死神
ソフィアは夢を見ていた。彼女自身も夢だと分かった。小さな暖炉で炎が激しく揺れている。木製の床、狩りで仕留めたイノシシの肉が、机の上に、食べ残しの夕食として並べられていて、飲みかけのブドウ酒の香りが部屋を包んでいる。この場所は、記憶にある…、終わりと始まりの場所。戦いで傷を負った父が死に、イェルダという小さな家柄は終わりを迎える。あまりに現実味の強い夢、確かにソフィアの記憶の断片ではあるけれど…。
ソフィアは幼いソフィアの背中を見ていた。幼いソフィアの小さな後ろ姿を追う様に部屋に入る。そこには、母と父が寝ていた。ソフィアは、やめてと叫んだ。だが声が出なかった。息も出来ない。ソフィアと幼いソフィアの間には見えない壁のようなもので遮られていて、ソフィアはただ、叫び、壁を叩いた。
その時だった、幼いソフィアは振り返り、無感情な眼差しを此方に向ける。氷のように冷たい瞳、息が詰まり、手が震えた。そして確信した、彼女は幼かったソフィアではなく死神なのだと。
死神は二人が寝ているベッドに歩み寄り、父の名前を囁いた。父の目が薄く開き、死神の頬に触れる。
ソフィアの頬に温かさが広がる。そして、父は呟いた、「心配するな」
父の手のぬくもりに染まった頬に涙が伝う。父の微笑は薄れ、再び目を閉じた。父がそれから目を開くことは無かった。死神は微動だにしない父の肩を揺らし、呼びかける。何度も何度も。
隣に寝ていた母が、目を覚ます。死神の行動に、ぎょっとする。そして動かない父を見て絶叫した。
泣き叫ぶ母。死神は部屋から逃げ出し、自身の部屋に逃げ込んだ。頭を抱えて震えている。
ソフィアは、何もできずに立ち尽くした。もし彼女が男なら騎士として父の後を正統に継げたのだろうか…もしかしたら、父を守れたかもしれない。この後、母は病み、父と同じ場所に眠っている。「高潔な精神、名射手、イェルダの父と愛する妻」と書かれた小さな墓石。当然、幼く女性であるソフィア一人では家柄を保つのは不可能だった、領土は金持ちな商人一家に譲り、イェルダ家は底なし沼に両足を突っ込んだように没落した。
墓石の前でソフィアは泣いていた。刻まれた父と母の名前の溝に、ソフィアの涙が溜まり、墓石も泣いているかのように涙を落した。
誰かの手がソフィアの頬に触れた。ぬくもりに包まれた頬に触れる手の甲に、ソフィアの涙が伝う。感じるのは優しい吐息と、仄かなベルガモットの香り。暗闇に落ちた意識が引き寄せられる。
ソフィアが目を開けば、ジャンヌがいた。見下ろす瞳。大地に寝転がり、曇りひとつない空を見上げている気持ちにさせられる。吐息と共にジャンヌの頬笑みが映る。その時になって、ようやく、ソフィアは自分が泣いていることに気付き、慌てて上体をベッドから起こす。
「これは、少し酔ってただけだから」
自分でも最悪の言い訳だったとソフィアは思う。酒を飲んで寝たら泣くのか?そもそも酒など飲んでいない。浴びはしたが。
だが、それ以上に恥ずかしかった、涙を見られて。そして、嫌だった。自身の暗い汚い部分を覗かれたような気がして…。
「起こしてすまない、少し聖堂に来てくれるか?大事な話がある」
ジャンヌはソフィアに追及しなかった。言いたくないソフィアの気持ちを察してか、興味がなかったのか、ソフィアがジャンヌの心を理解する術はなかった。
聖堂は、考えられないほどの人がいた。総勢で12人と犬が一匹。
ほとんど知らない顔だったが、恐らくは騎士メンバーなのだろう。そして、その中に居た一人が、ジャンヌの兄である、デニス・シェーグレンだった。デニスは、全員が揃ったことを知り、綺麗に揃えられた顎の髭を撫でながら言った。
「お前たちに仕事をやる」
「くたばれよ、デニス」
