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〜第二章〜

冬場の白い息は、呼気中に含まれる水分が空気中の塵と結合して起こる現象である。

その日の天候などにも左右されるが、吐く息が白いと10℃以下、鼻息が白いと5℃以下とされている。


「はあ……部屋の中なのに、息が白いや」


白い息を見てふと豆知識が頭をよぎり、そういう事をよく知っている自分に苦笑する。

つまるところそれは処世術で、初対面の人との会話に困らないようにするためのものだ。

【猫女】の譚檎と出会って次の日の朝、富裕荘のとある一室に林檎はいた。

殆ど何もない部屋だった。あるのは小さい電気ストーブと冬物の布団、それと自分が持ってきたキャリーバッグのみ。

家具や雑貨は追々揃えていくので、とりあえずここで寝泊りするよう朱毬に言われ、昨晩からここは林檎の部屋となった。


「……」


ふと、枕元に目線を落とす。真っ赤に色付いた球体の果実は、窓からの陽光を浴びて僅かに輝いて見えた。

林檎はそれを手にとって、鼻を近づけてみる。


「林檎……か」


それは果実の名前でもあるし、自分に付けられた名前でもある。口の中でもう一度名前をすると、なぜか自然に笑みが零れた。


(博士以外に呼ばれたのって、初めてだ)


