飼ってもいいですか?
孤独に耐え切れなくなった日、ペットショップへ向かった。
駅から20分歩いたそこの公園を抜けて近道しようとしたら、薄汚れた服を着て、異臭を放つ男の人がベンチで寝ている。
浮浪者だろうか?
顔に新聞紙を乗せて、寒空の下腕を組んで手を脇に忍ばせて、体を縮こませながら眠るその人は、哀愁が漂っていた。
それで何故か、ペットショップに向かうはずの足が止まって恐る恐る新聞紙に手をかけてしまった。
顔が光に晒されて、黒く汚れた男は眉間に深々としわを寄せる。
「あなたウチで飼ってもいいですか?」
「…………」
生き物は安易に拾うなと親から言われた事があった気がする。でも見た瞬間、決めてしまった。髭が生え放題で、顔は黒く煤でも被ったように汚れてるのに、私は「洗えば大丈夫」などと考えていた。
「…………」
「あの……」
「……だれ?」
「あ」
喋った。人間なんだから当たり前だけど。なかなか良い声だ。
「飼っちゃダメ?」
「……いいよ」
意思疎通の出来るペットができた。
家に連れ込んで、お風呂に放り込み、男が着ていた服や靴はゴミ袋3重にしてベランダへ捨て置く。浴室の扉をノックして不備は無いかと聞くと、男が「シャンプー3回しても泡立たない」と漏らしたから、私は「それならボトル1本使い切ればいい」と答えると、浴室の扉が少しだけ開いて、男と目が合った。
「あんた洗ってよ、飼い主だろ」
それもそうか。納得してタンクトップに短パン姿になって浴室へ入った。
排水溝には色んなゴミが溜まっていた。男の髪を丁寧に洗って、ゴワゴワした頭にコンディショナーもつける。男はグッタリしていた。
「疲れた?」
「うん、頭と腕疲れた」
「そう」
やっと洗い終わって剃刀を渡せば、男はキョトンとしながら考え始めた。
「私がやると、頬っぺた切り裂くよ?」
「じゃあ自分でやる」
やってもらうつもりだったのか。汚れが落ちた男は、まだあどけなさの残る青年だった。
「名前は」
「勇樹」
「いくつ?」
「19」
「未成年……」
男はムッとしたのか私を睨んでくる。泡だらけの顔はサンタクロースみたいだ。
「家出?」
「違う」
「親は?」
「いない」
「……」
流石に家出息子は飼えない。
どうしたものかと考えていたけど、親がいないのは家出定番の言い訳な気がする。
「違うって」
「……何が?」
「本当に、親はいない」
見透かされたようだ。それとも口走っていたのだろうか。
「施設育ち……高校卒業して施設出たけど、仕事上手くいかなくて辞めたら寮出なくちゃいけないから」
「公園で生活してたの?」
「隣の駅、公園は昨日だけ」
「昨日だけ?」
「散歩して疲れたから」
自由人だ。
髭を無くした男は、高校生と言っても問題なさそうなくらい幼い顔になっていた。
「久しぶりに体洗った」
「いつぶり?」
「ひと月くらい」
「げ……」
「のぼせそう」
「待って! 私先に出るから声かけるまで出ないでね」
「うん? ……わかった」
慌てて脱衣所へ行く。濡れた服を脱いで、バスタオルに包まってから「いいよ」と声をかけ離れた。脱衣所からは直ぐに体を拭く音が聞こえて、私は慌てながら自室に戻って着替える。
着替え終わってリビングへ行くと、男は股間にタオルを乗せてテレビを見ていた。
「俺の服は?」
「ベランダ」
「捨てたの?」
「うん、臭い」
「じゃあ今日から裸?」
「あ……」
「四つん這いのがいい?」
男は、私の「飼ってもいいですか?」に応えるようにペットにならんとした。
予想を超える従順なペットさに、一瞬思考が停止する。
「え……と、歩いていい」
「わかった」
男は私を睨むように見上げ、それからゆっくり立ち上がって近づいてくる。
パサリとタオルは落ちて、生まれたままの姿になった男は、私の手を引いてソファーに戻ると、押し倒してきた。
「俺、下手だから教えてね」
「え……え!?」
ペットって、こういうペットか!?
