48話 蒼き衣の私
黒髪の暗い記憶をひたすら喰らい続ける剣。
記憶の同期が続いています。
ついに、寺院に至りました。
「レ・ナ・ン」
私の目の前に座っているのは、不機嫌そうな黒い衣をまとった赤毛の男。
なんだか、くせのある顔立ちをしています。
猫足の寝椅子は真っ赤なビロード張り。
ああ、今度はこの男との過去を喰らわねばならないのですね。
本当に次から次へと。
私……黒髪には、一体どれだけ暗い記憶があるのでしょうか……。
「ぶすくれてないでコッチ見ろ」
赤毛の導師は水煙管をすぱーっと吸って。渋い顔で煙を吐いて。
「レナン。顔を上げろって」
細い水煙管の先で、私のあごをくいと上げてきました。
この男の部屋は、紫の煙だらけ。
岩壁の部屋にいくつも置かれた卓の上には、大量のコウモリの羽。天井から釣り下がっているのは、蛇の干物。
床に置かれたいくつもの、檻。中には野菜くずを食べているウサギや天竺鼠。そこここに無造作に積み上げられた薬草。
壁にかかる得体の知れない護符や仮面……。
「さあもう一回だ。一語ずつ、わしに続いて復唱するんだぞ。いいな?」
私はギュッと目をつぶります。赤毛の男は、真剣な顔で口をぱかっと開きます。
「お」
「……」
「レナン、お、だよ。お。言ってみろ。でないと、パンを口にねじこむぞ?」
身震いして、なんとか口から音を出す私。
「……お……」
「よしよし。つぎは、と、だ。と」
「……と……」
「よしよし。いいぞ。次は、う」
「……」
「レナン、う、だ」
「……」
「ほら、早く言え」
「……」
――「お父様、もう夜遅いですよ」
回廊から入ってきたのは、ほどよくふくよかな少年。蒼い衣にサンダル姿。呆れたようにふんと鼻を鳴らします。さらりと肩でゆれているのは、目の覚めるようなまぶしい金髪……。
肩をすくめる赤毛の男は、すぱーっと紫煙を吐きました。
「ユール、あのな、今レナンを仕込んどるからちょっと待ってくれ」
赤毛の男は私の顔を覗きこみ、ゆっくりはっきり口を動かします。
「レナン、さあ言え。お・と・う・さ・ま。ほら言え」
「……」
目に涙をいっぱいためてうなだれて、唇を噛む私。
金髪の少年がくすくす笑い、赤毛の男の黒い衣の袖を引っ張ります。
「お父様、無理ですってば。絶対こいつ、言いませんよ。それより、ねえ、早く……」
「うぬう」
赤毛の男の膝にすがる、金髪の少年。その頭にいとおしそうに降りる、男の手。
「早く、寝床に連れて行って?」
「仕方ないのぅ。ユールは本当に甘えん坊だな。レナン、もういい下がれ」
赤毛の男は金髪の少年を抱き上げて、ごちゃごちゃした卓の奥へ連れて行きました。
天蓋から真っ赤な幕が降りた、男の褥へ。
男と少年の笑い合う声が聞こえるや、私は男の部屋から逃げ出しました。
岩壁がそそりたつ回廊を、走って。走って。寺院の門を抜けて。
すぐ目の前の、宵闇に沈んだ湖の岸辺を走って。
たゆたう湖水にざばざば入って。
私は、叫びました。
「おとうさま!」
泣きながら、何度も叫びました。
「おとうさま! おとうさま……」
面と向かってなんて、言えません……。
だって、どうしても思い出してしまいます。
「おとうさま……」
そう呼んだときの、シクリード先生を。
私を突き放して、部屋を出て行った先生を。
二度と私を見てくれなかった、あの人を。
「おとう……さ……」
赤毛の男は、私の師匠。最長老から私を弟子にしろと命じられました。
だから、私が追い出されるはずはないのです。
頭では、解っているけれど。
「お……と……」
こわくてたまりませんでした。
言ったとたんに、赤毛の男の顔つきが変わって。
あの煙だらけの部屋を追い出されて。
『もう二度と、来るな』
そう言われるんじゃないかと。
それきりあの男は、話しかけてくれなくなるんじゃないかと。
先生のように、私を見てくれなくなるんじゃないかと……。
せんせい。
やさしいはりえる。
あたたかい腕のひと。
みんな。私を捨てました。
だからどうしても、思えませんでした。
あの赤毛の男は、違うなんて。
岩窟の寺院はエティアの北の辺境の、岩山に囲まれた秘匿の場所にありました。
目の前には蒼い鏡のごとき湖がたゆたい、魔法の風と風編みの結界で俗世間から完全に切り離されているのです。
