ベルガモットと犬
後日、ソフィアはジャンヌと教会の前で待ち合わせた。ジャンヌは、荷物は少なくと一言告げただけで、重要な物や身に付けた方が良いであろう物については一切告げていなかった。ソフィアは、手ごろな武器(パン切りナイフ)と食糧をあるだけ詰めて準備を済ませた。
村を去る際にはサラから焼きたてのパンを貰った。そのパンから香ばしい小麦の香りが風にあおられ流れ、村を離れる寂しさを小麦畑の香りで忘れさせてくれた。
約束の時間よりも早く教会に到着したが、広場にはすでにジャンヌの姿があった。陽光に照らされて輝く白銀の鎧、ブロンドの髪は頭の後ろで結われており、彼女が騎士であることを、ソフィアは再度認識せざるえなかった。
合流すれば嬉しそうに笑みを零す彼女に促されて、ソフィアは歩き始めた。此処から少し歩けば馬車乗り場があるそうだ。ソフィアはこの村に住んで5年になるが、そんな場所があるとは知らなかった。
背後で風に揺られる小麦畑の音と匂いがした気がしたが、ソフィアは振り返りもせずに歩き続けた。次第に小麦のかおりは薄れ、ベルガモットの優しい香りが世界を包んだような感覚、ソフィアは眼を閉じ、一人、その心地よさに浸るのだった。
少し、少し、彼女は確かにそういった。しかし歩き始めて2時間が経過したが、一向に馬車が見えてこない。少しという言葉の認識の違いか?自身の中の、少しは、騎士と尺度が違うのだろうか。空と大地の距離程に…。こんなに歩いて疲労したのは、いつ頃だろうか、額から頬へと伝う汗が、荒れて乾いた道に落ちて蒸発する様子を眺めていると、どうしても一言、言ってやりたくなる。
「一体いつ、馬車が……見えるの…?」
声を張り上げて問いかけようと視線を上げて、隣を歩くジャンヌを見た。そして、ソフィアは自分が抱いた冗談のような推理はあながち間違いじゃないことを悟り、張り上げた声は居場所を失い、萎んでしまうように、小さく吐息に変わるのを止められなかった。
振り向いた彼女は、汗ひとつ額に浮かべていなかったのだ。ソフィアはそう認識した。
「疲れたのか?」と心配そうに問いかける彼女に、「もう少しなら大丈夫…かな…たぶん」と曖昧な返事を返した。今の言葉でまた、数時間の少し、が追加されたのでは?と言う恐怖と、体力をつけなければという決心が、ソフィアは自身の小ぶりな胸の中で大きく膨らんでいくのを感じた。
幸い、ソフィアの恐怖はすぐに消え去った。ソフィア自身の尺度で(少し)を語るなら、あの後、すぐに馬車が見えて来たのだ。行き先を御者(動かす人)に告げて、二人は荷台のような客車に腰を下ろし、それまで無言だった鬱憤を晴らすごとく、語り合った。流れる風景と時間。しかし、二人の間に流れる時間は止まっていた。
「さて、本題に入ろう…」
少し話しすぎたと、咳ばらいをしたジャンヌが話題を切り換えた。
「我が精霊騎士団についてだ」
「騎士団だから、戦ったりするのよね…」
「時と場合による。精霊騎士団の仕事は、騎士の模範を示すことだ。自身が完璧な騎士を演じ、模範となるように務める。つまりは良い格好をしろということだな」
「なんか…あまり良いことじゃないような…」
「そうでもない。実際、エゴを刺激された騎士が、王や領主に忠実になるのなら国にとっては有益なことだ」
「なら精霊騎士団は、物語に聞く『本物の騎士』達の集まりなのね」
「……」
?ふと、気にかかった…。どうして彼女は、あんな田舎の教会を訪れ、わざわざ紙だけを貼りに来たのだろうか?彼女がただの騎士なら話は通るが、彼女は騎士団団長なのだ。少なくともそう告げたはずだ。
ソフィアのしかめっ面を見て、ジャンヌはすぐにソフィアの心中を察した。会って早々、気づいてはいたが、ジャンヌは他人の感情を読み取るのが上手い。その青く澄んだ瞳で、やんわりと他者の心を映し出すのだ。
「言ったであろう、我が騎士団は団員不足だと。そなたを含めて12人だ。いや、実際には、11人と犬が1匹だな」
彼女の一言は強烈な衝撃をソフィアに与え、思考を停止させた。と同時に、馬車の御者が「揺れるよ」と告げた。道端の大きな石を跳ね飛ばし、馬車の車輪が軋む。客車は傾き、その衝撃はソフィアの無防備な身体を仰け反らせた。背中を打ちつけ、仰向けに倒れたソフィアを覗き込むジャンヌの顔。「お譲ちゃん、大丈夫かい」御者の気遣う言葉。空は夕暮れ、雲間から差し込む光。ジャンヌの金色の髪が爽やかな風に揺れてなびいた。頬に張り付く髪を細い指で耳元に掻き分ける彼女の仕草から、目が離せない自分に気付いたソフィアの頬は空と同様に橙色に染まる。
無理やり彼女から視線を引き剥がし、別の風景を瞼に浮かべようと、朱色に焼けた空を眺めた。
ソフィアは、ベルガモットオレンジのことを考えた。それと、一匹の犬。




