をしていたの? 教えて、鈴の事を」


「……なんで……なんでや。アタイはもう嫌や、頼むからそんな目で見んといて!!」


「……鈴?」


林檎に話しかけられているにも関わらず、鈴の目線はどこか遠くに向けられ、怯えの色に染まっていた。あの快活な笑顔は消え、顔を恐怖に引きつらせている。


「アタイはどっちかになりたい! でも駄目なんやっ……どっちからも除け者扱いのアタイは、ならもう選択する道なんて一つしかあらへんやろ?」


「お、落ち着いて鈴! ボクだよ、林檎だよ! さっきから何を言っているの――」


声にならない悲鳴が鈴の口から漏れ、林檎は後ろから圧迫感のようなものを感じ取った。向けられているだけで背筋が凍ってしまいそうなものの正体……この町で度々感じているそれは、アメリシスと話した今なら分かる。

周りを侵食するような、例えるなら黒い空気……力の塊が、そのまま移動しているような、そんな感じ。


「噂、怪」


自分には、噂怪や妖怪の放つ妖力を感知する力がある。

たまに忘れてしまいそうになるが、自分は造られた存在。【猫女】を手助けする自分なら、そんな能力が備わっていても不思議ではない。


(アメリシスの話だと、噂怪との縁は三本。そのうちの二本はきっと、こいつらだ)


明確に噂怪だと認識出来るようになると、それらにも個別の波長のようなものがあるのに気付いた。

後ろから向けられている、何度も感じた事のある気配……意識を集中させると、輪郭を持って姿を現す。


「二匹とも、噂怪だったんだ。今なら分かるよ」


相手は林檎の言葉に別段驚いた様子もなく、以前と変わらずこちらの様子をうように見つめていた。

大きな猿と、黒い犬。

ことわざでは仲の悪い例えとして用いられる動物であるが、目の前にいる二匹は、まるで相棒同士のように見える。

犬は犬歯を剥き出しにし、猿の爪は異様な鋭さを持っている。

二匹の殺気はこの場の雰囲気を重苦しくしているが、林檎の表情に恐怖はなく仁王立ちしていた。


(怖いはずなのに、頭は冷えてる……ボクが人間じゃないからかな? それとも、鈴の前だからかな)