でも人間を養うって、飼うって、こういう目的の人が多かったりするんだろうか。
頭が混乱するのに、男は拙く愛撫するから思考は混濁していく。
「あ……はぁ」
首に舌が這って、胸をやんわり揉まれる。擦り付けてくる男の下半身は主張して足に割り込んできた。
「やっぱしストップ!」
「……え?」
「ちょっと待って」
「俺まだ臭い?」
「ううん、違う」
男を押しのけてソファーに座り直せば、男は正座で床にちょこんと座った。あ、なんかかわいい。
「勇樹くん」
「なに?」
「こういうのは、しなくていいわ」
「こうじゃないの?」
「可愛いけど、……そういうのはいいから」
「そっか」
男が笑った。あどけなさの残るその顔に、思わず悶えて手が伸びる。
「いひゃぃ!」
「頬っぺた柔らかいね」
「むぃっそれ以上伸びにゃぃ」
「あぁごめん、つい可愛くて」
パッと手を離すと同時に男の腹が豪快に鳴った。
「お腹減った」
「なに食べたい?」
「餌くれんの?」
「ペットだし」
「じゃあ……ラーメン」
「ラーメンね、着替え無いから家で即席麺だよ」
「やった!」
こうして私は人間を飼うことにした。
彼、勇樹くんは従順でおねだり上手だ。私と一緒でなかなかお喋りだし、かといって煩過ぎない。私が仕事へ行って帰っても、部屋が散らかっていることもない。
「ただいまぁ」
「お帰り」
「ご飯、お弁当買ったから食べて」
「香織さんは?」
「飲んだからいい、シャワーして寝る」
彼には家政婦でもヒモでもないから、家事はしなくても良いと言っている。
それでも私がこうして疲れて帰った日は、服を脱がす手伝いをしてくれたり、バッグを定位置に置いてくれたり、脱がした服をハンガーに掛けてくれたりと優しい。
「ご飯遅くなってごめんね」
「いいからシャワー浴びてきなよ酔っ払い」
「あ~い」
意思疎通できるペットって良い。私は彼に癒されまくっている。
毎日毎日充実していて、これは手放せないと思うのだ。
でも、相手が同じ人間だからこそ考える。
いつかのお別れを。まだ未成年で、これからきっと沢山のことを学ぶ彼を、ここで閉じ込めてしまうのはいけない。
「香織さーん」
「はぁ~い?」
ガチャリと浴室のドアが開いて、彼が覗き込む。最初は恥ずかしかったけど、彼はあまり他人の裸を気にするタイプではないと分かってから、私も気にしなくなった。
「かなり酔ってる?」
「なんでー?」
「シャワーに1時間て長くない? 香織さんシャワーだけならいつも30分かからないじゃん」
「う~……ぼけぇっとしてた」
「頭洗った?」
「まだー」
「体は?」
「まだー」
「何やってたの?」
「シャワー浴びてた」
「……わかった」
床屋登場。
浴室に入った彼はペットから床屋の兄さんに変身して、ワッシャワッシャと私の頭を洗っていく。便利だなぁとニタニタしながら俯いて、されるがまま目を閉じた。
「こんなことー、しなくても良いんだよー?」
「なに?」
「家政婦さんじゃーないんだからー、勇樹くんはー私と対等なー人間なんだから、ねー?」
「……はぁ」
彼には未来がある。就職が1つくらい失敗したとしても、まだまだ取り返しのつく年齢だし、遊んでたって誰も何も言わないだろう。
私は大人で、彼と一回りは違うのだ。だから責任があって、彼はペットではなく保護する対象で、寧ろ保護してしまったなら彼を未来に送り出さなきゃいけないんじゃないのかと思う。
「体起こして腕上げて」
「あ……え?」
いつの間にか頭は洗い終って、体を洗われていた。
目の前で膝をつく彼と目が合うと、彼は泡立てたスポンジで優しく私の首を撫でる。
「自分で、する」
「また意識飛ばしてたくせに、ほら腕上げて」
「うーん」
家政婦じゃない……と言ったのは私のはずなのに、これはそれ以上じゃないだろうか?