静かに笑うと、林檎は自分と同じ名前の果実に噛り付いた。ほのかな酸味と甘みが口の中いっぱいに広がって、幸福な気持ちにしてくれる。

小鳥のさえずりを聞きながらしばし咀嚼を続けていると、玄関前の外廊下を誰かの歩く音が聞こえてきた。

ヒールの音のようで、そんなものを履く人物はこのアパートに一人しかいない……林檎は残りの果肉を急いで食べきると、駆け出すように玄関の扉を開けた。


「おうっ!? 朝から元気だなお前は。その様子だと眠れたみたいだな、林檎?」


「うん! ちょっと寒かったけど、ぐっすり眠れたよ」


ドアに倒れこむようにして外に出ると、昨夜と同じスーツ姿の朱毬が驚きつつも挨拶をしてくれた。

クリーム色のスカートスーツに豊満な身体を包み、バリバリのキャリアウーマンに見えた。


「こんな朝早くから、どこに出かけるの?」


「仕事だ仕事。昨日も言ったように、親水(シンスイ)高校というところで私は非常勤の講師をやっているんだ」


「教えてるのは、やっぱり英語?」


「こんな日本語バリバリの私が英語を喋れるように思えるか? 現国だ現国」


似合わない――そう言おうとしたのだが、どんな教科でも彼女に合うような気がした。


「頑張ってきてね、いってらっしゃい!」


「おう、お前も今日は頑張れよ」


所々錆びている通路に、ヒールの音を響かせながら朱毬は去っていった。

とりあえずはと林檎は隣の部屋の前に立つ。表札には幼い字で『華雪&タンゴ』と書かれていて、なんだか暖かい気持ちになった。

チャイムを押すかどうか悩んだが、ドアノブを回すと鍵が開いていたので「おじゃまします」といって静かに入る。

シンと静まり返った室内。

聞こえる音はなく、台所の小窓から光は射しこんでいるが、居間のカーテンは閉められていて少し暗い。

台所の隅にはコタツが出されており、部屋を区切っているガラス戸を開けると一式の布団が敷かれてあった。

枕の位置には黒髪が見え、当の本人は布団の中に入り込んでしまっている様子。

部屋は先ほどまで暖房を入れていたのか暖かく、生ぬるい空気が充満していた。


「おはよう~」


一応声を掛けてみるが返事はなかった。どうしたものかと考えていると突然、テレビの上に置いてあった目覚まし時計がけたたましく鳴りはじめた。

それでも少しの間身じろぎ一つしなかったが、布団の中の人物はもそもそと起き上がり、掛け布団にくるまり毛虫のような動きでアラームを止めた。

次に寝ぼけ眼が林檎を捉え、理解するまで数秒。


「……」


「お、おはよう華雪ちゃん」


無言で下ろされた頭に挨拶を返すと、布団のほうからもう一つ声があがった。


「寒い……華雪っ、早く戻ってきなさい。それと林檎、コタツのコンセントを繋いで。中が暖かくなったらこっちに持ってきてちょうだい」


尻尾を一度宙に振って、丸まった白い塊が呼びかける。コタツのコンセントを繋いで居間に戻ると、華雪はまた元の布団の中に戻っていた。


「もう朝だけど、華雪ちゃん学校は?」


目覚まし時計を確認すると、もうすぐで学校が始まる時間だった。今日は週末でもないし、祝日ならば休みというのも分かるが、朱毬は普通に仕事に向かっていた。

具合でも悪いのかと少し心配になって近づくと、林檎の耳に規則正しい寝息が聞こえてきたので、具合が悪いという感じではない。


「あのね、学校に通ってるわけないでしょ。妖怪は生まれた時から自己が形成されているし、人間社会の常識や集団の行動意識を学ばなくても、人ならざる者としての誇りと驕りがあればやっていけるものよ――あんたは違うみたいだけど」


「うっ、ごめんなさい……」


「別に怒ってるわけじゃないわ。怒るとしたらあんたの親代わりにだけよ……とにかくお昼になったらまた来なさい。昨日話せなかった事や町の案内をしてあげるから」


譚檎の声はそれきり聞こえなくなり、部屋は再び静寂へと戻ってしまった。

寝ろといわれても今まで寝ていたし、あの何もない部屋に帰るのも、何となく嫌な気がした。

だからといって、譚檎達が起きるまで待っているのも暇である。


「……少しくらいなら、散歩に出ても大丈夫だよね」


まだまだ起きる気配はないので、林檎は富裕荘の周りを散策してみる事にした。

玄関の扉を音を立てないように開けると、冷えた外気から逃げるように自分の部屋に向かう。

キャリーバックに掛けていたパーカーコートとマフラーを身に付け、音を立てないように赤錆色の外階段を降りていく。

昨日は街灯の灯りのみで富裕荘を見たのだが、昼間に見ると格別に古めかしい……大よそ人が住めなさそうな雰囲気を出していた。

各階四戸の部屋があり、計八戸の木造アパート。

華雪や朱毬の部屋は二階の真ん中辺りにあり、林檎の部屋は左端になる。

譚檎はどうやら華雪と一緒に暮らしているようで、まだ他に住んでいる者がいるかどうかは聞かされていない。

……だが、聞かなくとも何となく答えは分かってしまった。


(とりあえず一階部分には誰も住んでないんだろうな……窓の割れた部屋なんて、寒すぎて居られないはずだし)


石でも投げ込まれたのか、はたまたバットで叩き割られたのか。一階の部屋全ての窓は割れ、中の様子がはっきりと見えていた。

ガラスの破片が床に散らばり、投げ入れられた空き缶などのゴミがその上に乗っかっている。

陽光に照らされた埃は光って綺麗だが、部屋は散らかり放題荒れ放題だ。

一つ一つの部屋を覗いてみたが皆似たりよったりで、誰かが住めるような状態とはとても言い難い。

廃墟に見えなくもない自分の住まいに苦笑いが漏れ、門扉の外に出ると視線を感じた。

富裕荘の入口前に立つ林檎から数メートルの距離に、大きな黒い犬が座ってこちらを見つめていた。

視線はどうやら犬からのようで、白目の少ない瞳でジッと林檎を見据えている。


(なんだろ? 富裕荘に入りたいのかな)