どっちでもいい、と思う。今はまず、この状況から抜け出す事が優先だ。

しかし猿と犬は林檎を一瞥しただけで、目線はどちらとも鈴に合わされていた。

ターゲットとされた鈴は腰が抜けたのか、路上にへたり込んでガクガクと震えている。


「駄目だよ、鈴には手を出させない。二匹とも、このまま帰ってくれない?」


今逃げても、きっとあの二匹は追ってこないだろう。狙いは鈴一人のようだし、何もしないかぎり自分が狙われる心配はない。

しかし、逃げるつもりなんて毛頭なかった。

林檎はある決意をした。さっき、鈴の目を見た時から。

友達を影から守れる存在になりたい、だから自分は――妖怪でいようと。

あんな悲しい目をしないように、笑顔でいられるように、出来る限りの力を尽くして、この町の悪意から守ってあげようと。

その関係を言葉にするならば、きっと――


「私の『友達』に、手出しはさせないからね!!」


以前、博士にこの身体の事について詳しく教えてもらった事がある。

この身体は死体をベースにしているが、中身は殆ど作り変えられている。

現代科学と錬金術によって精錬された、高密度の『金属炭素』と呼ばれる物質で骨格を形成し、血液の代替溶液はあらゆる衝撃を吸収、緩和させる事ができる。

博士の理論からいけば、この身体は地上のどんな生物にも壊せないらしい……もし本当にそんな状況になったら、身体より精神が持ち堪えられないと笑っていたが。

痛いのは嫌だし、誰かを殴った事すらない自分が、あんな大きな動物に対抗できるか分からなかった。

自分は普通ではない存在だが、今までは普通の女の子のように生きてきたのだから、不安を感じるのは当然である。

でも……ここで逃げるのだけは嫌だった。

友達を裏切るのは、痛いのや怖いのよりもっと嫌だった。


「さあ! かかってきなさ――」


思いきり叫んだ林檎の声は、途中で遮られる事となった。右頬に食い込んだ爪が喉元まで引っかき、溢れた液体が気道に入って言葉を詰まらせる。

痛みよりも息苦しさを感じた直後腹部に衝撃が走り、ブロック壁へと叩きつけられる。

壁に頭もぶつけたようで視界が赤く染まり、代替溶液は赤かったんだと場違いな感想を浮かべた。

目線を下げると犬の頭が見えたので、腹部に体当たりされたのだと分かる。

人間一人を吹き飛ばすなんてどんな力だと思っていると、犬が一声鳴いて離れていった。

向かう先は、地面にへたり込んだ鈴である。爪を赤く濡らした猿も近づいていくが、鈴は腰が抜けているのか震えるだけで、逃げ出そうとはしなかった。

腹部が痛みのせいで熱を持ち、息をする度に泡立った溶液が口からこぼれる。何とかしないと……朦朧とする意識の中で必死に身体を動かそうとするが、いくら思おうと指先すら動いてはくれなかった。


(やだ……駄目、駄目だよ! やめてっ)


一歩一歩、まるで見せ付けるかのように。赤い視界の中で、猿の振り上げる腕と、口を開いた犬の牙と、鈴の目からこぼれる涙が見え――


「っ!!」


――そうして自分の中で、カチリと、何かが外れる音がした。


「あ……ああああああっっ!?」


代替溶液が沸騰しているのではと思うほど身体が熱くなり、一気に意識が覚醒する。

腹部の痛みも吹き飛び、溶液の塊を吐き出すと両足に力をこめた。

踏み込んだ足を強く蹴りだすと地面のアスファルトがれ、風の鳴き声が耳をつんざき――こちらを振り向こうとしていた猿の横顔を、思いっきりぶん殴った。

着地すると同時に片足を軸にして、回し蹴りを犬に叩き込み、動作の後にが辺りに響き渡った。


「…………」


「……林檎っち、その、髪」


カーブミラーに映った自分の姿が、本当に燃え上がっているように青く光って見えた。


(違う。本当に、燃えて、いるんだ。これは……『ブラオフランメ』、かな)


何だか狐火に似てるなと思うと、林檎の意識は暗闇に落ちていった。








「あら? リーベトッホタァから信号をキャッチ――これはどうやら、ブラオフランメが解放されたようね」


日本との時差、約八時間のドイツ連邦共和国。そのバイエルン州北部にあるフランケン地方に、広大な森林に四方を取り囲まれた一軒のコテージがあった。コテージの横には大きな鉄製の箱が置かれ、場違いな威圧感を放っている。


「譚檎が変な事を吹き込むから一時はどうなるかと思ったけど、これなら大丈夫そうね。きちんと観察対象としての成果が得られないんじゃ、いくら最高傑作でも自爆させるしかなかったもの」


森は夜の静けさに包まれており、コテージは電気を点けず、それでも満月の光と箱から漏れる光源で、女性の輪郭はおぼろげに浮かんでいた。

持っていたジョッキを傾けビールを飲み干すと、盛大に息を吐き、酔いの回った目で箱を見つめる。

箱には細かなひび割れのようなものがあり、その隙間からは赤青黄と、様々な光が漏れていた。

まるで箱の中に花火が入っているような、そんな鮮やかな光が女性の眼鏡に反射し、夜闇を少しだけ明るくする。


「ここまで長かったわ……人間のように育て、妖怪としての本分を忘れたモノがあの町でどうなるか。私の好奇心と探究心を満たすために、あなたは生まれ、たくさん愛でられてきた……さあ、理論上なら異国の神だって殺せる私のお人形。あなたの力をしっかり見せつけ、そしてきちんと――全てを壊してきなさい」


一際強く輝いた光に照らされた顔には、子供のように無邪気な笑顔が浮かんでいた。

 



「……ん、ううん」


何だか変な気分であった。氷に抱きしめられているような寒さを感じるのに、足元だけが妙に暖かかい。

全身の倦怠感に逆らって目蓋を開けてみると、最初に林檎の視界に映ったのは華雪の無表情だった。


「あれ、華雪ちゃん、なんで……って」


ふと違和感に気が付いて自分の髪に触れた……冷たく、固い。それにとてつもなく重い。


「なな、なんかボクの髪が凍っちゃってるんだけど!? さっきは燃えてると思ったのに、一体何事!」


慌てふためく林檎に、華雪は反応しないまま溜め息を吐いた――いや、違う。それは溜め息などではなく、氷の粒が混じった冷気そのものだ。


「ちょっと待って華雪ちゃん、とりあえず落ち着こう! そしてボクの髪を凍らせるのをすぐ止めよう!!」


起き上がろうとしたが頭が重く、また倦怠感も手伝って起き上がれない。膝枕をしている華雪には重くて冷たいはずなのに、無表情のまま冷気を吐き続けていた。

ふと、林檎は身体の痛みが無い事に気がついた。


(怪我が、治ってる……あんなに深い傷は初めてだったけど、よかった)


