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51話 甘える私

 レクルー。

 飢えているこの子の体には、ひどい傷跡がありました。

 私の体に刻まれたものと同じ。同一の人物につけられた傷が。

 フィオンの護りが剥がれて、あらわになった子。その子は私に泣いてすがってきて、私の腕の中で切なく泣きながら言うのでした。


「講義してくれて、うれしかった。きれいなところをたくさん見せてくれて、うれしかった。宝物までくれるなんて……どうしよう……支払いきれない」


 菫の瞳の子は、嗚咽しながら何度も何度も言うのでした。


「支払いきれないよ……」


 レクルーの胸からほとばしる聖印の炎が、何度もちりちりと私を焼きました。

 けれどもそれはことごとく、燃え上がった瞬間に凍てつく橙煌石に吸い込まれて消えていきました。

 私は彼とずっと繋がったまま、喜びと幸せを噛みしめていました。

 彼は、レヴェラトールのもの。でもこの子は、フィオンと違います。

 この子は、私を拒みませんでした。しかも私と全く同じものでした。

 この子こそ、ずっと探していたものにちがいありません。

 私の、かたわれ――。


「あっ……トリオン様……ああああっ!」


 レクルーが快楽の頂に登りつめ、悲鳴を上げて気を失った時。私は彼にそっと囁きました。


「返さない。君を返さない。絶対俺のものにする」


 私は、とても幸福でした。これ以上ないぐらいに。

 私の心は満ち足りて、歓喜に満ち溢れました。

 なんという充足感でしょうか。

 私、おなか、いっぱいです。ああ。とっても……とっても……



――「このまま、死んでしまえばいいんだ」



 !!??



――「トリオン様なんか。死んでしまえばいい」


 だれ?!


 満たされた私は、ひどく冷たい声で我に帰りました。  

 これは……この声は……


――「もう二度と、目を覚まさないで」


 冷たい声は、レクルーの声音と同じ。

 これは……これは……レクルーの中にいるもの。

 そう、たしか――


『フィオン?!』


 突然、凍てついた橙煌石の間が消え去り。

 私の目の前に、黒髪の男――私が横たわっている寝台が見えました。

 そのすぐそばには、レクルーの姿。

 ここ……は……? ええと、私……は?


――「いっそのこと。今のうちに僕が……」


 あ……なにを、するんですか? レクルーの両腕が、床に臥せっている黒髪の私に伸びて。その首に手がかかって?!


『や、やめて!』


 私は叫びました。


『やめて!』


 レクルーの首が、ゆっくりとこちらを振り向きました。


「アクラ、どうして? 邪魔しないでよ。このままトリオン様が死ねば、レクはこの人から解放されるじゃないか」


 あくら? だれ……でしたっけ、それ?

 そんなことより。

 やめて。

 やめて。


『だめ!!』


 私は、必死に叫びました。


『やめて!! お願いだからやめて!! やっと、やっと……』


 悲痛な声で。


『やっと、手に入れられたのに――!』


 レクルーの中にいるフィオンが、こちらを睨みつけています。怒り顔で。


「アクラ、何言ってるの? 君は僕の味方じゃなかったの?」


 ああ、どうして、分かってくれないの?

 どうして。 

 どうして!!


『私、手に入れたんです。やっと見つけたんです。やっと! かたわれを! どうか。どうか、どうか!』


 どうか、分かって! どうか――


『邪魔しないで!!!』


 その瞬間。びん、と我が身から赤い光がひと筋ほとばしり。


「あっ!」

『あああっ……!?』


 レクルーがもんどりうって倒れ……た?

 何? 今の光。 何? 私。私。私、は一体――



 だれ、でしたっけ?



