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〜第四章〜

こういった場合の対処法はどの本にも載っていなかったので、笑顔に気を配りながら質問に答えるよう、林檎は精一杯心がけた。


「ドイツの女の子ってどんなファッションしてるの? やっぱりあっちの男子って格好いいんだろうなぁ」


「富裕荘? 聞いた事ないなぁ。それより林檎ちゃんは日本のどんなのが好き? 芸能人とか知ってる?」


女子達は林檎の事を全て知らないと気が済まないのか、知ってどうなるという事まで聞いてくる。

間髪いれず質問されるのでさすがに疲れてきた時、弥生が林檎と女子達の間に入って静止するように手を振った。


「はいはい皆、そんな矢継ぎ早に質問してたら林檎が疲れちゃうわよ。ここは代表して、先生公認の友達である私に任せなさい!」


「なにその先生公認って?」


「さっき朱毬先生から呼ばれ、学校の事を色々教えてあげるようにと言われたんです。以降、林檎に質問する場合は私達を通してくださいね?」


不満はあるようだが朱毬の名前は強力なのか、女子達はいそいそと席に戻っていった。

次に行動力のある男子数人が質問にやって来たが、やはり朱毬の名前で追い返す事が出来た。

やっと一息つけると安心する林檎に、弥生が手を合わせてすまなそうに謝ってきた。


「気を悪くしないでね、この町って田舎だから転校生が珍しいのよ。しかも帰国子女ときた日には……ああいうのは、ほどほどに受け答えしてればいいから」


「ちょっと、疲れちゃったかな。勢いがあったっていうか、若いっていうか。それより朱毬さんが言ったっていうのは本当?」


「本当とも言えますし、嘘とも言えます。でも、どっちでも構わないじゃないですか。こうやって質問攻めは止みましたし、私達が友達というのも事実ですし。それより朱毬先生は凄いですね……名前だけで印籠効果が出せるとは。黄門様もビックリです」


「こうもんさま?」


日本について事前に調べたといっても、さすがに時代劇までは林檎も調べていない。

弥生が呆れたように「林檎が分かるわけないでしょ」と言うが、由宇は掛けている眼鏡の縁を上げ、拳を握りながら「しかし時代劇は世界に誇れる日本の文化ですよ!」と力説する。

その際に垣間見えた瞳の中の情熱は、ブルマを穿かせた時の朱毬と同質のものに感じられ背筋がゾッとした。


「ご、ごめんね由宇。日本については知らない事が多いんだ」


「気にしないで、こいつはただの時代劇オタクだから」


「失礼な! 私は今の流行でいうと歴女いうものですよ」


「こら! 林檎に変な知識を覚えさすな!」


そんな風にわいやわいやとやっているうちに予鈴が鳴り、皆が席に戻りだした。


「次の昼休み、一緒にお弁当食べようね」


席へと戻る際、弥生がそう言って軽く手を振った。林檎は笑顔で手を振り返しながら、しかし心の中は暗澹としていた。


(……クラスメート、か。何だか、すごく疲れた)


