始まりの朝霧、不吉の前触れ
酔いを醒ますために、リアナは入浴した。一人が限界だと言わんばかりに小さなバスタブから、お湯があふれ出す。リアナは顎までお湯につかり、水面から湧き出す湯気を眺めた。悶々と浮き上がる無数の水滴が空気と混ざり、通気口から差し込む朝日の中へ消えていく。
リアナは耳を澄ます。揺れる水の音を聞き、それが静寂に変わっていくのを感じる。そして、リアナは立ち上がり、白い素肌がまとった水を滴らせながら、浴室を後にした。
聖堂という名のリビングルームには先客がいた。そもそも、王都には教会が複数存在している。その中でもこの教会は目立たない場所に建てられているどころか一番小さい。王都の中央に建つ、エリク大聖堂はそれはそれは立派で、幻想的だった。広がる大空間、光に照らされた複雑なステンドグラス、巨大で黄金の鐘楼。一度味わえば抜け出せない迷路のような、そこに立つだけで中毒になりそうなほどに神々しい。そんな理由から、この教会の聖堂は精霊騎士団のリビングルームに格下げされる。訪れるのは、騎士団以外に数名と司祭くらいだろう。リアナは、軽装のまま教会の石壁をコツコツと軽く拳で叩き、先客に自身の存在を教える。
「早起き、ですわね?」
問いかけるリアナを一瞥した後、ジャンヌはブラッドメイアー(犬)の頭を撫でて、答える。ジャンヌも風呂に入ったのだろう、傷みひとつ見えない金髪を結っている(大抵は結っているが)。軽装の彼女は色っぽかった。膨らんだ胸元、くびれた腰、引き締まった体。同じ女であるリアナでさえも情欲に駆り立てられるのだ、男たちはかなりの忍耐が必要だろう。仮に、理性が獣並みの輩に迫られたところで、彼女を良いように扱えるのは不可能だ、それほどまでに彼女は強い。生真面目すぎるのはアレだが…。
「うむ、兄と会う約束があるから、ソフィアはそなたに任せる」
ジャンヌの兄、デニス・シェーグレンは王の護衛隊長だ。時折、この教会に顔を出すが、長居はしない。用は任務であったり私用であったり。任務の場合は最優先になることが多い、重要なことだったりするからだ。ゆえに、彼が持ち込む任務は危険が伴う。精霊騎士団からすれば彼はジャンヌの兄である以上に死神に近い存在。他者からすれば、女好きの色男だが、団員達にとっては、くそったれデニス…。今は王の妻であるアリアドネに心を奪われている。まあ、こちらが口出しすることではないだろう。それにしても、ジャンヌがデニスに会いに行くということは…。リアナはどう思考をめぐらせようとも心は不吉な予感に揺らいでいた。
「任せる?あなたの従者でしょう?一緒に連れていけば?」
「彼女は従者ではない、それにブラッドメイアー(犬)も連れていく。ソフィアはブラッドメイアーを怖がっているからな」
「了解、それじゃあ、貴女のかわいい従者はお任せくださいな」
ジャンヌが苦笑する。
連れてきていきなり任せるとは、無責任な!そんなリアナの感情を察してか、自身にも後ろめたさがあるのか、少し困惑したように顔をしかめるジャンヌ。これでいい、これくらいの皮肉は言わせてほしい。リアナは、教会の扉を開き、朝霧の中に消えていくジャンヌと一匹の犬の背中を見送りながら思った。
さて、リアナはハニーワインの香りと味を楽しみながらソフィアのことを考える。
ジャンヌが連れてきたかわいい新人さん。鋭くも大きな緑色の瞳、淡い茶色のくせ毛。真珠のように白い肌。身長も大きくないし、身体も華奢だ。剣を振り回すのは無理だろう。弓ならどうか、それならば、こちら以上に適任の団員がいる。まあ、とりあえず、ソフィアが起きてくるのを待とう。
静寂につつまれた聖堂に甘い蜜の香りが満ちていく…。
しばらくすれば、重たい足取りでソフィアが聖堂に顔を出した。
「おはよう、お寝坊さん」リアナは内心で呟きながら、寝起きの眠気に肩を揺らすソフィアを浴室に連れて行き入浴させた。これで、目も覚めるだろう。
「ジャンヌはいないの?他の人は?」
入浴後、リアナに質問を投げかけるソフィア。
「ジャンヌは少し出ています。他の団員は、自分の領地に帰っていたり、任務に出ていたり…。そもそも全員が揃うなんてこと、ほとんどありませんわ。一度、わたくしが言いましたの、騎士が一か所にとどまることなんてできないだろう、騎士団なんて胡散臭い集団ではなく、ギルドにしようと告げたのですが、ジャンヌが聞きませんでしたの。いっそ黒魔術でも始めようかと思いましたわ。騎士道精神よりもよっぽど自分のためになりますもの…」
木製の酒器を揺らしながら遠い目で語るリアナ、先の口振りからしてリアナはジャンヌの古くからの友なのだろう、もしかしたら幼馴染なのかもしれない。酔いが身体を回り、頬が火照っているのが見て取れる。そして何よりも…ソフィアはリアナという人物の優しさを強く感じ取ることが出来た。
「さてと、それじゃあ、お仕事開始しますわよ?」
「何をするの?」
感傷に浸っていたリアナは仕事の開始を告げつつ立ち上がり、両手を天井に突き出し大きく背伸びをする。何も聞かされていないソフィアは当然、困惑した。
「騎士のお仕事。騎士道を広め、教会や国に奉仕し、馬にまたがり敵にお仕置き、ですわ?」
にへらと表情を綻ばせるリアナ。無邪気で、奔放な笑顔。ソフィアはその笑顔にどうしようもない不安を抱かずにはいられなかった。