滞在二日目の町で犬に見つめられる理由などない。林檎でないとするならば、このボロアパートが関係しているのだろうか。


「ここに入りたいの? 入口塞いじゃってゴメンね」


立っていた場所から二三歩動くと、黒い犬は緩慢な動作で林檎に近づいてきた。

視線はずっと林檎の顔に合わせながら一歩一歩、そして富裕荘の入口まで来て――


「あ、あれ?」


そのまま、通り過ぎていってしまった。犬はこちらを振り返りもせず、ゆっくりした歩調で曲がり角に消えていった。


「何だったんだろ」


ただ見慣れない人物だったから見ていたとは、どこか雰囲気が違っていた。

まるで正体を見抜こうとするような……何者かどうか、見極めようとしていた気がする。

犬種はラブラドール・レトリバーだろう。あの視線を思い出すと身体に寒気が走って、気になって曲がり角のほうを振り返ってみる。

当然ながら犬の姿は無かったが、なぜか視線は、いつまでも林檎へと向けられ続けているように感じられた。

それからしばらく歩いてみたが、住宅街の中なので別段代わり映えのしない風景が続いた。

日本の建築様式とドイツの建築様式の違いを探してみようかとも思ったが、ここ一帯は西洋建築の家ばかりであり、そもそもそんな気分も乗らない。

ブラブラと当てもなく歩いていると、住宅街を切断するように流れる大きな川を発見した。

川幅は有に十メートルを超え、コンクリート製の簡素なアーチ橋がけられている。

欄干には『天門橋』とあり、林檎は橋を渡りながら何気なく下を眺めた。

砂利の敷き詰められた川岸には雑草が茂り、枯れた草が風に揺れている。

川岸へ降りられる階段のところに看板があり、そこには『親水川』と書かれていた。


「……ん?」


その時、誰かと視線がぶつかった。よく目を凝らしてみれば茂みの間から二つの瞳が覗いていて、今度はしっかりと目が合った。

相手の姿を確認し、思わず声を上げそうになる。

枯れ草の色に同化するように潜んでいたのは、巨大な猿であった。

真っ赤な顔に、長い腕。日本猿のように見えるが、体格はゴリラ並みに大きい。

野生か、飼われていたのが逃げ出したのか。どちらにせよ朝の住宅街で見かけるような動物としては、少々異様である。


(また、この視線……)


足を止めて猿と見つめ合っていると、その視線が先ほどの犬と同じものである事に気が付いた。

決して友好的とはいえない視線を連続でもらってしまい、動物に嫌われる体質なのではと考えた時、ふと一際強い風が吹いた。

あまりの強風に目をつぶり、目蓋を開けると猿の姿は消えていた。

雑草の間や川岸を見回してみたが、とうとうその姿を見つける事はできなかった。


「なんなの、一体」


何となく引っ掛かる、黒い犬と大きな猿からの視線。もやもやとしたものが胸に広がり、釈然としないまま林檎は橋を途中で引き返しはじめる。

来た道を戻りながらも、なぜか後ろからあの二匹がずっと付いてきているような気がして、林檎は何度も振り返りながら富裕荘へと急いだ。




「んん~よく寝た……ってあんた、もしかしてずっと起きていたの?」


「この時間なら、こんにちはのほうが正しいかな」


あれから富裕荘に帰って数時間後、お昼より少し前に譚檎達は目を覚ました。華雪はまだ寝ぼけているっぽいが、いそいそと布団を片付けだしている。


「私達を待たずに寝ればよかったのに、人生は寝てこそのものよ?」


「その意見には真っ向から反論したいところだけど……それより譚檎、町の案内と色々な事、教えてくれないかな?」


コタツを居間へと持ってきながら林檎は言う。結局使わずじまいのコタツだったが、布団の片付けられた今、猫の丸まるところといったらここしかない。

コタツが用意されると素早くそれに潜り込み、譚檎は少しの間悩んだような唸り声を上げた。


「今日も寒いわね……やっぱそれ、無しにしときましょう」


「まあ冬だから寒いのは――って、え?」


相手の言葉に予想していなかった単語が混じっていたので、理解するのに時間がかかってしまった。

疑問符を浮かべる林檎にもう一度説明するように、譚檎はコタツの中からくぐもった声を出す。


「だから、今日は寒いから案内は中止って言ったのよ。聞いてみなさいこの風鳴き、いかにも寒そうでしょ? 日本だと冬には犬が駆け回って、猫はコタツで丸くなるものなの。町の案内は暖かい日にしましょう、ね」


「なに、それ……」


あまりの自分勝手ぶりに、開いた口が塞がらなかった。

しかし林檎がどう言い返しても、「寒い」の一言で全てをひっくり返されそうな予感がする。


「どうしても町を歩き回りたいんなら、どうしようかしら。そうね~……」


なにやら独り言をいう譚檎をよそに、林檎はというと頬を思いっきり膨らませていた。


「……そんなむくれっ面にならなくてもいいでしょ?」


「だって、本当なら昨日のうちに教えてもらいたかったのに……博士からはあれ以来連絡ないし、ボクは何のためにここにいるの? ドイツを離れて日本にまで来た意味って、何?」


