慟哭の井戸
あの日から毎日訪れている風一つ、光の筋一つ入らない暗い森は、
私の唯一の居場所である。
中央に小さく開けた広場には
石を重ねて造られた井戸があり
分厚い石の蓋が封印の如く井戸の出口を塞いでいた。
いつものように蓋の上に腰を下ろし
ポケットに忍ばせた小刀を取り出す。
光の無いこの世界では鞘が外された小刀の刃は
黒く影のように見えるだけで、その刃先が鋭く切れ味の良い事を忘れさせる。
両腕をまくり上げてみる。
無数に引かれた茶色や黒に盛り上がった線たち。
小刀の目的である無地な部分はもう残っていなかった。
私は左足のスカートを足の付け根までめくり上げた。
太股は切り刻まれるのを待っていたかのように真っ新だった。
人の身体は縦に切れば傷跡は残りにくいと何かで読んだが、私は小刀の切っ先を肉に滑らせ、躊躇わず横に引いた。
引かれた線の下の細胞は離れ、口を広げると同時に血液が滲み、
緩んだ線の上にたちまち玉となり、重なり合い、
流れ出して井戸の蓋の上に小さな血溜まりを作った。
「あ、ああ、私の身体は、まだ生きている」
「うぬ、また、確かめに来たのか?」
そこには、私の嫌いな老人が立っていた。
嫌いという言葉では軽薄すぎる。憎まなくてはならない存在なのだ。
「貴方は私に、要らないものばかりを下さいました。だから貴方に頂いて私から生まれ出たものは、捨てました。」
「そうだったのう、毎日、何度もそなたに言われて耳にタコができたわい」
治らぬ病を貴方は下さった。
それでもいいと、私を愛してくれた彼を半年前に奪って、
貴方は悲しみと絶望を下さった。
頂いたものは私には大きすぎました。
選んで捨てる思考も潰れるほど大きかったのです。
だから全ての生まれ出たものを捨てようとしました。
彼が亡くなって直ぐ、彼を殺した犯人のせいにすれば楽になると誰かに言われ、
憎もうとした事もありました。
幼子三人の為に寝ずに働いたトラック運転手をどうして憎む事ができましょうか?
「生まれ出る感情なんてあるからいけないのです。ですから私は、喜びも、悲しみも、欲も、希望も、絶望さえ捨てました」
「捨てたら、楽じゃのう。じゃが代償は付き物なのじゃ、生きている実感を得られぬようになる」
私はあの日から、現実が薄っぺらな紙芝居にしか感じられない。
だから、この森を訪ねるのだ。
切り刻まれた傷から流れる血液だけが生きている事を感じさせてくれる。
病は治りはしないのに、細胞が再生される様を見せつけられ、
自分の意に反して生き続けようとする身体を確認するのだ。
「他のものは捨てられたのです。ですが、怒りだけは、彼がこの世にいない事への行き場のない怒りだけは残ってしまったのです」
「だから、そなたは儂を造ったのじゃろう?」
そう、そうだった。私は、この老人を造った。神として……。
「貴方に怒りをぶつけ、憎しみの言葉を吐いても誰も傷つきませんから、都合がよかったのです」
「怒りはのう、悪いものとは限らんのよ。向ける方向を間違わなければのう。
儂の身体にはそなたの怒りが溜まってしまってのう。使わなければならんのよ」
老人は井戸に近づき乱暴に私を井戸から引き剥がした。
中腰になり、老人は井戸の蓋に両手をかける。
神は、いつも、いつも、私の望まないものを与えようとする。
でも、神よ!その井戸の蓋は重い。私が閉じ込め捨てたものは、
貴方の力をもってしても開きはしない。
私は高らかに笑った。乾いた笑い声は閉じられた暗い森で反響し、こだまとなり暫し続いた。
「滑稽に見えるかのう? さて、儂の力だけでは無理のようじゃ、それでは儂の身体に溜まったそなたの怒りを解き放とう」
老人は、ぬんっと気合を入れると、赤黒い光を身体から発した。
こちらを見やり、にんまり笑うと井戸の蓋を押し始めた。
ズリッズリッと嫌な音を立てて石の蓋は横にずれ始めた。
「ああ、お願いです。止めてください。それは私が一番欲しくない物なのです!」
「神というのは、そなたが欲しくないものを与えるものなのじゃろう? そなたが言ったのだぞ、もう手遅れじゃ」
井戸の蓋はゴトリと最後の音を立てて取り除かれた。
「覗いて見るがいい、寸でのところで腐るところじゃった」
