〜第三章〜
三秒と考えられないまま時間切れ。
反論しようとしたが先に説明が始まってしまった。
「それは皆、願い事を叶えてもらいたいからや。妖怪を出れないように神力を使っとる、町のどこかにいるはずの『誰か』にな」
「それってやっぱり!」
「ストップ、神様いうんは無しや。まだ誰も姿を見たことないし、会ったこともない。勝手に神格化なんてしたら、余計な事態を招くだけや」
「なら何て呼べばいいの? その誰かさんは?」
「とりあえず【神通主】って呼んどる。まあ、こう呼んでるんはアタイらと噂怪だけやけどな」
噂怪――また出てきた。
一体それが何を指しているのか。人間でも妖怪でもないのなら何なのか。
林檎にとって未知の存在そのものである。
「……分かった説明したるよ。噂怪について知りたいんやろ?」
あまりにも説明してほしそうな顔をしていたのか、鈴が笑ってそう言った。
林檎は気恥ずかしくなってそっぽを向くと、視界の端を小さな光が通り過ぎていった。
次々に光が現れ、目の前は光の大行進となってしまっている。
蛍の光にも似ているが、弱々しい光ではなく、かと思えばゆらゆら揺れて、消えたりする。
赤にオレンジに青と多種多彩な色がパレードし、光の列が街灯の下を通った時、林檎は声を上げそうになった。
街灯に照らし出されたのは小さな狐であった。
子供サイズから手のひらサイズの狐が、二本足または浮いたり跳ねたりしながら列を成しているのである。
吐息が光るものもいれば、尻尾をぶつけて光を生み出すのもいる。何だか楽しげで、何より可愛くて、無意識に近寄ろうとすると後ろから凄い力で髪を引っ張られた。
「な、なんでっ」
「あかんよ林檎っち。あの狐火は現世の景色やない、常世へと通じるものや。今のどっちつかずな林檎っちじゃ帰って来れなくなる」
振り返った林檎が、言葉の意味が分からず首を捻ると鈴は小さく笑い、髪を掴んでいた手を離してくれた。
「その心のままだったら、きっと人間として生きていけるはずやよ。まだ選ぶ選択肢が林檎っちには残ってる。でも、アタイには……」
そこで言葉を区切った鈴に、林檎は何と声をかけていいのか分からずにいた。
狐火の行列はいつしか消え、周りは冷え切った暗闇が広がっていた。
空に輝くおぼろげな月も星も、鈴の表情までは照らさない――数分して「帰ろうか」と鈴が呟くまで、二人はじっとそこにいた。
手は、握ったままであった。
あれから口数の減った鈴とは、結局何も話さぬまま富裕荘の前で別れてしまった。
「あら、やっと帰ってきたわね」
「……えと、華雪ちゃん、なの?」
そして階段を上がるとなぜか口調の違う華雪に話しかけられ、林檎は思わず質問してしまった。それに対し、華雪は妙に艶やかな笑みを返してくる。
しなやかな動きで頭の髪の毛を指さす――いや、正しくは頭から生えている『耳』のようなもの、である。
「これが見えない? 私は譚檎よ。今、華雪の身体を借りているの」
自らを譚檎と言った華雪が示したのは、頭にある耳とお尻から出た尻尾。
どちらも髪の毛と同じ黒色をしており、作り物ではない生々しさを持っている。
そういえば瞳の色も、金色に変わっていた。
「身体を借りているって、ど、どういう事なの?」
「どうもこうも、それが私の能力。そんな事より部屋を整えたから来なさい」
能力の説明をそんな事の一言で終わらせた譚檎は、開けていた扉からずかずかと入っていく。
慌てて後を追って――直後、林檎は息を呑んだ。
「これが、ボクの部屋……」
「必要最低限の物は揃えてあるわ……って、どうしたの?」
一見すれば普通の部屋である。
特別お洒落というわけでもなく、個性のない一人暮らしの部屋といったところ。
洋服タンスにガラス製のテーブル、ブラウン管のテレビと、少し大きめのベッド。台所はこぢんまりとしているが、料理器具は一通り揃っているようだ。