学校に通った事もなければ、無論同年代の人間と接した事のない林檎にとって、これは貴重な体験である。

しかし知識として知っていたコミュニケーションの取り方や、上手くできると思っていた大勢との会話も、自分には向いていないんだと思えるほど、今の林檎は疲れていた。

これでは博士と同じ他人嫌いになってしまうと考えこみ、そのせいで隣の席にいた由宇から呼ばれている事に気付けなかった。

突然頭を教科書で叩かれ、林檎が顔をあげると目の前に幽季はが立っていた。

どうしたのだろうと口を開こうとした時、また頭を軽く叩かれた。


「えと、痛いよ幽季さん?」


「学校では先生って呼びなさい、林檎。それより私の話を聞かないで考え事なんて、初日から気を抜きすぎじゃないかしら?」


何の事を言われているのか分からないので、林檎は首を傾げるしかできなかった。

幽季は丸めた教科書で肩を叩きながら、その反応に小さく溜め息をいた。


「本当に聞いていなかったようね……私の授業担当は英語でしょう? だからあなたにドイツ語を喋ってもらって、皆に英語との違いを教えてほしいの。頼めるかしら?」


「そういう事なら。ならドイツ語で自己紹介をしてみるよ」


「……そういえばドイツって生徒と先生の間柄でも敬語を使わない国だったわね。その辺りは、徐々に慣れていけばいいでしょう」


幽季の小言を受け流しながら、林檎はドイツ語で簡単な自己紹介をやってみた。


「ヤパーナァ イェーダァ マイン ナーメ イスト リンゴカザキリ。エス イスト ディ プッペ ディ アオス ドイチュラント コンメン」


聞きなれない言語に生徒達は感動し、自己紹介が終わった後拍手をする者までいた。

だが、その発した内容が自虐に満ちていた事は、誰も知らない。


「はい、ありがとう。英語は元々ドイツ語が起源とも言われていて、それゆえ文法や単語で似通ったものが多いわ。ドイツ語はローマ字表記の読み方をするのに対し、英語はつづりとは違う発音もする。これには言語として完成していく過程が関係しているんだけど……歴史を教える時間じゃないから説明はなし、気になったら自分で調べてね。それじゃあ教科書を――」


一斉にページのめくられる音を聞きながら、林檎は静かに席についた。

すると横から由宇に突かれ、見ると紙片をこちらに差し出していた。

受け取って開いてみると『格好よかったです! ご褒美として卵焼きをプレゼント』という文字。

由宇のほうに視線を向けると、彼女は親指をグッと立てながら微笑んでいた。


――なぜだろう。


疲れと比例するように、楽しさや嬉しさが増えていく。

接したくない、もう嫌だと思うのだけど、接するたびになぜか心が安堵する。

机に入っていた英語の教科書を開いて、自分では気付かぬまま林檎は笑っていた。

自然に、無意識のまま笑っている事に気付いた時、林檎はこう考えた。


(これはボクの心? それとも、脳に僅かにだけ残ってる、元の人のもの?)


人間に触れ合いながら、例えそれが上辺だけであろうとも……本心を語れぬ間柄であろうとも。

こうやって学校に通っていれば、何かを得られる気がした。

顔に浮かんだ笑みを引っ込めると、林檎は窓から見える冬晴れの空を眺め、そうしてまた幽季に頭を叩かれるのであった。


昼休み、各々が仲の良い友達と席を合わせ、弁当のおかずを交換し、他愛のない話で盛り上がる、そんな心安らげる時間。

売店で昼食を買う生徒は慌ただしくしているが、他の生徒はこの小一時間ほどの休息を満喫していた。


「あれ、林檎って自分で作ってきてるの? 一人暮らしっていってたからてっきり売店組かと思ってたわ」


「ちょっと拝見……うわ、凄いですね。まるで高級スーパーで売ってそうな惣菜を、手当たりしだいに詰め込んだみたいです」


「う~ん、褒められてる気がしない」


由宇の例えは、しかしながら見事に的中していた。

今朝、朱毬から車の中で渡されたお弁当には驚き喜んだが、直後に惣菜を詰め込んだだけと聞かされ淋しい思いをしたのである。


「明日からは、自分で作ろう……」


「ん、何か言った?」


「何でもないよ! それより食べよう、二人とも」


弥生や由宇のお弁当箱に比べ、林檎のものは二倍の大きさがある。

そんなに食べると思われているのか、朱毬のサイズに合わせて作られたのかは分からないが、自分はこんなにも食べはしないし、食べきれない。

この身体は所々機械もあるが、殆ど生体部品なので食べ物を摂取するのに支障はない。

肉類と揚げ物ばかりの弁当は高カロリーすぎて、無駄なエネルギーが溜まってしまう……普通の人間と同じで、主に腹部辺りに。

そんなところまで人間と同じにしなくてもと思うが、だからこそ自分で管理しなくてはいけなかった。


(これは朱毬さんの好物なのかな? 家に帰ったら華雪ちゃんの好物と、一応譚檎のも聞いてみよう)