いやです。 怖い、怖い……。
あの中には私が嫌悪する、弱く醜く汚い感情が全て捨ててある。
それでもいいと言ってくれた彼はもういない。
私にはもう、無条件に受け入れてくれる人はいないのだ。
だから、だから、井戸に捨て蓋をしなければ私はこの世に留まれなかったのに……。
「酷い、私が何をしたというのですか!」
「酷いであろう? 神じゃからな。
嫌われついでに、もう一つ、
そなたがこれから捨てようとしているものを、仮の姿で見せてあげよう」
足に何やらまとわりつく感覚があった。
生後間もない子犬が知らぬ間にすり寄っていたのだった。
私は足でそっと遠ざけたが、子犬はそれでもすり寄ってくる。
「今は仮の姿じゃが、そなたに授けよう」
「お断りします。私は自分自身をも、持て余しています。この子の面倒など見れる筈がありません。
殺してしまうかもしれません」
「好きにするがよい」
そう言い残すと老人の姿は忽然と消えた。
私は井戸の縁に座りこみ途方に暮れ、子犬を眺めた。
無理だ、無理だ、無理だ……。
右手に握られた小刀が自然に子犬の首にあてがわれる。
横に滑る手首の甲に、子犬の茶色い毛がパラパラと落ちた。
無心の目が私の濁った目と交差する。
刃先をあてがわれても尚、尻尾を振り私を信じる姿に、かつての彼の姿が重なった。
「君はそのままでいいんだよ、息をして生きているだけでもいいんだよ」
治らない病を悲観する私に彼はいつでもそう言った。
子犬が膝の上に乗り、腕の線たちをペロペロと舐め始めた。
「こんな、私でもいいの? 弱くても、醜くても、みっともなくてもいいの?」
子犬はクゥーンと一鳴きし無垢な目で見つめ返した。
彼と同じ目で見つめないで、私はまた、無いものねだりをしてしまう。
恋い焦がれても戻って来ない現実は、身もだえする程苦しいのです。
それでも子犬は彼の目で見つめ続ける。
小刀を子犬に向けることの出来なくなった震える手は、
井戸の中に小刀を投げ入れた。
井戸はゴボゴボと煮立ち始め
水はせり上がり、溢れ出し、森を浸していく。
私は濡れるのも気にせず子犬を胸まで抱き上げた。
子犬は私に身体を預け私の涙を舌ですくう。
何度も何度も、舐め続けた。
声を上げ泣いた。
泣きじゃくった。
悲しい、苦しい、辛い、情けない……だから……開けて欲しくなかったのに。
井戸から溢れ出す水は暗い森を枯らし始め、
捨てたはずの感情が渦を巻いて私を襲う。
それでも、子犬は変わらず舐め続ける。
声が枯れるまで泣き続けた。
私の泣き叫ぶ声が木々に反響し還ってくる。
自分の嗚咽を聞きながら
いつしか感情の渦は納まっていった。
泣いたのはどれくらいぶりだろうか……。
泣き疲れた私の周りからは森も井戸も子犬も消え、
明るい太陽の元に投げ出されていた。
暖かい……陽だまりはこんなにも暖かかったのか……。
私はずっと私を受け入れられなかった。
そんな、私と知りながら彼は愛を注ぎ続けた。
私は彼に何も与えぬまま、ただ愛を確認し貪るだけだった。
これでも、こんな私でも好きでいてくれるの?
もっと、もっと……。
確かめないと……。
彼に何度も酷い仕打ちを繰り返した。
それでも、彼は私を見捨てなかった。
変わらない穏やかな愛に、飢えた私の心は満たされてゆき、
そして、あの日が訪れたのだった。
暖かい空間に包まれ私は気付いた。
彼が無条件で私の全てを受け入れてくれたように、
彼がいない今、
私は無条件で私自身を受け入れなくてはならないと……。
そうしなくては私を信じているあの子に申し訳がない。
情けない私の身体。
それでも彼が私にしてくれたように、
身命を賭して無償の愛を、あの子に捧げよう。
太陽に手をかざしてみた。切らずとも赤く流れる血が見える。
「ああ、生きている。この子も私も。温かい……」
膨らんだ下腹部に手を当てる。仮の姿の現実がそこにあった。
「その子にとっては、そなたが世界の全てなのじゃよ」
暖かい風と共に老人の声が聞こえたような気がした。
今まで出会ってきた、健気に頑張っている女性達にエールを送ります。
心優しく、傷つきやすい貴女たちの純粋な心に、幸多かれと願い本作を執筆しました。