『エクス! やめろ』


 あ……。


『エクス、僕の声が聞こえる? 返事しろ!』


 ああ……。


『目を覚ませエクス。戻っておいで。君は、レナンじゃない。僕のエクスだ』


 ああ、私は……。私は……。



 ひとふりの、剣。



『おいで!!』


 ずるりと、私は我が身の中に引きずり込まれました。

 とたんに四つの記号の螺旋が私の周りに見えました。


『ずいぶん喰らったね。容量がぱんぱんだよ。おいでエクス。おいで。会いたかった』


 ぎゅるぎゅると、私は奈落に落ちていきました。我が身のことを、思い出しながら。

 そう……でした。

 ここは、大地の底。白亜の建物がひしめく水鏡の寺院の、瀟洒な一軒家。

 黒髪は我が主からフィオンを引きはがそうと躍起になって無理をして。倒れて。寝込んでしまって。

 私は我が主の泣き顔を見たくなくて、やむなく黒髪の悪夢を食らっていたのでしたっけ。

 奴の心の闇を延々と。長い長い時間をかけて。すっかり黒髪自身になって。


『お帰り、エクス』


 あたたかな腕が私を迎えてくれました。そっと、包み込むようなぬくもりが。


『マエ……ストロ?』

『お帰り』


 そのぬくもりを感じたとたん。


『マエストロ。マエストロ!!』


 私はパッと火がついたように声を上げて泣き出しました。


『見つけたの。私、見つけたの! かたわれを!』

『しっかりしろエクス。君は黒髪のレナンディルじゃない』

『やっと見つけたのに、邪魔する奴がいる!』

『エクス。しっかりしろ。自分が何か思い出せ』


 私は、暖かい腕の中でえんえんと泣きじゃくりました。かりそめの体でぎゅっとマエストロにしがみついて、子どものようにわんわん泣きました。

 このぬくもり。この、心地よさ。この、幸せ。

 これは。これは。ずっとずっと、「私」が探していたもの――。


『離さないで。お願い離さないで!』

『離さないよ』


 嗚咽する私の頭に、マエストロは優しく口づけを落としてくれました。何度も、何度も、いとおしげに。


『離さない、エクス。ずっと、一緒だよ。僕の、かたわれ』





 ふわふわ。ここはふわふわ。白い雲の中。

 まっしろぬくぬく、キラキラ。


『はい、エクス。カモミールのお茶だよ』


 ……。


『落ち着いたかな?』


 はい……マエストロ。だいぶ、意識がはっきりしてきました。


『ずいぶん一所懸命喰らっていたね。二時間ぐらいずっと』


 二時間? たったそれだけの時間? まさか。

 何十年という、長い長い時間が経ったはずなのに。


『エクス、かわいいね』


 え。


『まだ僕に抱っこされてるし』


 えっと。これは。その。


『しがみついてるし』


 その……。


『ずっとこのままでいようね』


 い、いえ! 私ちょっと、外を見てきます。黒髪どうなったんですかね。ちょっとは楽になったんですかね。私がんばりましたから。ええ、すんごいがんばりましたから。なんか胃もたれしそうなぐらい、おなかパンッパンですから。

 ていうか、我が主の体を操ってたフィオンに攻撃かましちゃったような気がするんですけど、大丈夫でしょうか。

 そういうことで、定時報告終わり。いってきま……


『あのさエクス。僕から手を離さないと、外に行けないよ?』


 ……。

 ……ああああああああああ!

 おかしいです。私、おかしいです。なんなのですかこれ!

 なんでマエストロの胸元ぎっちり握ってどっかり膝の上に座ってるんですか!?

 しかも、ぜんっぜん降りたくないとか! 離れたくないとか思ってるなんて!

 いやおかしい。私おかしい! ななななんで、こんなことに?


『いやそれは僕の方が君に聞きたい。うん、でもすごく嬉しいな。僕から離れたくないなら、ここから一緒に外を見ようか?』


 私はマエストロの胸にどこっと頭を埋めて、こくこくとうなずきました。

 マエストロはくすくす笑って、私の頭を撫でながらもう片方の手でサッと手をひと振り。白い雲間を払いました。

 とたんに現実の世界の様子が目の前に現れました。

 寝台に臥せる黒髪の様子は?

 ああ……よかった……だいぶ表情が和らいでいます。

 底なしの孤独。あんなおそろしい孤独。辛すぎます。

 私が喰らったことで、少しは奴の寂しさや辛さを緩和できたでしょうか。

 我が主は?