ドイツにいた頃は、博士の注文に合わせ和洋中どんな国の料理も作らされていた。

そのせいか料理作りが趣味になり、今も献立を考えただけで楽しい気分になっている。


「このおかずと比べたら貧弱この上ないですが、私の卵焼き、良かったら食べてください」


「お? おかず交換だね。なら私のも――よし、鮭を進呈しよう」


「有難う、二人とも。私のもじゃんじゃん食べてね。こんなに食べきれないからさ」


互いの席を寄せ、おかずを交換し、お喋りに興じる。

ふと周りを見回せば、他のグループも皆楽しそうにこの時間を過ごしている。

大人数の中で、友達と少数の集まりをつくる。

二重の皮膜に包まれたような安心感は、博士と二人っきりで食事をしていた頃には無かったものだ。


(なんか、いいな……)


居心地がいいとはこういう事をいうのかもしれない。


心が居る地、自分が、今いる場所――。


不意に、肌に突き刺さるような視線を感じた。

視線は一瞬だったが、注意深く周囲を見渡すと視線の主とおぼしき人物を発見できた。


「鈴?」


伏し目がちにこちらを見つめ、教室の入口に立ったままの鈴。違うクラスだから遠慮をしている……最初はそう思ったが、何だか様子がおかしい。

林檎は鈴からの視線に、嫉みのような感情が込められているのに気づき、胸がざわついた。


「……ちょっとごめん」


「なに、お花を摘みにでもいくの?」


「顔に似合わず乙女チックな表現ですね」


弥生達の言葉に曖昧に返事をしながら、林檎は早足で鈴の元へと急いだ。

鈴は林檎が来る前に入口から離れてしまい、慌てて廊下に出たが、姿はどこにも見当たらなかった。


「いない……」


廊下には多くの生徒がいたので、姿も声も見当たらない知り合いを探すには少しばかり難しい。

弥生と由宇を長く待たせるのも失礼と思い、仕方なく林檎は教室へと戻った。

弥生は男子さながらの食べっぷりで弁当を食べながら、戻ってきた林檎に首を傾げた。


「早かったね、お花は摘めなかったの?」


「えと、何の事?」


「つまり……やめましょう、食事時の話題としては似合いません」


苦笑する二人に林檎は納得のいっていない様子だったが、その話はそこで打ち切りとなった。

鈴の事は以前として気になっていたが、林檎は二人と他愛ない話をし、時に他の女子から色んな質問を受けながら、学校初日の昼休みは過ぎていった。

その後の授業は、研究室でしていた自主学習が役に立ち、勉強面で置いていかれるという事はなかった。

むしろ高校生でこのレベルかと、ちょっと日本のレベルの低さに驚いたくらいである。


「そうだ、林檎この後ヒマ?」


――ホームルームが終わり生徒達が帰っていく中、弥生はスポーツバッグ片手に林檎に近寄って来た。

この後特に予定があるわけでもないので、その事を伝えると弥生は今日一番の笑顔を浮かべ、嬉しそうな声をあげた。


「良かった! ほら、まだ部活の事とか分からないでしょ? だから今日は、私の入っている陸上部でも見学させたげようかなって。でも、本当に大丈夫? 引っ越してきたばかりで荷物の整理とかあるんなら、無理はしなくていいのよ?」


「えと、それは大丈夫だよ。荷物はそんなに無いし、弥生が部活をしてる姿も見てみたいもん。こちらこそ、どうか見学させてください」


丁寧に頭を下げたら弥生は恥ずかしそうに頬を掻き、二人は教室を後にした。

道すがら由宇も同じ陸上部に入っている事や、弥生は短距離の選手で由宇は長距離の選手である事など、大会では良い成績を残している部である事を教えてもらった。

校舎から見えているグラウンドはとても大きく、どうやらいくつかの部が一緒に使っているようであった。

体育館の横にある部活棟に辿りつくと由宇が出迎えてくれて、林檎にジャージを渡してくれた。


「見学者用のジャージです。着替える時は部室を使ってくださいね」


促されるまま部室棟の一室に入ったら、そこでは陸上部の女子が着替えをしている最中であった。

他人の着替える場面に遭遇した事がない林檎は何となく恥ずかしく、部室から出ようとした――するとその時、女の子達がこんな話を始めた。


「そういえばさ、最近いきなり髪を引っ張られる子が多いんだって」


「どゆこと?」


「あ、私知ってるよ。誰もいないはずなのにいきなりグッと引っ張られるんだって。それも凄い力だから、髪が何本も抜けちゃう子がいるらしいよ」


よくある学校の怪談、ではなく噂……何気ない場繋ぎ的な会話だったが、聞いていた林檎には、その話が妙に引っかかった。


(髪を、強く引っ張られる?)