林檎はどうやら、そんな普通の部屋に感動しているらしかった。部屋全体を見回し、震えながら口を開く。
「ちょっと嬉しくて……ボクって博士と暮らしていたけど、生活していたのは地下の研究室だったの。外の世界に出たのだって日本に来るための旅行が初めてで、研究室は石造りだし、機械とか本しかない場所だった。こんな普通の部屋が持てるなんて、思ってなくて……」
「そう、喜んでくれたのなら私も嬉しいわ。ていうかあいつ、そんな育て方をしていたのね」
譚檎が溜め息を漏らした時、閉められた玄関扉が引っかかれるような音がした。
林檎が気になって扉を開けると、その隙間からするりと一匹の猫が入ってきた。
「あれ? この猫」
足元に擦り寄る人懐っこい猫には見覚えがあった。
持ち上げてみると、目の色は茶色なのだが、外見は間違いなく譚檎そのものだった。
「ああ、その子は私がいつも『憑依』している子よ。今日は荷物を受け取るのに華雪の身体を借りているけど、いつもは妖力を消費しないで済む猫の身体を借りているの」
林檎から猫を受け取り目を閉じると、白い靄が身体を包んでいく。
徐々に耳と尻尾が消えていき、いつしか茶色の瞳は金色へと変わっていた。
華雪がゆっくり倒れていくので慌てて抱きかかえ、ベッドの上に寝かしつける。
「ふう、やっぱりこっちの身体のほうが落ち着くわね。人の身体は『噂怪狩り』のときだけで充分」
「噂怪狩り? 結局噂怪については鈴から聞けなかったし……譚檎はこの町で、一体何をしているの?」
「噂怪の事を聞いてないって、一番大事なことじゃない――まあ、簡単に言えば成れの果てってところかしら。【神通主】を求めるあまり、身も心もこの町に染まってしまったモノ……奴等の現れるところにはいつも、奇怪な噂が囁かれている」
「求める者の、成れの果て……う、噂ってどんなのがあるの?」
「色々よ。個人から集団、本当に色んな噂があるわ。噂だけってのが殆どだけど、たまに当たりを引く。もう一つの特徴は、黒くてネバネバしてることかしら?」
譚檎はフンと鼻を鳴らすと、壁に据え付けのクローゼットを示し「開けなさい」と言ってきた。
言われるがままクローゼットを開けると、中には鈴の着ていた制服と同じものが入っていた。
「私はあんたに、選択の余地を与える事にする。というわけで、とりあえず明日から学校に通いなさい、いいわね林檎!」
「…………えと、はい?」
部屋には林檎の素っ頓狂な声と、華雪の小さな寝息のみが響いていた。
神通町には、南北に一つずつの駅が存在する。
町の名前がそのまま付いた『神通駅』と、川の上流近くにある『親水駅』である。
町の中心部に建てられた神通駅は規模も大きく、駅周辺も発展している。有名デパートやゲームセンター。
カラオケ店や映画館も多く立ち並び、近くには商店街もあるのでいつも活気に満ちていた。
一方やや山のほうに建てられた親水駅はといえば、神通駅と比べるのも馬鹿馬鹿しくなるくらいに寂れていた。
「ねえ朱毬さん……この駅、本当に電車って来るの?」
「線路があるんだ、いくら無人駅だといっても電車が止まらないわけないだろ?」
川の近くというよりも、山々の隙間に無理やり線路を走らせたような、富裕荘に負けず劣らずの駅舎であった。
周りのフェンスには蔦が巻きつき、枕木の間には所々草が生えている。
必要最低限の整備しかされていないらしく、駅構内は惨憺たる光景だ。
親水高校の生徒達は殆どが神通駅から電車で通学し、残りは自転車や徒歩などで学校に移動する。
バスもあるにはあるのだが、朝は病院に行こうとする老人が多いので、学生達は気を使って乗らないようにしている。
普通なら、林檎も学校へ行かなければならない時間である。
真新しい制服の上に指定のコートを羽織り、気合十分で学校初日に挑もうと思っていたのだが……。
「いつまで待ってればいいの?」
「ううむ、あと少しで来ると思うんだが――と、噂をすればだな」