 ふう、よかった。さしたる怪我はないようです。それに、フィオンが引っ込んで我が主が表に出てきているようです。我が主は黒髪のそばに寄り、いとおしげにその頬に触れていました。


「よかった。熱、下がったみたい。もう、うなされてない」

「レク……レクルー」

「ここにいる。僕、ここにいるよ。ごめんなさい……あなたの気持ちを良く考えないで、苦しませて」


 我が主は、まどろみの中にいるいとしい人をまじまじと見つめました。


「僕は記憶の蓋で護られてる。過去を思い出して苦しまないように。でもこの人は……何の護りもないこの人は、辛い過去といつも戦ってるんだ」


 優しい我が主はきりっと顔を引き締めて。己れの胸に手を当てて囁きました。


「フィオン。今までありがとう。でも僕は……もう、護られたくない。レナンのように、過去と戦いたい。そして僕は、幸せにしたい。僕を愛してくれる人を。この人を。僕の、かたわれを」


 どこかから、かすかな悲鳴が聞こえました。

 きっと我が主の奥にいるフィオンのものでしょう。

 それはとても哀しい嘆きでした。

 ひび割れて、今にも消えてなくなってしまいそうな。

 まるで最後の、断末魔のような。

 さびしいさびしいすすり泣きが響いてきて。尾を引いて。

 そして、消えていきました。ろうそくの炎がすうと音もなく消え去るように。





 黒髪と我が主は、メニスの長から与えられた白亜の家で、束の間の平和なひと時を過ごしました。

 私がフィオンを攻撃したせいか。それとも我が主が自立の意志を表明したせいなのか。フィオンは我が主の意識の奥底に隠れて、すっかり鳴りをひそめました。庇護者の影響力ががくりと衰えたことは、我が主の立ち居振る舞いで如実に分かりました。

 今までどことなく遠慮がちに黒髪に接していた我が主が、まったく違う態度を取るようになったのです。

 ジェリのお付きのサリャという子が黒髪の見舞いに来れば、ひどく嫉妬して泣きだしましたし。ことあるごとに遠慮なしに黒髪に甘えるようになりました。言葉遣いも、なんだかおそろしく品のない調子に豹変しました。


「レクルー、今日はよく食べるね」

「食べたいの。パンもりんごもおいしい」

「いい子だ。最近ちゃんと食べるから、顔がちょっとぷっくりしてきたぞ」

「そう?」

「胸もずいぶん出てきているよ。大人になりかけてきたね」

「レナがいやらしく吸うからだ。きのうもすごかったよね。お風呂でも寝床でも」

「え……」


 黒髪がうろたえるぐらい、我が主は大胆で。


「なんだ今の返しは。いつもならただ『え?』とか固まってとまどうだけだろうに」

「なんだっていわれても……あ、ねえ……僕まだ口づけもらってない」

「なに?」

「おはようの口づけ、もらってない。ちょうだい」

「レク?」

「ねえ、ちょうだい。口づけして」


 屈託なく甘い声でおねだりして。


「レク……逝ってないのに記憶の蓋が取れてるぞ」

「だめ? 取引しなきゃ、だめ? 何かあなたにあげないと……」

「いいや、取引など必要ない。おいで」

「ああレナ! レナ、僕のレナ……好き! 大好き!」


 自分から黒髪に飛びついていました。

 たぶんこれが、本来の我が主なのでしょう。

 どことなく根暗でマジメ一徹の我が主は、フィオンの性格が大いに入り混じっていたにちがいありません。

 レナンとレクルー。一つ屋根の下で過ごす二人は、とても幸せそうでした。

 本当に、ここでずっと平穏に過ごせたらどんなに良かったことか。

 けれども、金獅子家を操るセイリエンは、やはりこの水鏡の寺院を災禍に遭わせようと画策していました。水鏡の寺院は大陸中の王家に妃としてメニスを送り、各国に対して多大な影響力をふるっているからでした。

 我が主と黒髪が体から抜け出してツヌグ様を探しに行った折、金獅子家の兵士どもは北五州のとある州の東西南北に人々を集め、何か塔の様な建物を建造させていました。

 二人がメニスの長にそのことを告げると、長はそれは恐ろしい「五つ柱」の結界を作っているのだとたちどころに察しました。

 「五つ柱」。

 それは四箇所に柱を建てて結界を張るもので、交差する中央点に五本目の柱となる触媒を置けば、そこに力が凝縮され触媒の真下にあるものは穿たれて沈む、というものです。四箇所の柱に与えるものは、人柱。すなわち生贄です。その数が多ければ多いほど、中央に凝縮される力は膨大なものとなります。