この疑問は、林檎が生まれた時からあるものであった。常に心の奥底に根を張り、言葉を学び、知識を学ぶ傍らで、林檎は自己の証明を、存在の理由を欲していた。

もし『単なる知識欲によって造りだされ、たまたま成功した存在』と言われたとしても、それはそれで良かった。

だが博士は、そんな事は絶対言わなかった。

必ずリーベトッホタァと呼び、自分を『人』であるかのように扱ってきた。

それは優しいようであり、別の見方をすれば残酷な仕打ちである。

意味も見出せぬままそこに居続けることの辛さを、林檎は生まれた僅かな期間で十分味わっている。

そんな時に出てきたのが、日本に行って【猫女】に会うという博士からの命令である。

ここでなら、自分の意味を見つけられると、林檎はほんの少し期待していたのだ。


これ以上――待ちぼうけを食らわされてたまるものか。


「ならボクが来た理由だけでも教えて? そうしたらボク……ここでもちゃんと頑張っていけると思うから!」


すがるように聞いてくる林檎に、譚檎は金色の瞳を細め、退屈そうに尻尾を揺らした。


「……理由、ねえ。そんなものを欲しがるなんて普通、妖怪じゃなくて人間だけなのよ? 生まれながらに意味を見出す妖怪には有り得ない、変わってるわ」


馬鹿にされている気がしてむっとしたが、譚檎は特に気にした風もなく「そうだわ」と思いついた風の声をあげた。


「そんな変わり者のあんたの町案内は、同じく変わり者のあの子に任せるとしましょう」


ああ、気がするんじゃなくて馬鹿にされてるんだ――そう確信すると、譚檎をもふもふするために、林檎は獲物に逃げられぬようゆっくりと近づいていった。





「もう、あんなに酷く引っ掻かなくてもいいのに」


頬をさすりながら、林檎は一人で住宅街を歩いていた。

引っ掻かれた傷はもう無いが、まだ痛みは少しばかり残っているようだ。

空が青からオレンジ色へと表情を変え、冷たい風が林檎の髪を撫でていく。

夕方の空気は何だか物悲しく感じてしまう……それは冬のせいもあるかもしれないし、一人でいるせいかもしれない。

どこからともなく漂う夕飯の匂いは、冬の冷たさから唯一生き残った暖かみのようで――しかし自分がその中に入れない事が分かるや、暖かいと思っていたものはより一層林檎の心を、身体を、冷たく暗いほうへと落とし込んでいく。

それは博士と暮らした記憶よりもっと前……華雪のように幼い頃の、この身体に本来宿っていた魂の記憶だろう。

だから林檎に懐かしいとか、悲しいとかの感情はない。ただただ無性に、淋しいだけ。


(ドイツにいた頃の記憶とも共通する感情かな。脳の記憶洗浄は成功したって言ってたから、多分潜在記憶とかなんだろうけど……何も、こんなの覚えてなくていいのに)


