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55話 獅子を砕く私

 黒琥珀の欠片を握りしめ、黒髪はひたすら走りました。

 手には我が主から預かっている、というより、もはやこやつが私物化している銀の杖。そして背中には、この私。

 大地の奥底にある水鏡の寺院は、その名の通り天蓋が水鏡の結界で覆われた白亜の街です。

 巨大な湖の底を投下してきた地下水が、何十何百という水柱の滝となって巨大な空洞に落ちており、その周囲の岩盤は発光するコケでまばゆく白く輝いています。その太陽に照らされるかのごとき明るい空間が――


「燃えている!」


 私が黒髪の背中から捉えた視界は、赤。どす黒い赤。くすぶる赤……。

 いまや街のあちこちで燃え上がる炎の柱のせいで、無残な色に染められていました。

 なんという事態!

 立ちのぼる炎の合間にきらきらと見え隠れしているのは、金メッキの機械の獅子たち。 

 湖の岸辺に作られた天幕村。あの救護所を襲ったのと同じく、鋼の獅子たちはなんともおびただしい数で、白亜の街に押し寄せてきておりました。

 侵入経路は、どうやら街の南端にある洞窟からのようです。

 その洞窟は、ジェリドヤード王子たちが大鳥という飛行機に乗ってきて見事着陸した、巨大な縦穴と繋がっているのです。

 おそらく飛竜船かなにかで運搬してきた獅子どもを、その縦穴に際限なく投下し続けているのでしょう。獅子の数が尋常ではないので、私は奴らの主人が上空に来ているのだと悟りました。

 金獅子レヴツラータ。

 人の手によって作られた巨大な獅子の神獣は、目に見えぬ磁波による伝信によっておびただしい獅子どもを自在に操ることが出来ます。金獅子家の守護獣たるあやつも、飛竜船か何かに載せられているのでしょう。そしてこの五つ柱の結界のど真ん中で、金獅子自身が四方から集まる恐ろしい力を受け取るのでしょう。奴こそ、この地を穿つ(なか)つ柱となるのに違いありません。

 

「結界を張っているから、なんとか無事だと思うんだが」


 黒髪は口惜しげに炎燃える街路を走りました。

 我が主の繭のある食堂。それから白亜の家の玄関。黒髪は我が主を守るため、幾重にも結界をかけて出てきました。しかし獅子の群れの中にちらほらといる「兵が乗っている獅子ども」の咆哮に私はぞくっといたしました。

 明らかにスペックの違う白金に近い体色です。


『まずいぞ』


 雲間で私を抱きしめるマエストロが、たちまち曇り顔になりました。


『あの特殊な音帯域の咆哮。サイレンティウムじゃないか?』


 ああ、なんということ。当たりですマエストロ。

 

『黒髪! 気をつけなさい! 獅子の中に韻律中和装置を搭載している個体がいます』

「なんだそれは?」

『統一王国時代の兵器ですよ。韻律を無効にするんです』

「なっ……!」


 統一王国時代は、一般には「灰色の時代」と呼ばれています。

 有機物と無機物の融合。機械の手足を自由自在に、いとも簡単に付け替えられる技術。

 これらは灰色の導師たちによって開発されたもの。

 一説には、灰色の導師たちは白にも黒にもなれぬ魔力の低い者どもであったそうで、その欠点を補うために人工の超技術を編み出したのだそうです。

 その最たるもの、集大成となるものが、金獅子レヴツラータや黒竜ヴァーテインなどの神獣たちです。

 当時、灰色の導師たちの研究はありとあらゆる事象に及び、当然のごとく神秘なる韻律魔法にも及びました。黒の技には打ち消しの韻律がありますが、それをさらに強力にしたものが韻律中和装置であるサイレンティウムなのです。


『音波震動を自在に操り、空間内の物理法則を支配する韻律の技は、灰色の導師たちによって徹底的に研究しつくされました。魔力感知装置を皮切りに、人工的に音波震動を対消滅させる機械が開発されたのですよ』

「つまり私の子が危ないということじゃないか!!」

 

 あなたもですよ、黒髪。

 韻律を無効にされたら、あなた本当にやばいでしょうが。

 ほら、獅子が飛びかかってきましたよ。その銀の杖から放つ衝撃派で普通の獅子は吹っ飛びますけど――


「びくともしない奴がいる?!」

『そいつらは私に任せなさい。サイレンティウム内臓の獅子は、韻律波動では倒せません。ですがあなたは我が主ではありませんので、照準及びトリガーはすべてこちらにお任せください』

「どういう意味だ」

『背負ってるだけでいいってことです。あなたは他の獅子の処理をお願いします』

「わかった」 


 私が持つ一万と二千年分の蓄積戦闘記録によれば。韻律波動などというファンタジックなものより、むしろガチムチ物理系の対処の方がしごく簡単です。

 とはいえこの獅子、一体どれだけいるのでしょう?