「おばあちゃん立てるかな~?」
「……ちょっと」
介護までされてるし情けない。あぁでも、見下ろせば彼の息子は元気に立ち上がっていて、申し訳なくなる。
拾ってから既にひと月が経っていた。
彼は普段、ベッドにもなるリビングにあるソファーで寝ている。
朝ご飯は私が用意して一緒に食べる。それから私が洗濯を干して仕事へ行く。昼食は作り置きかレトルトを置いておけば、彼は自分で済ましてくれた。帰って来れば干した洗濯は綺麗に畳んでクローゼットや箪笥に仕舞われているし、2~3日に1回掃除機もかけてくれているようだ。
休みの日が掃除の日だった私にはとても有り難い。
でも彼は家政婦ではないのだ。
「香織さん」
「ん~」
「俺バイトしようかな」
「いいんじゃない?」
「これとかどう?」
「どれ~」
平日休みの私は、休みの度に彼を連れて役所に行った。
住民票を移動させ、諸々の再発行をして、浮浪者から同居人へ。家事が出来るならと、洗濯や掃除をしてくれる彼に週1回子供のお小遣い程度の駄賃も渡す。
段々と手放す準備だけはしてきた。
「はい、家賃」
「え?」
「バイト代でたから生活費」
「……うーん」
同居人なら貰わなきゃいけないだろうか?
給料全部渡そうとする彼を制して、3万円を目の前で頂く。これは彼名義で口座を作って貯金しておこう。もし家を出る時には引越し資金にも出来る。
更に日々は過ぎていく。
彼はもうペットではないと確信はあったけれど、その確信を深めれば深める程、僅かに寂しさを覚えていた。
「香織さん」
「ん~?」
「休みの日付き合って」
「いいよ~」
出かけた先はスーツ売場。安いスーツの中から丈夫そうなものを選んでは合わせていく。
就職活動をするのだと言っていた。
部屋には彼の荷物も多くなってきて、少し顔が綻ぶ。
彼がうちにきて、1年が経っていた。
毎日が目まぐるしく過ぎて、もう誰も彼を浮浪者だと思う人はいないだろう。
喜びの募る中、少しずつ寂しさの量も増えていくのを感じ、私は無理矢理その感情に蓋をした。
「おめでとう」
「ありがとう」
テーブルに並ぶご馳走に目を輝かせる彼。真ん中にはホールケーキも鎮座していた。
「いつから?」
「来週」
「就職かぁ……もう公園で寝泊まりは出来ないね」
「うん、もうしない」
きっと彼はもうすぐ出て行くだろうと思う。住所があって、着るものがあって、食べるものがあって、そして就職した。
彼は自分でも貯金していたようだし、自炊も家事も出来る。後は仕事が落ち着けば自分で生活を切り開いていくだろう。
飼い主の責任は果たせたんじゃないだろうか。
「香織さーん」
「なに~?」
「俺、一人前になれた?」
就職して2年が経つ頃、彼は真剣な目をして私に聞いた。
いまだに出て行かない彼に私はホッとしていたけど、ついにきたのかと少しだけ涙が滲む。
「立派になったね」
「うん」
「独り立ちだね」
「うん?」
「これからは、独りで何でも出来るよ」
「遅くなってごめんね、香織さん優しいから甘えちゃった」
「遅くないよ、頑張ってたの知ってるから、ちょっと……寂しい」
「寂しい?」
独り立ちすると思えば、蓋をしたはずの感情が漏れだした。
あのペットのままだったら、私は彼をどうしていただろう。押し倒された時、もしそのまま流されていたら……。
私は一回り年下の彼を、自力で立ち上がる力を奪ったまま、幸せだっただろうか?
そんなはずは無い。きっと何処かで後悔していただろう。
「香織さん」
「うん?」
「おねだりしていい?」
珍しい彼のおねだりに、私は少しだけ期待した。
私に、何かを贈らせてくれるのだろうか? 出来れば肌に身につけるものが良い。こんな保護者も居たんだよ、と見る度に思い出してもらえるようなもの。
「何か欲しい?」
「うん、俺ペットが欲しい」
「ペット?」
「香織さんペットになって」
「…………え?」
私の思考回路が焼き切れた瞬間だった。
「アナタを飼ってもいいですか?」
目を見開いて、口までポカンと間抜けに開けて、思考は停止したまま耳に残る彼の声を頭の中で反芻する。
「飼っちゃダメ?」
可愛くねだってくるその声で、やっと少しだけ焼き切れた回路が繋がった。
彼はかつての私を真似ている。真似るために、彼は今まで此処に居続けたの?