湖の向こう岸には、とても小さな街がありました。
五人の子どもを乗せた馬車が、王都から北の端のその小さな街まで行き着くのには、約二週間ほどかかりました。
その間、私はひどい目に遭いました。他の子どもたちが孤児院出の私を嫌って、同じ馬車に乗りたくないとお役人に訴えたのです。
子どもたち全員が申し合わせたように一斉に訴えたので、私はひとり隔離され、別の馬車に乗せられました。
若い役人がひとり、私と同乗しましたが、彼は四六時中「貧乏くじを引かされた」と愚痴っていました。腹立たしくてたまらなかったのか、若い役人は馬車の中で私を好き放題いじめました。罵ったり。殴ったり。蹴ったり……。たちまち、私の手足は痣だらけになりました。
辺境の街につくと、私と子どもたちは迎えに来ていた黒き衣の長老達に引き渡され、白い死に装束を着せられて、小船に乗って湖を渡りました。
こうして私は、岩壁そそりたつ岩窟の寺院に入れられました。
導師達の結界に護られた、牢獄のごとき場所に。
私と子どもたちは、会合の広場という円形の集会場で、黒い衣の導師たちに迎えられました。
最長老は、かのレヴェラトール。ずっと噂と声だけしか知らなかった「未来に殺されることになる」彼の姿は、齢六十ほどに見え、とても威厳のある賢者のごときでした。彼は舞台に並べられた私どものうち、まず一番右端にいる子の名前と出自を読み上げました。
そこで私はびっくりしました。
その子は、西方にある王国の王子だったからです。
「この子が欲しい者は?」
最長老が尋ねると、たくさんの導師が席を立って名乗りをあげました。
レヴェラトールはいにしえの掟通りに序列や弟子の数を鑑みて、子どもにふさわしい師を定めました。そうして西国の王子は、師となった導師に手を引かれて広場から出て行きました。まるで、仲の良い親子のように……。
どうしてお役人たちが子どもたちの訴えをすんなり聞いて、私を隔離したのか。
私は十分、納得しました。
王族だったのは、その子だけではなく、どの子も、どこかの国の大貴族や王様の子どもだったからです。
レヴェラトールは子どもの名と出自を読み上げて、彼らの師を決めていきました。素晴らしい血筋の子供たちを、たくさんの導師達が弟子に欲しがりました。
本当に、たくさん。
「五人目の者はレナンディル、家名なし。エティア王国王都エイレイテュイア王立孤児院出身、生地不明。髪色は黒、瞳孔は蒼。この子が欲しい者は?」
最長老が最後に広場の舞台に残った私のことを読み上げると。
水を打ったような沈黙が広場を覆いました。
私の後ろに並ぶ長老たちが、ひそひそ囁き合いました。
「見たところ、魔力は凡庸そうだし」
「出自が悪すぎる」
「せめて金髪なら……」
私は唇を噛んでうなだれました。
私を欲しいと言う導師は……いくら待っても出てきませんでした。
だれの子かもわからない、何の後ろ盾もない子。
手足は痣だらけで、骨と皮ばかり。
発育不全で小さくて、みすぼらしくて、今にも死にそうな子。
望まれなくて、当然でした。
結局レヴェラトールが、私の師を強制的に名指しで決めました。
「ええとそれはー、ちょっと困るんですがー」
指名された赤毛の導師は如実に困惑していましたが、最長老はきっぱり命じました。
「せめて普通の子どもの体格にしてやらねば。だからおまえに預ける、ディクナトール」
「ですがー」
「この子に関してのみ、先に制限したおまえのおぞましい性癖の無制限行使を認める」
「えっ? いいんですか?」
赤毛の男は突然、嬉々とした顔になりました。
レヴェラトールは慇懃な顔でうなずきました。
「許可する。こんな肢体は見るに耐えぬ。しっかり肥え太らせろ」
こうして私は蒼い衣を与えられ、ディクナトールという赤毛の導師の弟子になりました。
引き取られたその日から、私は師匠の給仕役になりました。小食堂で食事する師の世話をするのは、一番下の弟子の仕事であるからでした。
「レナン、ほら食え。こいつも食え」
ディクナトールは食事の間中、ひっきりなしに私の口にパンや魚を放り込んできました。
「たんと食え。ふくよかな子にならんと、愛でてやらんぞ」