 

『エクス、一人じゃ大変だ。僕が照準を合わせる。君はトリガーを』


 ありがとうございます、マエストロ!

 天幕村ではあえなく折れてしまった私ですが、今の私はお腹がまだパンパン。

 今度は、負けません!

 

『セプトゥギンタ・ドゥオ機能解除。稲妻(イクトゥフルミヌス)充填。雷撃属性付与完了。エクス、機能更新で対無機物雷撃の貫通力が増してる。君を背負ってる奴に注意喚起して』

 

 了解!


『黒髪、反動に気をつけてください。少々吹っ飛んでも驚かないように』

「了解した」

『目標捕捉開始』

『行きます!』


 次の瞬間、黒髪は目を剥いておりました。私が雷撃を放った反動で、翼が生えたかのように舞い上がったからです。

 私はマエストロが捕捉してくれる敵に向かって次々と調子よく雷撃波を打ち込み、飛びかかってくる敵は小気味よく衝撃派でなぎ払いました。

 黒髪も銀の杖をふるい、低スペックの獅子どもをどんどん蹴散らしていきます。私たちはしばらく快調に敵を払い、潰し続けたのですけれど。


『ちくしょう! あのくそ初心者!』


 マエストロが悔しげに毒づきました。無理もありません。


「おい、刃こぼれしてきたぞ! 大丈夫なのか?」


 ああああ黒髪、そんなうさんくさそうな目で見ないで下さいよう。私が悪いんじゃないですよう。

 やはり見習いのサリャの腕では、実用的な刃を打つのは無理だったようです。 


「また折れるんじゃないだろうな?」

『確固撃破から前方向180度ナパーム攻撃に切り替えます! 五秒間振り向いてください! 爆風が起ったら、一気に目標へ向かって走ってください!』

 

 研ぎが足りなすぎとかそもそも打ち方がなってないとか、不満たらたら文句を言い始めたマエストロを横目に、私は広範囲に及ぶ炎熱攻撃を一回ぶちこんで、獅子で埋まる街路をいっとき一掃しました。


『後続が来る前に家の中へ!』


 次から次へと雪崩こんでくる獅子の群れが一瞬途切れた隙に、黒髪は我が主が繭を張る家に飛び込みました。

 

「くそ! 燃えている!」


 黒髪は絶望的な声をあげ、食堂へ転げ込み。


「レクルー! レクルー! う……ああああ!!」

 

 ひびわれた声で叫んでその場に膝をつきました。

 ああ……私の視界にも、恐ろしいものが映ってきました。

 炎に焼かれ、無残に焦げて真っ黒な、繭が……。

 獅子は黒髪の結界を消して、家の中で炎を吐いたのです――。


「頼むレクルー……死なないでくれ。どうか! どうか頼むから!」


 黒髪はガクガクと震えながら銀の杖をふるい、韻律の技で食堂内に燃え盛っている炎を必死に打ち消すや、消し炭のようになった繭にすがりつきました。じゅうじゅうと、繭に触れた手が焦げるのも気づかずに。


「もっと早く帰って来れていたら! 君を守れたのに!!」


 まだ、ひと月の半分も経っていません。中にいる我が主は、おそらく体が固まっていなくてドロドロの状態のはず。

 焦げたのは外の繭皮だけで中身が無事なら、このまま開けない方がよいのですが……黒こげの繭にはところどころ亀裂が入ってしまっていました。

 黒髪は血の気の引いた顔で繭の表面にそっと触れ、中にいる我が主がまだ生きている確証を、必死で得ようとしました。

 彼が繭に耳を当てた時。一瞬、彼の肩がわななきました。


「フィオン? 何をしてる?」

   

 涙がぼろぼろ、黒髪の頬を濡らしました。


「ああ、まさか……!」

『あ……歌声?』


 私は感じました。

 繭の亀裂からふるふると、かすかな波動が漏れてくるのを。

 