知らない記憶に淋しさを感じ、数少ない林檎としての記憶でも淋しさを思い出す……何というかもう、淋しくなる一方である。


「誰か手でも握ってくれる人がいればな~」


「――ほいほい、お安いこっちゃ」


「……」


「ぎゅう~って、ほらぎゅう~ってな」


「……えと、あなたは?」


いきなり林檎の傍に現れて、強く手を握り締めているのは制服姿の少女だった。

セミロングの茶髪は片側だけ紐で縛られ、そこに小さな鈴が付いている。

セーターの下に着たカッターシャツや、チェック柄をしたプリーツスカート。

シャツの襟首には校章らしきピンバッジがあり、同じマークのあるロングコートを着ている様は、どう見たって女子高生だ。

だが、女子高生に話しかけられるような理由は林檎には無い。

誰かに話しかけられるとすれば、譚檎絡みの一件だけだ……つまりは。


「あなたがもしかして、鈴、さん?」


「ん~? 鈴でええよ林檎っち」


「林檎っち!? す、鈴はその、何ていうか……譚檎の知り合いで、よ、妖怪なの?」


「え、気になる? アタイの事気になるんかな~」


鈴はコロコロと表情を変えながら、若干危ない足取りで林檎の周りを回っている。譚檎の知り合いなら妖怪の線が強いが、朱毬の事もある。

教えてくれる感じはなく、特別知りたいことでもなかったので、林檎が「もういいよ」と言おうとした瞬間――


「自分はどっちかはっきり言えへんのに、大した質問するんやね」


ぞくり――と。

何の気なしに言われたような言葉なのに、寒気に肌が粟立って、心臓が警鐘のように大きく脈動した。

目の前にいた鈴はかき消されたようにいなくなり、オレンジから薄墨に塗りつぶされていく空が、林檎へ圧し掛かってくる。


「種族での区別なんて無意味や、知ってどうする分かってどうする。アタイの事を気にするよりも、もっと気にするもんがあるんと違う? この町を知って、存在を確かめんといかん――そして考えんといかん。やないと林檎っち……『噂怪(ソンカイ)』に成ってまうよ?」


「……そんかい? 何なの、それ」


「噂怪は噂怪や。妖怪が、人間が、はたまた別の何かが成ってしまったモノ……これ以上は出会ってみないと分からん。といっても出会わんほうがイイんやけどね」


本人も説明しづらいのだろうが、聞いてる者からしたら理解不能でしかなかった。

噂怪?

人間や妖怪や別の何かから成ったモノ?

――というか、結局鈴は何者?