あれだけ代替溶液を吐いたのだから何かしらの傷は残るものと思っていたが、博士の科学者としての腕に感謝だろうか。いや、技術者か……あの人は何に分類されるんだろう。


「そういえば、華雪ちゃんは何の妖怪なの? 【雪女】って呼ぶにしては、まだ幼いよね」


「……【ゆきんこ】。【雪女】とは似てるけど、違う」


「そうなんだ、色々いるんだね――改めてよろしく、華雪ちゃん」


無理やり手を取って握手したが、華雪の反応は薄い。友達になるには、まだまだ時間がかかるということなのだろう。

と、外の廊下を早足で歩く音が聞こえてきた。すぐに玄関が開けられて誰かが入ってくる。

ガラス戸の向こうから現れた人物は頭上の耳をピクピクと動かしながら、素早くコタツへ入ると苛立たしげに溜め息を吐いた。


「もうっ、寒いし噂怪には逃げられるし嫌になるわ! と、目が覚めたの。血色もいいしみたいだし、具合は悪くなさそうね」


「……譚檎、今度は朱毬さんなの?」


髪と同色の耳に、金色の瞳は昨日見かけた華雪と同じである。今はつまり、譚檎が朱毬に憑依しているという事だ。


「今回はただの調査だったからね。あんたを襲ってっていう、噂怪について」


「……」


まだ何だか、気後れのようなものがある。譚檎は気にしていないようだったが、森林公園での一件は林檎を閉口させる要因として十分だった。


「それで? 華雪に弄ばれているのもいいんだけど、詳しく教えてくれるかしら。猫仲間から聞いただけで詳細は分からないのよ」


華雪の手を借りて林檎は身体を持ち上げると、先ほどの事を思い出しみた。靄のかかった記憶を、神経を集中させて呼び覚ましていく。

カーブミラーで見えた、髪の燃えている自分。

猿と犬によって頬と喉を裂かれ、代替溶液を吐いた自分。

鈴の危険に、目の前が真っ白になった瞬間――。


「……そうだ、鈴は? 鈴はどうしたの!? さっきボク達、噂怪に襲われたんだ!」


「見つけた時にいたのはあんただけ、他には誰もいなかった……で、それが青い炎ね。熱くはないのね、不思議」


「――っ!!」


噂怪に襲われた時の事を思い出したせいか、林檎の髪の毛は再び燃えだしていた。だが先ほどと比べると火力は小さく、ツインテールが炎に包まれている程度である。


「あんたを見つけたのは朱毬と華雪だったから、私はその炎の事を聞いただけだけど……なるほど、妖力を糧に燃え上がる炎ね。華雪、凍らせようとしても無駄よ。この炎は超常の現象を吸収して燃えているんだから」


「見ただけで分かるの……」


「私を誰だと思っているのよ? 妖力の扱いに関しては、あんたんとこの発明オタクにも負けない自信があるわ」


華雪が必死に息を吹きかけるのを制しながら、譚檎は食い入るように炎を見つめていた。


「吸収できる限界値はどのくらいなのかしら……妖力で燃える炎なんだから、それで全身を包めば限定的な顕現もきっと……最高傑作と呼ぶのも、これなら納得ね」


そうやって感心されていた炎が突然消えると、林檎の身体からも力が抜けた。まさに体力の限界といった様子でコタツに突っ伏すと、次いで異様な音が部屋中に響いた。


「なに、なんの音?」


「……おなか、減った」


動物の鳴き声かと勘違いしそうなその音は、林檎のお腹から発せられた腹の虫の鳴き声であった。

どれだけお腹が減っているのかと言いたいくらい盛大だったが、当の本人に恥ずかしがる余裕はない。

お腹が空きすぎて眩暈を起こし、思わず目の前の蜜柑を皮ごと食べてしまう。唖然とする皆をよそに籠の蜜柑を食べきると、またコタツへと突っ伏してしまう。


「駄目、全然足りない。お、お願い、ボクに食べ物をっ」


「……これじゃ話も何も出来たものじゃないわ。華雪、おにぎりくらいなら作れるわね? 私は出前でも頼むから」


結局、華雪の作った特大のおにぎりと出前の料理を全て平らげると、林檎は押し寄せてきた眠気に逆らえず寝てしまい、この日はこれ以上話をする事が出来なかった。







翌朝、制服姿のままコタツで寝ていた林檎は空腹によって目を覚まし、少しだるい身体を引きずってキッチンに向かった。

他人の家の冷蔵庫を開けるのは失礼とは思ったが、残念ながらこの空腹にはどんな常識も敵わない。


(ごめんね、華雪ちゃん!)