『編んでる』


 マエストロが息を呑んで囁きました。

 その波動は、フィオンのものでした。彼は繭の中で己が魂を震わせて歌っていました。


『黒の技……夢送り(ソムニアムンディ)の歌だ』


 必死に。とめどなく。

 すすり泣きながら。

 




『ソムニアムンディは夢見の技。普通は……臨終の人に歌うものだよ』


 マエストロの声が震えています。

 

『安らかに穏やかに死出の旅路に出られるようにと、相手をよき夢の中にとじこめる。体の痛みや苦しみを感じさせぬようにして、安楽死に導くんだ』

   

 フィオンは歌っていました。

 泣きながら歌い続けていました。

 みどりごに子守唄を歌うように、とても優しく。

 マエストロと同様にフィオンの歌の意味を察した黒髪は、震え上がっていました。

 導師見習いだったフィオンがその歌を歌っているということは、繭の中が一体どうなっているのか想像するまでもありません。

 おそらく我が主は、まだかろうじて死んではいないだけなのです。

 フィオンは死にゆく子に、せめてよい夢を見せようと歌っているのです。

 痛みも苦しみも、決して感じさせないように。


「レク……頼むレク……やっと君を見つけたのに……失いたくない」


 黒髪は一縷の望みをかけて、黒琥珀を繭の亀裂から中へ落としました。 

 どうか、我が主が持ちこたえるようにと。

 しかし我々は、この場に長くいることができませんでした。

 あとからあとからやってくる獅子たちは、容赦なく家の中に侵入してきて、我々を焼こうとしてきたからです。

 獅子の眷属はサイレンティウムだけでなく、生体感知装置をつけているようでした。

 五十体ほど獅子を砕いたところで、私は泣き崩れる黒髪に叫びました。


『ここにいるかぎり、我々は危険にさらされ続けます。どこか安全な場所へ移動してください!』

「たとえ避難しても、この子は……」 

『大丈夫です!』


 もし我が主が本当にフラヴィオスの血縁で、不死の因子を持つのなら。

 全身を焼かれても、おいそれと死ぬことはないはず。

 たとえ繭篭りの最中にドロドロのままひきずりだされても、生き延びるはず――。

 一か八か。その可能性にすがって、私は怒鳴りました。


『我が主は、大丈夫です! 死にません! しっかりしなさい黒髪!』





 かわいそうに、我が主の繭はそれからいくらももちませんでした。

 ボロボロと炭化した皮がこぼれ落ち、中から真っ赤な体液がとめどなく落ちてきて、黒髪の衣を濡らしました。

 黒髪は崩れてきた繭をとっさに受け止めましたが、きつく抱きしめることは叶いませんでした。

 我が主はとても柔らかく、形があまり定まっていないのです。

 細心の注意を払いながら、黒髪はひどく縮んだ我が主を抱いて、ほとんど焼け落ちてしまった家を出ました。

 獅子たちはまだまだ底なしに押し寄せてきます。

 杖と一緒に黒髪の背中に背負われた私は、彼の背から雷撃を放ち続けて敵の接近をふせぎました。

 なんとか水鏡の寺院へ行き着き、街の住人たちと共に寺院の地下へ潜りこめたものの。

 獅子たちは容赦なく寺院の中にも侵入してきて、炎を吐き散らしてきました。

 地下への入り口で、メニスの巫女たちが押しつ押されつ必死に防戦する中に私たちが入り混じった時には――我が主の繭皮はぼろぼろに崩れ落ちてしまっていて。

 