一人の青年が悪態をついた。隣には、不気味なマスクを被った女。全身を黒のコートとフードで覆っている。すらりとした肉付きと、胸元のふくらみからソフィアは女と判断した。
「フレイム、少し黙らないか。スノウを見習ったらどうじゃ」同じくメンバーらしき、初老の男がフレイムに落ち着くように促す。全身を黒で覆った、スノウは素顔を晒さないどころか一言も言葉を発さなかった。
「うるさい、ジオ爺。こいつは喋らねえけど、デニスにはむかついてんだぜ?なあ?」
フレイムが隣にいるスノウに問いかけた、スノウは相変わらず一言もしゃべらなかったが、頭がコクリと傾いたような気がした。
うむむ、と唸るジオ。そこにデニスが割って入る。
「もういいか?だったら話を進めるぞ?」デニスは髭を撫でながら続けた。
「北部と南部の境界にある要塞ケリンが、北部のやつらに攻められている。エリク王が死んで、チャンスと見たのだろうな、数にものを言わせ来た。異教徒どもめ、まだ我々にやられ足りないらしい。当然、新王は近々、軍隊をケリンに派遣するのだが、何せ新王グインは正統な王位継承者じゃないからな、諸侯の風当たりが厳しい」
「エリクの弟のバルレル・ギュンテルがいるじゃねえか!あいつが王位を継ぐべきだろ」
再びフレイムが口を挟んだ、彼はスノウとは正反対のおしゃべりのようだ。絶えず口を動かさなければならない類の人なのだろう。
「アリアドネは、バルレルじゃなく、グインと再婚した。グインが王だ」デニスが不機嫌そうに声を張り上げた、彼がアリアドネに恋心を抱いているのは、此処にいる誰もが知っていた。
「とにかく、お前たちは王のアミュレットを奪い返して来い、あれは正統な王の証だ。あれがグインの首に掛かっていれば諸侯も言うことを聞くだろう」
王のアミュレットは、代々、王が王である証として重宝されていたが、先王であるエリクが王になってすぐに盗まれた…とされている。
「それで、どこにあるんだよ」
フレイムが誰しもが聞きたかった質問を代弁してくれた。団員の表情が険悪になっている。新人のソフィアでさえ、此処にいる全員の気持ちが分かった。嫌な予感しかしなかった。
「最近の情報だが、ケリンを攻めている北部の連中のなかに、それらしい物を持ったやつがいたそうだ。話を聞いている限りでは、北部の王ボニファティウスの息子のバルトロメウス将軍だろう」
全員が唖然としていた、あのフレイムでさえも言葉を失っていた。
そんな彼らを見ても無表情のままデニスは言葉を続ける。
「出来るだけ、戦闘は避けた方が良い、死にたくないならな。お目当ての物を手に入れたらケリンまで戻れ、そこからお前たちを連れて帰る」
「私達に、盗人になれと?」
ようやく、ジャンヌが口を開いた。
「盗むんじゃない、取り戻すんだ。他のギルド連中は信用できない、持ち逃げされたりしたら面倒だ。その点、お前ら騎士クラブは信用出来る。少なくとも妹は、な?それに非公認だから記録にも残らない。必要な報酬も、王が払ってくれる」デニスはジャンヌを一瞥し、応答する。
「失敗したり、死んだら?」
奥で寝ていた男が問いかける。
その男の問いかけに無言で目を伏せるデニス。
簡単にいえば、手薄になった敵の陣に忍び込み、アミュレットを盗む。正しくは奪い返すだが。そして戦闘まっただ中の要塞に戻れば完了。成功すれば報酬と王の信頼を…、失敗すれば何もなし。
全力で拒否するべきだ。ソフィアは心の中で叫んだ。
「三日後の新王の載冠式が終わったら、お前たちは『砂漠の花』を渡って、北と南の境界『緑の支流』に迎え。そこから更に北へ『要塞ケリン』を横切って、『幽霊の森』のどこかにある敵の野営地からアミュレットを取り返して来い…、以上だ」
そもそも拒否権などなかった。デニスの背中を無言で見送る団員達。
そんな中、ソフィアは幼い死神の小さな背中を思い出していた。