その時、豪快なエンジン音を響かせながら、一台の車が親水駅に近づいてきた。
田んぼに挟まれた細い道路をよくあんなスピードで……と思っていると、車は更に加速して林檎達へと突っ込んでくる。
「ちょ、これって危ないんじゃ――」
「飛べっ!!」
朱毬に襟首を掴まれ後ろに飛びのいた瞬間、その場所を車が猛スピードで通り過ぎる。
けたたましいブレーキ音が鳴り、長いブレーキ痕を刻みながら車は停止した。
「なっ、なっ」
「相変わらず危ない運転だな……」
シルバーに塗装された、3ナンバーの高級車である。
と、運転席から黒のパンツスーツを着た女性が降りてきた。やや茶褐色ぎみの髪は鬣のように揺れ、シルバーフレームの眼鏡が女性を知的に見せている。
色素の薄い瞳で林檎を見つけると、すぐに柔和な笑みを浮かべて話しかけてきた。
「いきなり驚かせちゃったかしら? まだ運転に慣れてなくて、でも怪我がなくて良かったわ。初めまして林檎」
「えと、は、初めまして」
「慣れてないって、もう何年運転しているんだお前は。いまだに事故を起こした事がないのが不思議でたまらん」
「朱毬、それは私の運転を褒めてくれているの?」
「相変わらず冗談が下手だな馬鹿やろう」
二人は親しげに会話をしているので、先ほどから待っていた相手はこの女性のようであった。
一体誰なのかという林檎の視線に気付いたのか、朱毬は女性の紹介を始めてくれた。
「こいつは東雲幽鬼、親水高校での私の同僚だ。二年の英語担当だから、学校で会う事は多いだろう。顔を覚えておいて損はないはずだ」
「林檎、体力馬鹿の朱毬よりは頼りになると思うから、何か困った事があったらいつでも言ってね。それと、学校生活での注意点を話すために今日は車だけど、明日からは電車通学よ?」
(……鈴はどうやって通ってるのかな?)
昨日鈴が着ていた制服は、自分が着ているこの親水高校のものだった。
話では朱毬が受け持つクラスへと編入するらしく、林檎の学年は二年生となる。
ブレザーに付ける校章のピンバッジは各学年で色が違い、一年が青、二年が赤、三年が緑となっている。思い出すと鈴のピンバッジは赤だったので、林檎と同じ二年生のはずだ。
鈴の事を聞こうかと思ったが、どうせ学校で会うのだから本人に聞けばいいと、林檎は黙っておく事にした。
鈴と一緒に通学できるかもと想像すると、何だかこれから、通学するのが楽しみに思えてきた。
「一つ言っておくが幽鬼は妖怪の部類に入るぞ。こいつが力を発揮した時なんてもう怖いなんてものじゃ――」
「朱毬、話は車の中でしましょう。初日から遅刻なんて林檎も嫌でしょ?」
車へと乗り込む前に朱毬が近づいてきて、「吐くなよ……」と小さく呟いた。そこはかとなく嫌な予感がしたが、林檎は覚悟を決めると車に乗り込んだ。
「…………うえっぷ」
親水高校の校門前、まるで酔っ払いのような足取りで歩く林檎がそこにはいた。
車の中で会話が出来たのは最初のみで、あとはずっと目を回していた。
上下左右に身体を引っ張られ、景色を見ようものなら吐き気が込み上げてくる。何箇所か赤信号を無視していたような気もするが、記憶が曖昧になっているので何とも言えない。
結局、朱毬がどんな事を話したのか殆ど忘れてしまった。覚えているとすれば、すぐに職員室に来るよう言っていた事くらい。
「うっ、本格的に駄目かも」
ヨタヨタとおぼつかない足取りで校舎に入り、ちょうど近くにあった女子トイレに駆け込んだ。
酸っぱい味が口の中に広がって、もう限界という瞬間、その吐き気すら忘れさせるものが視界に映りこむ。
「っ!?」
トイレの窓からは校庭が見え、その間には何本もの木が植えられている。
窓枠と木の間は人一人が通れる隙間があり、そこをあの時の――天門橋の下にいた大猿が横切ったのだ。
顔はこちらを向いていなかったが、横目でずっと見られていたような気がする。