既視感がある、今朝のトイレ……引っ張られた時、傍にいたのは彼女しかいない。


「それにね、引っ張られた髪に触ってみると、ネバッとしたものが付いてるんだって」


恐る恐る、林檎は後ろ髪に触れた――にちゃ、と。

そこには僅かだが、粘ついたものの感触があった。


「これって……」


「あら、あなた誰?」


話していた子の一人が林檎に気付き、訝しげに話しかけてきた。

鈴の事は気になるが、林檎はひとまず置いておく事にした。

ここで勝手に帰ったら、弥生と由宇の立つ瀬がない。

ほどよい人間関係を築くため、今すぐ駆け出したい衝動を抑えて、林檎は自己紹介と見学する旨を伝える。すると今度は部室内の女子全員が話しかけてくる。


「なら、あなたが噂の転校生? ドイツ出身には見えないね」


「顧問がまた病気を発症してブルマを穿かせたらしいわね。皆体験した事だから気にしちゃ駄目よ?」


どうやら部員達もブルマは経験済みらしく、同情めいた視線を送ってくる。

それにしても顧問という事は、朱毬は陸上部の監督なのか……道理でブルマなんて物を用意できたわけだと、林檎は一人納得していた。


「でも顧問はBL好きであって、ブルマフェチじゃないから安心して。男子は冬でも短パン着用してるし、そっちと比べたら他愛ない事よ」


「いいのそんな教師っ!?」


突っ込んだ直後部室の扉が開き、タイミングを計ったようにジャージに身を包んだ朱毬が入ってきた。

すると女の子達は蜘蛛の子を散らすように外へと飛び出し、部室には林檎と朱毬だけが残された。


「どうしたんだ、あいつらは……ん、林檎じゃないか」


首から下げたメガホンを使ったので無駄に声が大きく、林檎は顔をしかめながら返事をする。


「えと、部活の見学に誘われたの」


「陸上部に興味があるのか? 別に入部するのは構わんぞ、ただし通過儀礼として……これを着用しなくてはいけないがな」


楽しそうにそう言って辺りをゴソゴソすると、見覚えのある三角形が姿を現した。

忘れようにも忘れられない、さっき女の子達の話題にのぼったあの三角形だ。


「ボ、ボク……今日は見学に来ただけなんだけど」


「そうかそうか――しかしな」


ジリジリとにじり寄る朱毬から逃げるが、部室は狭いのですぐに壁際まで追いつめられてしまった。

逃げ場のなくなった林檎に、朱毬は意地悪そうな笑みを向けながら、三角形の布を人差し指でクルクル回していた。


「見学者でも、問答無用だ!!」



「……さ、寒くない? 林檎」


「……私のカイロ、貸しましょうか?」


「二人の優しさが身に染みる……」


グラウンドに集まった陸上部員に混じって、林檎はジャージの上着にブルマという格好をして朱毬の横に立っていた。


(ド変態だよ、朱毬さん)