「い……いつから」
「ん?」
「いつからそんなこと考えてたの?」
ズイッと彼が私に近づいて手首を掴んだ。大きな手は痛くは無いけどしっかり握られている。
「香織さんが、俺をペットじゃなくて同居人にしたくらいから」
「そんな前!?」
「飼いたいって言うからついて来たのに、どんどんペットの扱いじゃなくなっていったでしょ?」
餌じゃなくてご飯。寝床じゃなくてソファー。おいでじゃなくて来て。そんな些細な言葉に彼は気づいていた。
そしてバイトをして就職して、私も気づいていた。彼は一人前の人間で、立派に、とっくの昔に、私が考えるより早く独り立ちしていたんだ。
「俺はペットのままでも良かったよ」
「それは……」
「でも香織さんは困るんだよね?」
「困るというか……その……」
私が、寂しいから手放せなかった。
そんな感情に蓋をしていたと思い込んでいたのは、私だけだった。
それを思い知ったようで、恥ずかしくて、小さく震える。
「俺が一人前になったら、立派な人間になったら、香織さんは凄く小さかったよ」
どういう意味だ。心か身長か社会的にか、意味1つでとんでもなく打ちのめされる気がする。
「こんなに小さい体で、毎日働いて、人1人養いながら立ち直らせるのってどれくらい大変だった?」
苦労なんてしなかった。金銭的には危なかった時もあったけど、貯金は少なくなってしまったけど、お金だけだ。彼に癒されていたし満たされた日々だった。
少しずつ前進していく彼は、寧ろ私を叱咤して充実感をくれた。だからこそ寂しさに勝る喜びを感じていたんだ。
「今度は俺が飼いたい」
「私は……勇樹くんの保護者で」
「保護なんていらない」
「いつか出て行くのが楽しみで……でも寂しいから恐くて」
「出て行くなんて考えたこと無い」
「社会に出たら、いつか恋人が出来て」
「飼い主がいるのに?」
「それで結婚とかしたら、私はそれで……」
「孫見るような目で見ないでよ香織さん」
「だって一回り離れてるし」
「一回りじゃ孫どころか親子にもならないよ」
「でも一回り……」
「優しい飼い主だよ」
「ちょっと、待って……なんか混乱して」
私が日々充実感に満たされていた時、彼は必死に現状を打破しようとしていたのだ。
「香織さん」
「あの……」
「俺のこと嫌い?」
考えたことはある。何度も。
魅力的だったから、頑張っている姿も、声も、彼自身の見た目も好きだ。でもそれはいけないと思っていた。
彼が、それと同じ感情を持っていた?
信じられない。きっと違う。変な恩義を感じて、こんなことを言ってしまうんだ。
だって彼はとても面倒見が良いから。
「香織さんが拾ってくれたんだから、最後まで責任取ってよ」
「責任って……もう一人前になったじゃない」
「気持ちの責任」
「そんな……」
嬉しいのか、情けないのか、恥ずかしいのか、よく分からないこの感情はなんと呼べば良いんだろう?
本音を言えば、こんな若くて一生懸命で大好きな彼が側にいてくれて嬉しい。でも理性がブレーキをかけてしまうのだ。
チュウ……と額が吸われて、思わず顔を上げた。放心して抱きすくめられていたことも気づかなかった。
「ちょ……待って」
「うん、待ってるよ」
「待ってないし、離れて」
「ずっと"待て"してたよ?」
「え? 待てって……え?」
「香織さん好きになってから、ずっと"待て"して、一人前になったでしょ?」
「……好き?」
「うん、大好き」
きっと、親に似た親愛だ。保護者に甘えてる、やっと甘えられるようになって、勘違いしてるだけなんだ。
「違うからね」
「へ?」
「ちゃんと、好きだよ」
「っ……!」
「愛してる」
「わっ私今、口に出してた!?」
「香織さんすぐ顔に出るもん、言わなくても分かるよ」
「……えぇー?」
「だからね、俺の気持ちもちょっとずつでいいから、気づいてね」
腕に力が入れられて、体が密着する。
それがなんだか安心出来て、私もそっと抱き着き返した。
END...