茶色の体毛に覆われた巨体が、窓の端から端を通り過ぎる……ハッとして窓から身を乗り出したが、もう姿はどこにも見当たらなかった。
背筋に悪寒が走り、妙な胸騒ぎがする。この町にきて、知らない間に何かと関わってしまったように思える。
その時、林檎の脳裏に一つの言葉が浮かんできた。
(噂、怪)
今のところ、噂怪という言葉の指すものは詳しく分からない。でももし、あの猿が噂怪ならそれに追随する噂があるのだろうか。
「どうしたんや林檎っち?」
「うっひゃあ!?」
突然声を掛けられ、ついでに後ろから髪を引っ張られた。そのあまりの力強さに驚いて振り向くと、鈴が昨日と同じ笑顔で立っていた。
「トイレに長居するんはいいけど、今は急いでるのと違う?」
「も、もう鈴……お願いだから驚かさないでよ」
鈴は鏡面台に寄ると髪型を整えたりリップを塗り、「うわ、枝毛や」と悲しそうな声を出した。
と、林檎を見て小さく笑う。
「なかなかサマになっとるやん。どっからどう見ても華の女子校生やで?」
「……この身体は、十代の子を使ってるらしいから。博士いわく、『女の子が一番可愛い時期はその年代だ』だって」
「ふ~ん……その博士はどうやら、貧乳が好みやったんやな」
「ひんにゅう、って何?」
言葉の意味が分からず聞き返すが、鈴はニヤリと笑うだけで答えない。
驚いて引っ込んでしまったのか吐き気はだいぶ和らいだので、林檎はトイレから出た。
鈴も後について出てきたが、彼女が向かった先は玄関の方向であった。
授業はと聞くと「早退する」と一言、そのまま出て行ってしまおうとする。
「っそうだ。ねえ、鈴はどうやって学校に来てるの? もし良かったらさ……その、ボクと一緒に通学しない?」
聞こうと思った時は軽く考えていたが、実際に聞くのはなかなか勇気のいる事である。断られたらと不安になり鈴を見ると、彼女は嬉しそうな顔をして……しかしすぐに申し訳なさそうな顔になり、首を横に振った。
「ごめん……アタイは富裕荘とは別方向から通ってるから、一緒には登校できんの……本当、ごめんね」
「そ、そんなに気にしなくていいよ! ボクも一緒なら楽しいだろうなぁって勝手に思っただけだから……ボクのほうこそ、何だかごめんね」
何度も謝る鈴にこっちのほうが申し訳なくなり、林檎も思わず謝ってしまった。
それから鈴は何か言おうとしていたが、結局は何も言わずに早退していった。
林檎はしばらくその場にいたが、落ち込んでる場合ではないと職員室に向かった。部屋には数名の先生しか残っていなかったので、お茶を飲んで何やら読みふけってる朱毬の事は、すぐに見つけられた。
「お待たせ朱毬さん。って、何を読んでるの?」
「おお!? なな、何だ遅かったな。迷ってたのかハハハハハ!」
林檎の声にすぐ読んでいた物を引き出しに戻し、空々しい笑い声を出す朱毬。
何を読んでいたのか聞きたかったが、何となく聞いてはいけない気がしたので……というか絶対に聞くなよと無言の圧力を感じたので、その事についてはスルーした。
「ちょっとトイレに行ってて。そこで鈴と会ったから、少し話してたの」
「鈴が? あいつは今授業を受けているはずだが……いや、まあいいか。まずは校長先生に挨拶するぞ。なにしろ急な転入を許可してくれたのだ、きちんとお礼を言わないとな」
朱毬は席を立つと、校長室というプレートの貼られた扉をノックして入っていった。林檎も続いて部屋に入り、驚きの声をあげてしまう。
床には畳が敷かれ、壁は土壁模様の壁紙が貼ってある。執務机の代わりにコタツがあり、掛け軸には校訓だろうか、達筆な字で『清く・正しく・朗らかに』と書いてある。
校舎の中に和風の部屋……そこには座椅子に座ってコタツでくつろぐお婆さんがいて、皺の多い顔を優しく緩ませながらこっちを向いていた。
会釈をして畳の上に上がると、おばあさんも会釈を返してくれた。