陸上部は男子と女子と分かれて部活動をやっているみたいだが、この姿は同性に見られるのだって恥ずかしかった。


「朱毬さんは救いようのない腐女子だね」


「いいか、世の中は萌えか非萌えにしか分けられない。それなら萌え側になったほうが、お前も嬉しいだろう?」


一人ご満悦の朱毬は無視して、林檎は陸上部の活動を眺める。

どうやら顧問がきちんとしていなくても部活動は出来るらしく、柔軟体操やタイムを計ったりと各々のやりたい事をやっている。

弥生と由宇もペアでタイムを計っていて、今は弥生が走る番だった。

ジャージを脱いで体操服姿になった弥生が当然のように短パンだったので、林檎はブルマを隠すようにジャージの下へと引っ張った。


「あっ、林檎。朱毬先生からの拘束は解けたみたいね。あの人普段はいい先生なんだけど、時たま変なスイッチ入るから」


「確か弥生は短距離走者だったよね。速いほうなの?」


「弥生は頭のほうは残念ですけど、運動は得意なのですよ。この部のエースなんです」


「ふふん、伊達に運動バカと呼ばれていないわ!」


ストップウォッチを持った由宇の掛け声でスタートした弥生は、綺麗なフォームで五十メートルを走りきった。

五十メートル走の平均タイムは知らないが、他の部員の走りと比べれば弥生は確かに速かった。


「ふう、今日はまずまずね」


スタート地点まで戻ってきてジャージを着る弥生に代わり、今度は由宇が体操服姿になった。入念に屈伸運動をしながら、ふと思い出したように林檎のほうを向いた。


「そうそう林檎さん、この町にある【七不思議】というのを知っていますか?」


「いきもどりの橋だっけ? あれには驚いたな」


「【七不思議】っていうのは、この町で皆が体験する、噂よりも不可思議なものの事なんだよね。私も由宇と渡った時はビックリした」


「いきもどりの橋は確かに不思議でしたけど、別のところに新しい橋が造られてからは聞かなくなりましたね。実は、親水高校にも皆が同じように体験できる【七不思議】があるんですよ。知りたいですか?」


そこまで言った時ホイッスルの音が聞こえ、弥生と由宇は驚いたようにそちらを向いた。


「ほらほら、無駄話は止めろ。私が妄想に浸っている間にサボるなんて許されんぞ?」


朱毬は片手に持ったメガホンで軽く肩を叩きながら、知らない間に三人のすぐ傍に立っていた。

由宇はまだ喋り足りなさそうに林檎のほうを見たが、渋々スタートの用意を始める。


「【七不思議】の事は、いつか校長先生が話してくれるはずだ。それまでは、お前は知らんでいい」


林檎に小声で言うと、朱毬は別の部員のほうへと向かって行った。

弥生と由宇もタイムを計るのに集中していて話の続きを聞けず、林檎は何とも消化不良のまま、この日の部活見学は終了した。



富裕荘に帰ってくると、どの部屋にも電気が付いていなかった。

まだ夕方だが冬はすぐに真っ暗になるので、周りの家々は明かりを付けているというのに……まるで富裕荘だけが夕暮れに呑まれてしまったかのようだ。


(誰もいないのかな?)


朱毬は遅くなると言っていたのでまだだろうが、華雪や譚檎はどうしたのだろう。

陽が沈みかけた今は気温もグッと下がっているので、寒さを嫌がる譚檎が外出とは考えにくい。

華雪は……話さないのでいまいち性格が分からないが、何となく家にいるのが好きそうな子に思えた。

自分の部屋の鍵を開け荷物を置くと、林檎は華雪の部屋に向かった。

太陽は完全に隠れ本格的な夜が訪れ、ローファーの足音が異様に響く気がする。

急に、不安のようなものが浮かんできた。それは暗闇の中を一人で歩き続けているような、言うなれば孤独といった感情。

博士と住んでいた頃、林檎は石階段を上っていく博士の後ろ姿を眺めるだけであった。

博士の手にあった、地下の唯一の灯りであるランタンは遠ざかり、自分は反響する靴の音を聞きながら寝台に横たわって、もうすぐ来るであろう完全なる闇に対して身構えていた。

胸を締め付けられるような孤独に苛まれ、林檎の足はいつしか止まっていた。

見えない手が闇から伸びて足を掴み、もっと奥底へと引きずり込もうとしているような気がする。

と、その時足元を暖かいものが触れた。

ふさふさの手触りのいい毛が足をくすぐり、甘えたような鳴き声が耳に届く。

恐る恐るしゃがんで触れてきたものを持ち上げると、僅かに白い事が確認できた。


「……譚檎、じゃないね」


白い毛並みに見覚えのある猫だが、「にゃあ」と鳴くので譚檎ではない。

いや、譚檎が憑依を解いた猫、といったほうが正確だろう。

ならば必然、譚檎は誰かに憑依している事になるのだが……猫は床に降ろされると階段のほうへと走っていき、そこで立ち止まりこちらを向いた。


(付いて来いって事?)