「ひ!?」「その子、生きているの?」


 黒髪が抱いている我が主の姿に、メニスたちは慄くばかりでした。

 私も、我が主を正視できませんでした。

 鳶色の髪の美少女と見まがうあのかわいらしい姿。その面影はほんの少しも残っておらず。

 目も鼻も口も判別のつかない、どろっとした塊の何ものでもなく。

 甘ったるいメニスの甘露の芳香の濃度が、およそ尋常ではなく。

 どろどろの体液が無残に流れ落ち、黒髪の衣はぐっしょりと濡れそぼっていました。

 メニスの長である大巫女が、蒼ざめた顔で救護用の包帯とマントを提供してくれました。

 とにかく体の形を固定しろというのです。やわらかく半液体状態の我が主の体は、そのままだと流れ落ちてしまうばかりだからと。


「羽化不全どころではないな。もう長くはもたぬだろう」


 皇太后陛下と共に地下へ逃れてきたスメルニアの皇帝陛下が、哀れみのこもった貌で我が主をみやりました。

 我が主の体に丁寧に包帯を巻いていた黒髪は、突然ひどく嗚咽し始めました。

 夢の中に落ちているはずの我が主が、ふやふやの手でぎっちり握りしめていたからです。かつて我が主が黒髪からもらった、あの水晶の欠片を……。

 黒髪はかわいそうな子を少しでも楽にしてやろうと、体の上に落ちていた黒琥珀も一緒に握らせました。 

 それから――


「フィオン……今度ばかりはおまえに感謝する」


 震える口を無理やり動かし、静かに音律を口ずさみ始めました。

 驚くべきことに。

 魂を震動させて必死に歌うフィオンと、声を合わせて歌い始めたのです。

 我が主を夢の世界へいざない、痛みを感じさせぬようにするために。

 すると。私の中で、マエストロも歌いだしました。


『僕も手伝うよ。エクスが泣くのを見たくないし。今のレクルーにはそうしてやった方がいいからね』


 夢送りの力が増幅されれば、我が主は夢の中であたかも本物と変わらぬ世界にいる感覚を味わえる。

 マエストロはそう仰って、美しいテノールの声で音を紡ぎました。

 フィオンが起こす震動。

 黒髪のささやくような歌声。

 黒の技を駆使する三人は三本の音律をより糸のように合わせて、我が主の体にまとわせました。


「そんなことをしても無駄だ。導師よ、それより侵入してくる獅子どもをなんとかしろ!」 


 スメルニアの皇帝がいらいらと文句をいう中で、三人は歌い続けました。

 柔らかな旋律が、我が主のよき夢となっていることを切に願って――。





 地下まで降りてこようという獅子の勢いはすさまじく、メニスの者どもはじりじりと後退していきました。

 避難者たちは二つの道を選択しました。さらに深遠へ潜るか。奥に在る「時の泉」に身を投げるか。

 彼らが選んだ道にその身を隠すまで、大巫女と巫女たちは必死に獅子たちを食い止めました。

 我が主に包帯を巻き終えて夢送りの歌を歌い続ける黒髪も、ようやく敵の排除に乗り出しました。その片手にそっと、いとしい子を抱きながら。

 私も一所懸命、雷撃を奮いました。

 サイレンティウム内臓の獅子が、巫女たちが張り続ける結界を壊していく中。

 巫女たちの魔力がごうごうと光の渦となって、攻防が繰り広げられる狭い階段にはじけ飛びました。

 

『あれ?』


 その無数の光の粒の中から。

 ふわりと光の粒がひとつ、黒髪のそばへ飛んできました。

 この蒼白い光は……。


『はぐれ虫?!』


 まちがいありません。あの、光る蜻蛉です。なぜ、こんなところへ? 泉の中に隠れていればいいのに。

 小さな虫はすうっと飛んできて、包帯だらけの我が主の腕にひたりとひっつきました。

 そのとたん――「う……」


「レクルー?!」


 黒髪は突然歌うのをやめて我が主を覗き込みました。

 

「まさか……起きたのか? そんなはずは……」


 なんと。ひくりと我が主の指が動きました。判別のつかぬ貌がかすかに動いて、目らしきものが重たいまぶたのごとき皮膚を押し上げようとしています。


「レク! 私のレクルー!」

『まさか、夢から出たがってるのか? 自分が夢の中にいることを悟った? 信じられない意思力だ』


 マエストロも驚いて歌を止めました。

 

『レク、だめ! だめだよ! まだ起きちゃだめ! せめてもう少し体が固まるまで……』


 フィオンが歌いながら、必死に我が主を止めています。

 やはり我が主には、不死の因子があるのでしょうか? 


『レク! 君の今の姿を君に見せたくない! お願いだから、もうしばらく夢の世界にいて』

「あ……りが……と……」


 我が主の口とおぼしきところから、かすれ声が漏れました。


「ふぃお……ん」


 真っ赤な液体が、我が主の目とおぼしきところからどくどくと流れてきました。


「で……も……ぼ……く」


 これは、涙?