「こちらがエンバーミング校長先生だ。もう何十年もこの高校の校長をしておられる。校長先生、この子が新しい富裕荘の住人で、【フランケンシュタインの】のといいます。苗字は私と同じとし、親戚扱いで担任のクラスに編入させるつもりです」
「そう、あなたが林檎さんね。話はさんや朱毬さんから聞いていますよ。これからどうぞ、よろしくお願いします」
「こ、こちらこそよろしくお願いしますっ」
エンバーミング校長の瞳は淡い緑色で、髪の毛も白髪とは違うようだ。
だが外国人にしては、どてらを羽織りコタツに入っている姿が妙に馴染んでいる。纏う雰囲気は日本のお婆ちゃんそのものである。
「本来ならこんな時期の転入は断っていますけど、譚檎さんの頼みでもありますからね。ただし、人間の世界に入ってくるのですから、人間のルールに従ってくださいね?」
「校長先生は、譚檎を知ってるんですか? それに、ボクの事も……」
「おおまかな事は話してある。校長先生は……『元人間』で、人とは異なる者に理解ある、数少ない人物なんだ。もちろん理解あるという人の中には、私も含まれているぞ」
「……元、人間」
「別に人じゃ無くなったから、理解を持つようになったんじゃないんです。ある事がきっかけで……何事も何者も、枠ではなく内側を見るようになっただけです。例えばそう、朱毬さんは綺麗な女性で彼氏の三、四人はいそうですけど、実はBLを愛する恋愛下手な腐女子なんですよ?」
「ふごふぁっ!? いいい言わないでくださいよ校長先生!」
「教員机の引き出しにはお気に入りが入っていますから、今度見せてもらったらどうでしょう? 私には分かりませんでしたが、もしかしたら新たな世界が開くかもしれません」
「……さっき見てたんだね」
「あ、哀れんだような目をするな!?」
林檎の頬をつねり上げながら、朱毬の顔は羞恥に染まっていた。
だがエンバーミングの言葉に否定をしない辺り、腐女子と認知されるのを気にしていないようである。
「さて、朱毬さんの赤裸々な趣味も明かしたところで。まずは簡単にこの学校でのルールを教えてあげなくちゃいけませんね。林檎さん、遠慮しないでコタツに入ってください、朱毬さんもどうぞ」
二人がコタツに入ると、エンバーミング校長は学校生活で気をつける事や、簡単な行事の説明をしてくれた。
どれも林檎が理解できる常識的な事ばかりで、これならすぐに学校生活に馴染むだろうと思えた。
しかしその中に一つだけ、少し変わった忠告が含まれていた。
「それと、五階の第三資料室には入らないでくださいね」
「何でですか?」
「あそこは長年片付けていないので、入ったら怪我をするかもしれません。一応鍵はかけていますが……林檎さんは簡単に入れるでしょうからね」
「?」
鍵がかかっているのなら、普通入れないのでは……エンバーミング校長はただ微笑むだけで、それ以上は何も言わなかった。
「む、いかん、ゆっくりしすぎた。授業に遅れるぞ」
「失礼しました、エンバーミング校長先生」
「はい、また後ほど。学校生活を楽しんでくださいね」
礼をして二人が出て行くと、校長室は一気に静かになった。
と、突然映像が乱れるように部屋全体が歪曲すると、チャンネルの切り替えをしたように、部屋の内装が一般的な校長室へ様変わりしていく。
質実剛健な執務机には一人の少女が座り、八重歯の覗く口元を歪めて笑っている。瞳は淡い緑色で、髪の毛の色は……エンバーミング校長と、同じ色。
なぜか部屋には少女の姿しかなく、柔和に微笑んでいた老婆は煙のように消えていた。
「幻視の魔術は作動したわ。アレに私は見えていないし、貴女もちゃんと映っていた。ねえ、別に正体を隠さなくてもいいんじゃないのかしら? どうせいつかは分かる事なんだし」
「……ごめんなさい、でも林檎さんが『私の正体』を知るのは早いと思って。今はこの町に、学校に慣れて、少しでも楽しんでくれたらいいと思うの」