闇であっても瞳を煌々と輝かす猫に見つめられて数秒、林檎はマフラーを巻き直すとスッと立ち上がった。

コートのポケットに手を突っ込むと貰ったカイロに触れ、ほんの少しだけ暖かさが戻った気がした。

本当はあの頃、地下の研究室から地上へと上がっていく博士を、自分は追いかけ引き止めたかった。

一人は、とても嫌だった。遠ざかる背中も、聞こえなくなる声も、全てが自分を闇に沈めていくようで、必死で歯を食いしばって堪えていた……道案内をする白い猫がどこに行くのか分からないが、その先に誰かがいる事を、林檎は無意識に願っていた。

一人っきりの闇を払拭する何かがあるのを請うように、林檎は夕暮れの町を歩き出した。



暗くなったとはいえまだ夕食の時間帯、左右に広がる住宅のそこかしこからは明かりが漏れ、美味しそうな匂いが夜道に漂っている。

歩いて程なくして猫は公園に入っていき、林檎もそれに続いた。

中は鬱蒼と茂った木々が無数に生える、森林公園のようであった。

街灯が等間隔で設置されてはいるが、木々に纏わりつく闇が濃すぎるのか、どうも不気味な印象を抱かせてしまう。


「何か、変な感じ……」


林檎はこの森林公園に来てすぐ、肌をピリピリさせる感覚に襲われていた。

頭の奥に鈍痛に似た痛みがあり、それはこの町に来て、度々感じるものであった。

風に揺れる葉の音が妙に大きく聞こえ、どこからか犬の喧嘩する声が響く。


「あれ?」


立ち止まっていた間に、どうやら猫を見失ってしまったようだ。急に心細くなり、「猫ちゃ~ん……どこいるの?」と呼んでみるが、当然返事はない。

途方に暮れて街灯の下にあったベンチに腰かけると、忘れていたように寒さが身に染みた。


(寒い……猫はボクをどこに連れて行きたかったの? それともボクの、単なる思い違いだったのかな)


しばらくボーっとしていたが猫は一向に現れないので、林檎は元来た道を戻ろうと立ち上がった。

猫に担がれた、いや、ただ自分が勝手について来ただけなのだろう。どこかに連れて行こうとか、誰かに会わせようなんて猫が思うはずは――。


「ん?」


葉の揺れる音に混じって、何か別種の音が聞こえたような気がした。

浮きかけていた腰は中途半端な位置で止まり、その体勢のまま林檎は耳をそば立てる。

ガラスの割れる音……違う、これはそんなものじゃない。例えるならガラスで出来た彫刻を大きな力で壊したような、そんな凶悪さを感じる破砕音だ。

更に意識を集中させると、誰かの荒い息遣いが聞こえるようだった。

なぜそんなものが夜の森林公園で聞こえるのか分からず、林檎は混乱しながらもその場を動こうとはしなかった。

猫はもしかして、この音の主に会わせるために自分をここまで連れてきたのでは……そう考えてしまうと、見つけるまで帰ってはいけない気がした。


(……あっちだ)


何となく音のする方角に目星を付けて、林檎はそちらへと走り出した。網の目のように広がる舗装された道を進んでいると、すぐに大きな広場に辿りついた。

森の中にぽっかりと空いたそこは整備されてなく、地面には枯れ草の絨毯が広がっている。

街灯も数えるほどしか設置されていないので、まるで深遠へと続く入口のように思えた。

そして、林檎は音の主を発見した。

闇の中でも発光しているように、白い光に包まれた小さな身体。

厚手のコートから時おり覗く素足は細く、頭には見覚えのある黒色の耳。

幼さの残る顔に妖艶な笑みを浮かべながら、その人物――華雪は、広場で踊るように動き回っていた。


(……譚檎? また憑依してるんだ)


耳があるという事は、昨晩見かけたように譚檎が憑依している状態なのだろう。コートで見えないが、きっと尻尾も生えているはずだ。



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