「さあ、というわけで!」


「きゃっ!?」


突然耳元で大声を出され、飛び上がるほどに驚いてしまった。鈴は陽気な笑い声を上げながら、いつの間にか林檎の傍に立っていた。


「ビックリした~……はあ、何だかもういいや。この町の案内をお願いしたいんだけど、いいかな?」


鈴がこんなにも正体について言いたがらないのは、何か理由があっての事だろう。といっても色々詮索する気もないし、元々重要な質問でもない。

先ほどの鈴の言葉どおり、今一番気にしないといけないのは神通町の事である。


「よっしゃ、なら離れんように付いてきてな。もうすぐ逢魔が時や、そうしたら鬼火狐火怪火に人魂のオンパレード! ……ってわけないけど、とりあえず妖怪が出るから」


そう言って再び歩き出した鈴。また消えられては困るので、林檎は小走りで追いつくと横に並んだ。

出る出るいうものだから少しの間ビクビクしていたが、人魂一つも出てこないので、林檎は思わず鈴に聞いてみた。


「皆忙しいんちゃう? 妖怪だって昼間は会社勤めもおるし、アタイみたいに学校行ってるのもおるしね」


……妖怪というのがどういうものか詳しく知らないが、本で得た知識とはだいぶ違うことだけ理解できた。

その後何事もなく歩いていると、大きな猿を見かけたあの橋までやって来た。橋の手前で鈴は立ち止まり、欄干の文字を指さして聞いてくる。


「これ、何て読むか分かる?」


「えと、天門橋でいいんだよね?」


林檎の返事に鈴は頷き、橋は渡らず川に沿って歩いていく。しばらく歩くと前方に橋と同じ造りの橋が見え、そこで鈴はまた欄干を指さした。


「次はこれ、何て読む?」

「……人門橋、かな」


返事を聞いて、また歩き出す。林檎は不思議に思いながらも黙って付いていき、そんなやり取りが、二回ほど続けられた。

結果、天門橋、人門橋、風門橋、鬼門橋という四つの橋を見つけた。


「この鬼門橋って、嫌な名前だね」


「まぁ、日本やと鬼門は不吉な方角やからな。でも中国とかでは違うんよ?」


「でも……何か嫌だな」


林檎達は鬼門橋を渡らず、川沿いを歩き続ける。すると最初に見かけた天門橋へと戻ってきてしまった。


「あれ? ボク達って橋渡ってないよね」


「んふふ~、渡ってへんよぉ」


「? えと、ならなんで天門橋に戻ってこられたの?」


林檎達は川に沿って、前に歩いていたのだ。後戻りもしていないし、どこかで角を曲がったりもしていない。


一直線に進んでいたのに、なぜ後ろへと戻ってきたのだろうか。


「不思議やろ~? これが神通町の【七不思議】が一つ――『いきもどりの川』や」


「いきもどりの、川……」


「そう、川に架けられた四本の橋を渡らず歩いていると、いつの間にか最初の場所に戻ってきてしまう――不思議な噂が多い町やねん」


鈴は天門橋を中程まで進み欄干にもたれかかった。太陽は地平線に消え、星が僅かに顔を出している。川の水面はどす黒く変色して、見ていて少し怖くなった。


「べつに他の町にも噂くらいはある。でもこの町は異常や、百や二百で効かんかもしれん……噂絶えぬ町、歩けばどこからともなく噂が聞こえてきて、日常を侵食していく」


「変な町、なんだね」


「変で……だけど、アタイの好きな町や」


恥ずかしげもなく言う鈴が林檎は少し羨ましかった。生まれ故郷のドイツを好きかと聞かれたら、どうとも答えられない気がする。

ただ生まれた事実しかない場所。博士の家は森の奥深くに建てられ、人目に付かないよう細工をしてあったらしいから他人と触れ合った事はなかった。

近くにはバイエルンという町があり、買出しのため博士がたまに行っていたけど自分は連れて行ってもらえなかった。

知っている風景は、新緑の森と石煉瓦で造られた小さな家だけ。

それだけしか知らない自分が、ドイツを好きだといったら笑われてしまう。

自分が鈴みたいに、この町を好きになれるか分からない……でも、窓枠から見える風景しか知らなかったあの場所よりは好きになれるはず。


「ボクも好きになれるかな?」


「知らん」


「って即答!? もう少し考えて!」


「それよりお勉強や、本来はそれが目的なんやから。まずは神通町、四方を山に囲まれた取り立てて観光場所もない町や。電車の駅は二つあって、その片方は多少発展しとる。でも新幹線は止まらん、でっかい街までは車で一時間ほど……でもってここからが重要やよ?」


単なる町紹介に終わりそうだったので、その一言に林檎は安心する。鈴が何を言っても聞き逃さないように、林檎はジッと身構えた。


「この町を出て行ける、つまり自由に行き来できるんは人間だけや。正確には動物や植物もやけど、だけど妖怪だけは……入ったが最後、出て行く事は叶わん」


「最初にそんな事を朱毬さんにも言われたけど、どうしてなの? 土地に特殊な結界があるとか?」


魔術、妖術、仙術や陰陽術など数え上げればキリが無い。実際林檎はそういった類のものを見たことが無いので何とも言えないが、神通町にはそういう不思議な力が影響しているのかもしれない。

だけど鈴は苦笑して、「ないない」と首を横に振った。


「そんなん聞いた事もないわ。ただ出れないんは事実やし、どう言えばいいかな……しいて言うなら『神力(ジンリキ)』って感じかな?」


「神力って、なら妖怪を出さないようにしてるのは神様って事!?」


これには驚いた。妖怪の存在さえ微妙に信じていなかったのに、たった二日でついに神様まで現れてしまった。


「やっぱり日本だから八百万? それとも仏教かな、一神教の神様は無いと思うけど……まさか?」


「林檎っち、とりあえず落ち着いてくれる? 今のはアタイの言い方が悪かったわ。正確には神力みたいに、どうにも出来ん事って意味や。別に神様うんぬんって事やない」


「そうなんだ……なんかがっかり」


本当に神様ならお願い事でもしてみようかなと思っていたりもしたので、ちょっとがっかりである。そんな林檎に「勘違いさせてごめんな~」と謝りつつ、鈴は話を進める。


「どこまで言ったっけ――そう、町から出れないってとこまでやね。とりあえずここは絶対覚えとき? 徒歩でも電車でも車でも、もし町の境界から出てしまったら……泡になって消えてしまう」


「……人魚姫?」


「ほんまや、実際その場面を見たから確信持って言える。だから境界線に近づいたら、気をつけんとあかんからね。じゃあ次、なんで妖怪はこの町に来ると思う? この、入ったら出れんような辺鄙な町に」


「うーん……」


「はい時間切れ~」




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