「はっ、貴女はそうやって優しさを振りまいているつもりなんでしょうけれど、実際にアレが真実を知った時なんて、誰にも分からないじゃない。楽しむですって? 人形がそんな感情を持つはずないわ。もしあの子が第三資料室に来たら、私の自由にさせてもらうからね……貴方の偽善は、いつ聞いてもヘドが出る」
壁の上部に飾られた歴代校長の写真を眺め、少女は目を細めて不機嫌そうに呟いた。
「――というわけで、ドイツからやって来た風斬林檎だ。長年あっちで暮らしていたが、日本語も話せるぞ。私の親戚だからって気を使わず、皆仲良くしてやってくれ。席は窓際の一番後ろが空いていたな、この授業が終わったら教室まで誰かに連れてってもらえ」
「えと……は、初めまして」
「なんだ声が小さいぞ? 緊張でもしているのか」
寒風の吹く親水高校のグラウンドで、朱毬はニヤニヤと笑みを浮かべていた。
林檎はといえば耳まで真っ赤にしながら、周りにいる体操服姿の生徒達から好奇の視線を浴びせられていた。
「今日の長距離走は二人一組だからな……仕方ない。町本と井上! 林檎と一緒にやってくれないか」
朱毬に言われて立ったのは二人の少女だった。見るからに活発そうな少女と、大人しそうな少女。
正反対に思える二人は林檎を見て……そして視線を下に向ける。
いや、正確に言えば林檎の下半身に、である。
(……なんで私だけブルマああっ!?)
少し前、女子更衣室で体操服を渡された時は疑問に思わなかった。
なぜなら、親水高校はブルマ指定の学校と思ったからだ。
しかしここまで来て皆のハーフパンツを見て、次いで朱毬を振り返って、そしたら小声で「最初はインパクトがあったほうがいいんだ」と意地悪そうに言われ……チラチラと送られるブルマへの視線が痛かった。
あと、男子からの妙に絡みつく視線も気持ち悪かった。
「五分経ったら一斉に走らせるから、それまでに走る順番を決めておけ。林檎との挨拶は休み時間だ、今は私の授業に集中するように!」
生徒達が「はいっ」と返事をし、皆ペアごとに分かれていく。何人かの女子は林檎に声をかけたそうにしていたが、朱毬の目線に気付くと逃げるように離れていった。
「井上由宇です。風斬さん、よろしくね」
「林檎でいいよ。こっちこそよろしく、由宇」
「へえ~本当に日本語上手いんだね、ていうか完璧じゃん。私は町本弥生、私も名前で呼んでいいかな?」
「うん、よろしくね弥生!」
先ほどの少女二人に声をかけられ、林檎は笑顔を心がけながらそれに応える。
『人とのコミュニケーションは笑顔から』と本の知識を活用し、華雪の時は失敗した笑いを惜しげもなく使っていく。
「本当は色々聞きたいけど……朱毬先生怒ったら相当恐いからさ。とりあえずパッと走る順番決めちゃおうか」
「そうですね、林檎は何番目がいいですか?」
「ボクは二人の意見に合わせるよ、好きに決めちゃって大丈夫!」
林檎はこうやって、愛想笑いで自らの印象を良いものへと固めていく。
噂怪という秘密を話せない他者、自分が人とは異なる存在だという事実、それは本心を隠す暗幕となり、奥に踏み込もうとする者を阻む壁となる。
(ボクは楽しむために来たんじゃない……譚檎に言われたから、命令されたから学校にいるんだ。楽しんじゃ……いけない)
踏み込むことも、踏み出すことも許されない自分はこうやって笑みを作り続けるしかないのだろう。
それこそ人形が変わらぬ笑みを浮かべるように、ただただ……誰にも嫌われないように。
「本当にドイツから来たの? あっちってどんなところ?」
「見た目は日本人っぽいけど、ドイツって何が有名だっけ?」
「へえ~、今はアパートで一人暮らししてるんだ。いいなぁ、私もしてみたい~」
体育終わりの休み時間。校舎三階にある2―Cのクラスでは、例に漏れず林檎の周りには女子が集まって、自己紹介と称した質問攻めを始めていた。