許してあげる
視界が開けた…。無数の星砂が夜空に撒かれたように暗闇の中で輝いている。身体は浮力によって夜空へと向っていく。
無数の気泡…。水面を照らす青白い日差しが自身が水の中にいる事を教えてくれる。呼吸が出来ずに肺が酸素を欲している。体が硬直したように固まり、血は痙攣したように流動し、心音が脳の中で脈打った。
水面から伸びる手……小さな手。細い指に青白い光の矢が降り注ぎ、より一層に美しく感じる。私の愛しい手。
ジャンヌは手を伸ばした。自身の指を絡ませる。小さな手は力強く、ジャンヌの身体を水面へと引き上げた。
「はあっ、はあっ!けほっ」
酸素が一気に肺へと流れも込む。肺に溜まった水を押し出し、吐息と嗚咽が漏れた。薄らいでいた意識は覚醒へと向かう。視界の先には涙で顔を濡らしたソフィアが座り込んでいた。
「ううッ…ひぐっ、ジャンヌ……呼んでも動かないし…私…死んでるのかと…っ」
ソフィアは血の固まった腕で頬を伝う涙を拭う。それでも涙が溢れて…零れて、潤んだ吐息と言葉は上手く聞き取れない。
「すまない…そなたには苦労をかける。もう大丈夫だ」
ソフィアの泣き顔を見て、心が揺れる。こんなにも彼女を愛おしく思っている自身に驚きを隠せない。嗚呼…分かっていたが理解できないでいた。彼女はこんなに傷ついてまでも此処に居てくれるのだ。ようやく見つけたような気がした。永い旅の中で探していた物…。ソフィアはとっくに見付けていた。私はやっぱり馬鹿なのだ。
ジャンヌは、ソフィアの華奢な身体に腕を回して抱き締めた。耳元で零れる濁った吐息も嗚咽も……鳥の安堵の囀りのようにジャンヌの心を癒していく。嗚呼、見付けた。ジャンヌはソフィアの青白い首筋に唇を落した。ソフィアの体が小さく疼いたように跳ねる。その反応が可愛くて愛しくて…無意識に笑みが零れた。
瞼を開き、視界を広げる。指先に感じる硬い石。アリアドネから受け取った緑の宝石を眺める。
脳が酸素を意識した。体中に酸素が…血脈が轟々と溢れていく。ジャンヌは辺りを見渡した。自身が沈んでいた場所には、多くの雪解け水が流れ込み、樫やブナの樹木を浸していた。透き通る水に沈んだ森、水没した雪の森。そして、ジャンヌとソフィアが今座る場所には、無数のラベンダーが広がっていた。色鮮やかなラベンダー畑が大地を多い尽くしており、どこか非現実的で誘惑的な光景が広がっている。遠くには崩れ掛けた城砦が聳えており、そこに巨大な木が城壁や城砦を巻き込むように根を張っている。
あの樹の城に彼女が居る。ジャンヌは身体を起こした。心なしか体中が悲鳴を上げるような軋みと痛みを感じたが気にしようとも思わなかった。ジャンヌの気がかりは自身の身体ではなくソフィアの方だった。
彼女がスノウと対峙したのは明らかだ。彼女の瞳は黄金色に輝いていて、血の気も以前よりも悪くなったような気がする。病的なほどに白い肌。青白いミルク色の素肌。雪のように輝きを放つ肌。
そして何よりも気分が悪そうだった。
「大丈夫か?」
ジャンヌはソフィアの顔を覗き込んだ。首筋から微かに血の匂いが漂ってくる。無機質な鉄の香り。冷たい血の香り。
「大丈夫だよ。何も問題ないって……。それで、これからどうするの?」
ソフィアは眉間に皺を寄せて、弱く言葉を零す。
「頼むから無理はしないで欲しい。私はコレを彼女自身に返してくる」
「それ、何?」
「わからない……。恐らくはアリアドネの自我というか…そういった感情の結晶だと思う。影が…いや、彼女自身かも知れないが……。コレを森の奥深く、自身でも認知出来ない場所に隠しておくことで崩壊を防いでいたようだ」
「じゃあ、それを彼女に返したら…自然に森も崩壊する?」
「嗚呼…、多分…上手くいけばな。アリアドネ自身が自我を保つのが難しくなるだろう」
「なら彼女は大いに抵抗してくるだろうね」
「だろうな」
「それじゃあ、ジャンヌには無理をしないようにお目付け役が必要な訳だ」
「必要なのはそなたの方だろう?」
ジャンヌは笑みを零した。ソフィアも吊られる様に笑みが漏れた。
――――
アリアドネは聳え立つ城壁の中に居た。ラベンダーの香りに包まれた庭に立っており、空から落ちてきたような大樹を見上げている。城内にも大樹の根が張り巡らされており、大樹はその城を養分にし、今も成長しているようだった。
「折角、私が貴女を救ってあげようとしたのに…。貴女はあの森の一部に戻り、この憎い世界から解放されるべきだったのよ。それなのに貴女は抗い、私が拒否し続けた物を持って此の場所に居る。それは私には必要ないのよ…。それは私とアイツには必要ないものなのよ。貴女は、私の大切な場所を穢した。そして此の醜い世界に私を連れて来ようとしている」
アリアドネは手を翳した。城内に張り巡らされた根が脈動した。壁を崩し、その太い樹皮をジャンヌ目掛けて伸びてくる。
「死ぬことを許してあげる。私が死ぬことを許すわ」
アリアドネは手を翳す、左右から大樹の根がジャンヌたちを目掛けて根を振るう。
ジャンヌは根の下を潜りながらアリアドネへと駆けていく。アリアドネは一歩も動かない。ジャンヌは剣を握り、伸びてくる根を剣で受け流す。剣を掠る様に通り抜ける根の樹皮は硬く、火花が絶えず飛び散り、まるで巨大な岩を受け止めているような衝撃にジャンヌは身体をふら付かせる。それでもジャンヌは身体を立て直して地面を蹴りあがる。アリアドネが眼前へと迫り、握り締めた剣を彼女へと伸ばした刹那――
アリアドネは、口端を吊り上げてニヤリと黒い笑みを零した。