 つまり。

 柱となる塔を建てさせられている囚われの人々――ツヌグ様たちは、十中八九その生贄にされる恐れが出てきたのです。


 五つ柱の結界の建造を阻止し、生贄となる人々と水鏡の寺院を救う。


 ついに体調が回復した南王国の王子、ジェリドヤードが、対金獅子家の旗頭に立ちました。

 彼は即刻故国に帰って大君に即位し、軍を率いて北五州へ入る、とメニスの長に宣言しました。

 メニスの長は王子ジェリドヤードの快気を祝い、壮行するためにささやかな祝宴を開きました。

 そして、我が主は――。

 宴のあと、すぐに私を手に取りました。


「レク、その折れた剣をどうするつもりだ?」

「サリャが打ち直してくれるんだって。僕、ジェリについていって、南王国の軍に入りたい。なんとか柱の建造を阻止して、ツヌグたちを助けたい。これは、僕自身の意志だよ。フィオンのじゃない。だって蓋が外れた今も、強くそう思うもの。でも……」


 口を引き結ぶ黒髪に、我が主はは心をこめて言いました。


「でも、レナが嫌だって言うなら行かない。僕は、レナのものだから」


 黒髪はぶるりと震えて、「私こそ君のものだ」と呻きました。


「レク、私は君を危険な目に遭わせたくない。どこにも行かせたくない。だが、さすがにここでのほほんと、何もしないで暮らすわけにはいかぬ」


 深いため息と共に黒髪は家の中をぐるりと見渡し、この家を守るため金獅子家を倒すのに協力すると言いました。メニスの長に詳しく話を聞きながら熟慮した、自分はジェリドヤードに力を貸すことにする。つまり、我が主と一緒に南王国へついて行くと。

 たちまち我が主の声音に喜びの色がさしました。


「レナ……!」

「だが用が済んだら、長居はしない。必ず一緒にここに戻ろう。我々の家は、ここだ。血みどろの王宮でも戦場でもない」

「レナ!ありがとう、大好きだ!」


 満面の笑みを浮かべて愛する人に抱きつく我が主から、黒髪はサッと私を包んだ袋をとりあげました。


「だがこいつには絶対さわるな。ジェリにくれてやろう。私が今から鍛冶場へ持っていく」





 黒髪は、私を携えてジェリドヤードの邸宅へ向かいました。

 王子はメニスの長から、寺院の近くの大きな屋敷を与えられておりました。


「大人しいな、剣。まあ、こんなに見事に折れては、ついに言葉を発する力も失せたか」


 道中黒髪は終始無言の私に満足げに話しかけてきました。


「このままサリャの手で、おまえが二度と喋れぬようにしてほしいものだが。あいつにはそこまでの技量はなかろうな」


『サリャンディークか。あの子は筋はいいけどね』


 雲間の隙間から聞こえてくる黒髪の声に、マエストロはくすくす笑いました。


『たしかにそこまでの技量はない。たった四年では、僕が伝えた技などほとんど継承できていまいよ。適当に切れない刃をつけられるだけじゃないか?』


 そんなこと。今はどうでもいいです。おなかがすごくいっぱいで。

 とても満ち足りていて。幸せで。マエストロの腕が、あたたかくて……。

 私はマエストロの胸に頭をもたげて、ぎゅっとその胸元をにぎりしめました。


『おやおや。エクスは本当に甘えん坊になったね。君の主人とそっくりだ』


 そんなに苦笑しないでください。だって私、数十年もひどい思いをしてきたんです。

 だれからも邪険にされて。拒まれて。ひとりきりで。ひとりぼっちで……。


『ああ、泣かないで。かわいそうに』


 マエストロは私のかりそめの顔からこぼれる涙を、口づけでゆっくりそっと吸い取ってくださいました。


『たった数時間のことだったのにね』


 いいえ。いいえ。

 私の中では、数十年。本当に長い長い時間でした。だから。だから……


『マエストロ。お願い』


 私は暖かい腕の中で囁きました。とても甘えた声で。半泣きになりながら。


『もっと……抱きしめて』

『うん。離さない。僕のエクス』


 ぎゅっと優しい圧迫感に包まれたとたん、私は満面の笑みを浮かべました。

 そう。これ。これが欲しかったんだと思って、安堵のため息が漏れました。

 私。

 幸せです。

 幸せです――。





 こうして私は折れた刀身を修理されるべく、ジェリドヤードの侍従であるサリャに手渡されたのでした。

 マエストロの弟子の弟子の弟子。十数代目のひ孫弟子である業師、ゼクシスの弟子の手の中に。





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