視線の先
ソフィアは眼を閉じた。父の姿を思い浮かべる。大地に足を着く感覚、構え、頬を使い矢をつがえる、弓を持つ左手の筋肉が軋み始める。それでも、放さない、まだ…。頭を傾けて、目を開いた。一直線上に目標が見える、矢の軌道が見える、父の背中が見える。
ソフィアは矢を放つ。軋んだ左手が反動で少しぶれたが、矢はほとんど予想通りの軌道を描き、辛うじて目標を捉えた。
~♪後ろで見ていた、フレイムが口笛を鳴らした。矢の指導をしてくれているアベルとアンヌも驚いているのがソフィアには分かった。そして何より、ソフィア自身が驚いていた。
「本当に初心者かよ」なぜか爆笑しながらフレイムが言う。
「あたし達が教える必要もないみたいだけど」アンヌがアベルに視線を向けた。
「基本は出来てる、後は左手の筋力と、慣れだな」アベルが苦笑気味に告げた。
デニスが帰った後、ソフィアは騎士たちに願い出た、自分を強くしてほしいと。彼女たちは快諾し、結果、今こうして矢の特訓をアンヌとアベルから受けている。
アンヌとアベルは双子の騎士だった、アベルはアンヌのことを姉と呼んでいるが…正直、ソフィアは二人の見分けがつかない。
ソフィアには多少なり弓に対して自信があった。幼い頃から、父の練習風景を眺めていたから。ソフィアの父は、弓の練習を欠かしたことがない、少なくともソフィアが家にいた時は、父は練習を毎日行っていたし、ソフィアにとっても父の練習風景を眺めるのは欠かすことのできない日課になっていた。
弓の構造も分かっていた、どんなふうに矢が放たれるか、父の愛用していたロングボウ…その細部まで思い出せる。
「あたし達の必要性がない」とアンヌとアベルとフレイムは去った。三日後に備えて…、というのは建前で単に「教えることのない教え子」が面倒だっただけだろう。
ソフィアは、リアナから貰った金貨で大量の矢とロングボウ一つを購入した。三日後までに何とか技術を身体に叩きこむ必要がある。そう思いながら、ソフィアは自分の身長とほとんど変わらない弓に矢をつがえた。
「あまり無理はするな」
唐突の声に、ソフィアの矢は目標をそれた。振り返るとジャンヌがいた。彼女は木箱の上に腰かけてソフィアを眺めている。
「邪魔するつもりはなかった、すまない」
苦笑しながら肩を揺らす、ジャンヌ。
「ううん、無理はしてないよ」
ソフィアは、彼女に歩みよれば隣に腰かけた。
「兄も人が悪いな…、嫌われるのも無理はない」
「ジャンヌのお兄さんはいつも…その…あんなに不機嫌そうなの?」
ソフィアは頬を膨らませて、不機嫌そうな表情を作ってみる。失礼だっただろうか。
「ふふ…、そうだな…兄は昔からあんな感じだ。昔、家が火事になって、それ以来、私ともほとんど会話をしなくなった」
ソフィアは、彼女の歯切れの悪さから察することが出来た、どこかもの哀しげな表情を見せる彼女の心の傷を知ることが出来た、そして、今の自分では踏み込むことは許されない領域だと分かったのだ。
以前、泣いていたソフィアを見たジャンヌもそう思ったのかもしれない。他人には知られたくない暗い部分、大切であればある程、踏み込ませたくない心の領域。誰もが持っているはずだ、弱い自分を。
「ねえ、載冠式だけど…一緒に見に行かない?」
話題を変えたかっただけだが、本心が出てしまった。久しぶりの彼女との二人っきりの会話にソフィアのテンションが上がりすぎてしまったのが原因だ。
「ああ、構わない。私も暇をしていたところだ」
快諾。
「じゃあ、明日は、一緒に練習しない?」
欲張りすぎだ、と後になって後悔した。それでも、彼女と共にいたいという本心に逆らうことが出来なかった。ソフィア自身、同性であるジャンヌに対して、何故こんなに厚かましくなってしまうのだろうと疑問に思っていた。
「ふむ…、では、正午からなら…」
後悔から一転、歓喜に変わる移り気な心情を内心で抑えつつ、ソフィアは笑った。それに釣られてジャンヌの表情もほころんだ。
デニス・シェーグレンは苛立っていた。危険な任務を、妹がいる騎士クラブに委ねた自分の愚かさを。唯一の肉親である妹が命を落とすかも知れない。そして、載冠式が目前に迫るほど、アリア(アリアドネ)が自分から離れてしまうことを。
アリアは、デニスが9歳のときに、北部遠征(エリク王に迫害された異教徒が北部で反乱を起こした)から帰ってきたエリク王とその親友であったデニスの父アトスが連れて帰ってきた。アリアもデニスと同じ9歳だった。連れられた彼女には火傷の後があった。それも顔の半分を覆うほどの大きな物だったが、それも気にならない程、彼女は美しかった。当時のデニスは彼女を見て、恋に落ちた。
それからというものデニスは、アリアに歩み寄ったが、当のアリアがそれを拒んだ。大きな火傷を隠すように顔の半分を布で隠していたし、アリアは一人でいることが多かった。北部の女だからだろう。デニスは子供ながらに北部を嫌う南部の人々に嫌悪感を抱いた。それから10年…、アリアの美しさは更に増した。
そして、当時33歳のエリク王と結婚した。アリアは王妃になったのだ。「お前とは身分が違う、せめて、彼女の幸せを守れるだけの強さをみにつけろ」父のアトスに肩を叩かれた。父と同じ『王の護衛』を目指す切っ掛けになった。
それから五年後に…、あの火事だ。デニスはそこには居なかった。火事の日、家にいたのは、父と病弱の母、ジャンヌと妹のアリン…。ああ、アリン。お前はまだ小さかったのに…。そして、あんなに強かった父アトス…。母を助けようとしたのだろうか。
あの火事で生きていたのはジャンヌだけだった。別にジャンヌを恨んでいるわけじゃない。ただ、彼女を見ていると思い出すのだ、死んだ家族を…守れなかった自分の愚かさを。それから、何度か罪の意識でジャンヌに会いに行った。会いに行くたびに嬉しそうに微笑む彼女を見て、胸が痛くなる。もうやめてくれ、俺に微笑むのは止めろ。誰か消してくれ、俺か彼女を…。デニスはジャンヌに会うことを出来る限り拒んだ。
王の載冠式が始まった。父の死後、護衛隊長になったグインは、今では王でアリアの夫。
王冠を司教から受け取る。神の寵愛やら加護やらが詰まった王冠は神々しかった。本当にそんな物があるならエリクはなぜ死んだ?父は?二人の信仰は厚かった。少なくとも、グインよりはマシだ。
そんな二人が死に、何故グインがあそこに立っている?デニスの中では答えは出ていた…。
父が死にグインが護衛隊長に…エリクが死にグインが王に……。
グインが父と王を殺したに決まっている。軽蔑のまなざしをグインに向ける。隣には顔の半分を高価な布と長い前髪で隠したアリアの姿、相変わらず美しい。
そんなことを思いながら、歓喜に沸く民衆のほうへ視線を向ける。色彩鮮やかな紙の吹雪が舞っている。
そこにはジャンヌと新人のソフィアの姿があった。楽しげに笑う二人を眺めながら、デニスはいつぞやの、ジャンヌとアリンの姿を連想していた…。