 黒髪が何度も我が主の名を呼ぶ中で。ついに――


『ア……ク……ラ……さ……ん!』

 

 私は喜びに打ち震えました。我が主が呼びかけてきたのです。

 黒の技を知る三人によって編まれた、夢の世界から。金剛石よりも強い意志の力で夢の壁をかすかに越えてきたのです。


『お願……い……手伝って……フィオンが……僕を守るために……ここに入れてくれたの……でも僕……ここから出て……会いたいんだ』


 我が主は切ない声で訴えてきました。

 

『死ぬ……前に……もう一度……だけ……レナに……会い……たい』


「レク! レクルー! しっかりしろ!」


『フィオン……僕に、息を……させて。レナに、会わ……せて』


 いまや黒髪はいとしい子が生きている証を見たくて、夢送りを完全に止めていました。

 

「大丈夫だ。死なせない。絶対死なせないから。レク。レク!」


 黒髪の呼びかけが聞こえているのか、我が主は私に呼びかけてきました。


『アクラさん……こいつを……食って』

『はい? 誰をですか?』

『目の前の……獣』


 どうやらフィオンは、夢の世界から出ようとしている我が主を止め立てしているようです。


『あのう、私には、眠ってる我が主しか見えません』

『やっぱり……現実のアクラさんの声……じゃあ……この世界は、見えてない?僕の声が聞こえるだけ?』

『はい。我が主の声しか、聞こえません』


 フィオンは必死に歌い続けています。気持ちはよく分かります。

 我が主の姿はとても無残なのです。もしこのことを知ったら、我が主は哀しんで絶望してしまうでしょう。だから我が主が何も知らないままにしておきたいのです。

 

『やった……獣を倒せたよ』


 しかしここにきて、フィオンの心は揺れ始めたようでした。

 黒髪とマエストロが加勢を止めたので、夢送りの効力は激減しています。

 フィオン自身、我が主の望みにほだされて、外に出そうかこのまま夢の世界に閉じ込めておこうかとひどく迷っているようでした。

 やはりフィオンは、優しいのです。だれよりも優しいのです……。

 

『獣を倒した先に……暗い洞窟が続いてる』


 我が主は夢の中で、フィオンが作り出す道を進んでいるようでした。

 それは、立ちはだかる壁ではなく――


『泉が……見える……飛び込めばきっと……戻れる?』


 あたかもフィオン自身が、我が主を抜け道へと導いているようでした。

 たった一本の、間違いようのないまっすぐな道へ。

 そしてついに。

 黒髪や私が見聞きできぬその世界の中で、我が主とフィオンは対峙して、言葉を交わし合っているようでした。

 このとき初めて我が主は、ずっと己が内にいたものと話すことができたのです。

 それは我が主から一身同体だったフィオンがすっかり離れてしまった、ということに他なりませんでしたが。我が主は、まだ全然そのことには気づいていないようでした。

 我が主は、泣いていました。泣いてフィオンに聞いていました。

 なぜ、抜け道の泉を消さないのかと。

 フィオンの答え――その波長は彼の歌にまぎれて私には聞こえませんでしたが、我が主は感じ入って震えていました。


『消したくても消せない? バカだよ……フィオンは優しすぎるよ。レナンの言う通り、ほんとにバカでお人よしだ。僕が好きなら、がんじがらめに縛ってしまえばいいのに。そんなこと、簡単にできるのに』


 その直後。我が主の魂がわなないたのが分かりました。

 歌い続けるフィオンが、その深い想いを言葉にしたようです。

 おそらく、ついに……我が主に伝えたのでしょう。


 愛しているから、と――。


 しばらくの沈黙の後。


『……フィオン……ごめん……もういらないなんて言って……。ありがとう。本当にありがとう……出口を、作ってくれて』


 おそらく涙をこぼしているのでしょう。

 我が主の魂は震えながら、覚悟を決めて囁きました。


『行かなくちゃ。レナンが、僕を呼んでるから。最後にひと目だけ会って……そしてもし息ができなくなったら……僕、自分の手でけりをつける』


 フィオンの歌が――

 止まりました。

 魂の震動が鎮まったとたん。心優しいフィオンは私に叫んできました。

 

『アクラ! レクを守って! レクは足手まといになると悟ったら自分から死ぬつもりだ! そんなのだめだ! 絶対自殺させないで!』

『フィオンさん! もちろんですとも。絶対、そんなことさせません!』


 私が自信を持って答えると、フィオンは大きく安堵のため息をつきました。

 我が主の手足がひくひくと動き始めました。

 まぶたらしき二つの肉の盛り上がりが、ゆっくりと開いていきました。

 私もマエストロも息を呑みました。

 黒髪が歓喜の嗚咽を漏らす前で、開かれた二つの穴から、きらめく双眸が一瞬垣間見えたのでした。


 まごうことなく純血の血筋をあらわす、濃い紫紺の瞳が。




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