心の中で謝って冷蔵庫を開け……ゆっくりと、無言のままに閉めた。


「何も、入ってない」


もう一度開けてみた。そして、また閉めた。


「…………」


泣き出しそうな目で、同じくコタツで寝ていた華雪を振り返るが、人様の冷蔵庫事情に口を出す権利はない。

炊飯器の中身も確認してみたがやはり空で、華雪や譚檎は普段何を食べているのか不思議に思ってしまう。

籠にある果物もどうやら品切れらしく、空腹で目が回りだした林檎は最後の力を振り絞って外に飛び出した。隣の部屋のチャイムを連打し、程なくして不機嫌な顔で現れた朱毬にもたれかかるようにして、こう言った。


「台所と食材、貸して!!」


――それから十分としないうちに、朱毬の部屋からは日本的な朝食の香りが溢れてきた。


「昨日襲ったのは猿と犬の噂怪、か。根本の噂を辿れば正体が分かるだろうが、私はそんな噂を聞いた事がないな。それに……鈴が襲われていた、それで間違いないんだな?」


「だから、何度もそう言ってるでしょ? 鈴も私もあの時は必死で……本当にあの場に鈴はいなかったの? 猿と犬の噂怪もどうなったか分からないし、鈴の事が心配だよ――って、聞いてる?」


「……あ、ああ悪い、考え事をしててな。噂怪については譚檎にでも聞いておこう。もしかしたら戦った事があるかもしれんしな。しかし林檎は日本料理が作れるのか、この富裕荘では誰も料理を作れないから、うん、助かる」


「……本当ならドイツの時みたいに丸パンとハムやチーズ、ゆで卵やシリアルとかの軽い朝食を食べたかったんだけどね。昨日から異様にお腹が空いて、がっつりしたのを作っちゃった」


褒められたので気恥ずかしく、林檎は頬をかいて料理を並べていった。大根と菜っ葉を使った味噌汁に、鮭の切り身を焼いたもの。見事な焼き加減の卵焼きにウインナーやベーコン、納豆と漬物も用意され、白米が朝日を反射して光り輝いている。

デザートにでも食べるのかフルーツサラダさえ作ってあり……どう見ても二人分の量ではなかった。


「それじゃあ、グーテンアッペティート!」


部屋着のジャージ姿で煙草を吹かしていた朱毬は、林檎のあまりの食いっぷりに思わず見惚れてしまった。太った人にとってカレーは飲み物だと聞いた事があるが、林檎の場合全ての食べ物が飲み物ではないかと思ってしまうくらい、食べるスピードが半端ではない。


「ゆっくり食べられないのかお前は。いつもそんな感じか?」


「違っ! ブラオフランメが出た昨日から、何だか異様にお腹が空いちゃって。そういえば譚檎に聞くって言ってたけど、朱毬は噂怪と戦った事を覚えてないの?」


「ブラオフランメって……ああ、ドイツ語か。憑依されている間は記憶がないぞ、これは多分華雪も同じなはずだ」


朱毬がふと窓の外を見ると、見慣れた制服姿の少女達が富裕荘の前にいた。門扉の前をうろつき、まるでどうしようか迷っているようだった。


(あれは……町本と井上だな。二人の家はこっちの方角じゃないはずなのに、林檎を迎えに来たのか?)


しかし林檎が気付いていないところをみると、事前の連絡はしていないようだ。それに友達を迎えに来たにしては、二人の表情は曇っている……と、ここまで考えると朱毬は煙草を消し、林檎の食べていたフルーツサラダを取り上げた。


「あっ!?」


「腹八分目という言葉が日本にはある、大概にしないと学校に遅れるぞ? それに、友達を待たせるのも悪いしな」


朱毬の指さした窓のほうを見て、林檎は固まった。

昨日、あんな事を言ったのに、どうして――そう思うと同時、身体は走り出していた。


「……ん? もしかしてこの食器は私が洗うのか?」


テーブルに置かれた大量の食器を前に、とりあえず朱毬は頭を掻くと、また煙草を取り出した。


「あっ――と、おはよう、林檎」


「おはようございます、林檎」


「…………」


見間違いなどではなく、そこにいたのは弥生と由宇であった。昨日の言葉で、もうこれから話す事はないだろうと思っていた林檎にとって二人の訪問は意外で、どうしていいか分からなかった。


「二人とも、なんで」


ようやく言えたその言葉に、弥生と由宇は一瞬顔を見合わせて、頷きあってこう言った。


「「友達、だから」」


「っ!?」


「正直言って、ああいう風に言われた後は色々考えたけどね……でもさ、それって誰にでも言える事なんだと思ったの。隠し事なんて皆してるもんだし、私だって由宇に言えない事とかあるもん」


「私も、弥生に言ってない事の十や二十はありますよ」


そんなにあるのかと苦笑する弥生の視線を無視しながら、由宇は一歩踏み出した。その瞳の強さに萎縮しそうで、しかし視線を外せずに、林檎は立ち尽くしたまま。


「今は上辺だけの仲良しにしかなれないかもしれない……でも心は成長するものです。どこまで付き合っても本当の友達になれないかもしれない、でもだからって、最初から壁を作っていては何も始まりはしないんです。林檎は私達と仲良くしたくないんですか?」


「ボクは……ボクは」


――ドイツにいた頃、博士にこう言われた事がある。


『心とは誰しも持っているパンドラの箱なのよ。他人はただ内側にあるものと、期待していたものとの違いに落胆するわ。仲が深まるほど落胆の度合いは大きくなるけど、でもそれでも人間は他人を求め、他人に求められるもの。そう思うと……この世界は、ちょっと生き辛いわ』


この博士の言葉が、少なくとも自分の考え方に影響を与えたのは間違いない。

今でもこの言葉を思い出す度、冷静になって物事を考えられる気がする。

心があるかどうかも分からない自分が、本当に人間の友達としてやっていけるのだろうか……二人を落胆されたりは、しないだろうか。

上辺だけの仲良しのほうが、きっと楽なのに――。


「――ボクもっ、仲良くなりたいよ!」


それでもこう思うのは、なぜだろう。

鈴の事を友達と言ったのは本心からであった。言って、初めて気がついた。

自分はその言葉に、特別な想いを抱いていたという事に。

博士はいつだって、一定の距離を持って自分と接してきていた。

それが普通だと思っていたが、この町に来て名前を他者から呼ばれた時……多分、心が震えた。

一定以上の距離を縮めて接した時、確かに疲れたけど……でも、楽しかったのだ。


(ボク、独りが淋しいんだ)


【フランケンシュタインの娘】は、この世で一人きりの存在である。種族として分けられると、林檎はたった一人……いや、たった一つの【フランケンシュタインの娘】だ。

人は、同じ人間の中にいて集団という安らぎを得る。しかし林檎の場合、それは永久に得られない安らぎだ。もし博士のように独りで生きられるなら、それもいいのだろう。

でも、自分はそうじゃない。

淋しがりなこの気持ちはきっと――自分の『心』なんだと、今なら思う事ができた。


「でも二人が知ってるボクは、ボクじゃない。本当のボクじゃないの……それでもいいの?」


「だぁもうっ! ごちゃごちゃ悩むの止め! 林檎は私達と仲良くしたい、私達も林檎と仲良くなりたい。なら友達になるしかないじゃん? 悩むんならそこから悩んで、作るんなら壁を作ればいいの! 問題なんて、そこから考えても遅くはないわよ」


「林檎は色々と深く考えすぎなんです。もっと気楽に、弥生みたいに能天気になってみてください。今どうしようもない秘密を抱えていても、時間が過ぎる中で打ち明けられるようになるかもしれません。ネガティブな発想ばかりでなく、ポジティブな発想もしてみませんか?」


二人の言っている事は、まだ何も知らないからこそ言える言葉に聞こえた。

林檎が人間でないと知ったら、人の姿を模した存在だと知ったらどう思うか……それは誰にも答えの出せない問いだ。

あの言葉を言った後、博士は『でもね……』と悲しそうに言葉を続けた。



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