赤毛の師の両隣には、恰幅のいい導師が二人座っていました。彼らの給仕をする弟子たちは二人ともぶっくり肥え太っていて、やはり始終、師からごはんを分け与えられていました。
「このまろやかな頬。むちむちっとした腕。たまらんのぅ」
「だな。太りすぎで病気になるとか、食事制限させろとか、最長老はうるさく言うが、食べさせないとかわいそうだろうに」
「そうだそうだ。おまえらのゲイルもポルネもいい肉付きだよなぁ。レナン、おまえも二人みたいになるんだぞ。ともかく、食え。いいな」
一体何個、パンを口に押し込まれたでしょう。
一体何匹、魚を飲み込まねばならなかったでしょう。
夕餉が終わると私は手洗い場に走り、お腹の物を全部出しました。ディクナトールが私に食べさせる量は、およそ尋常ではなく。土台、食べ物が大嫌いな私には、全部消化するのは無理なことでした。
その日だけでなく、毎朝毎夕、私は大量に食べさせられました。
私は給仕が終わるたびに、こっそり手洗い場に走りました。
赤毛の師には、私より三つ年上のユールという弟子がいました。少しぽっちゃりしていましたが、見事な金髪でとても美しい顔立ちの少年で、師は彼のことをとても可愛がっており、自分のことを「お父様」と呼ばせていました。
赤毛の師は私にもそう呼ばせようとしたのですが、私はなかなか面と向かってそう呼ぶことができず、師をがっかりさせてばかり。
ユールはこれ幸いと、私を極力「お父様」から遠ざけました。
「いいか新入り、俺のお父様に絶対近づくなよ。給仕は譲ってやるけど、風編みの出迎えは俺にさせろ。いいな?」
この兄弟子は師の寵を奪われまいと、徹底的に私を警戒しました。
座学の時は必ず私と師の間に入って、距離が出来るようにしていました。
赤毛の師は大変な自信家で、自身を「最高の呪術師」と称しておりました。たしかに「呪術」は相当なもので、常に誰かを呪うためのまじないの触媒を導師達に売りつけることまでしていましたが、その触媒の採取は弟子に任せていました。
蛇の干物、コウモリの羽。地底魚の骨……。
触媒の材料は、寺院の地下に広がる鍾乳洞から豊富に取れました。
私はユールと一緒にしばしば鍾乳洞へ潜り、一所懸命触媒を採りました。
「俺がお父様に渡しておく。おまえはもう共同部屋に行って寝ろ」
ユールは私が採ったものを自分のと一緒にして「お父様」に届けました。たぶん、みんな自分の手柄にしていたのでしょう。
そして彼はいつもそれきり朝になるまで、赤毛の師の部屋から帰ってこないのでした。
「お父様は昨日もかわいがってくれた。何度も『入れて』もらった。すごかったぜ」
ユールは毎朝、これみよがしに私に自慢しました。そしてうっとりつぶやくのです。
「お父様は最高だ」、と。
とある日、またぞろ夜のことを赤裸々に自慢してきたユールに、私はびっくりして聞き返しました。
「え? 寝床で、ぎゅうって……して……くれるの?」
「あたりまえさ。それよりもっとすごいことを、いっぱいしてくれる」
抱きしめてもらえる?!
もしかして、あきらめていたものが、手に入る?
もしそうなら。本当にそうなら!
「お、俺もぎゅうって……してほしい」
ユールは私をせせら笑いました。
「無理だろそんなの。お父様がおまえなんかを愛でるはずがない。そんなガリガリじゃ、土台ムリさ」
私は気になって、他の子もお師匠様からユールと同じようなことをしてもらっているのか、同じ勤労当番になった子たちに聞いてみました。
それによるとみんな、数日に一度はユールのように師の部屋に呼ばれて、かわいがってもらっているようでした。
「なあ、おまえ、昨日もお師匠さまにかわいがってもらったんだろ?」
ある日私はジェンという名の弟子にも聞いてみました。
その子は私と同い年で、アルセニウスという導師が、後見先の金獅子家から直接連れてきた子でした。特別な方法で来たので、弟子達の間では師匠に格別に愛されていると評判でした。
しかしこの金髪の美少年。とっても性格悪そうです。
以前、どこかで見たような気がするのですが……。
どんなことされた? 「入れて」もらった?
私が立て続けに聞くと。
「うるさいな! ちゃんと仕事しろ」
ジェンはいらいらとハーブを引きちぎりました。
「そんなこと、されるわけないだろ」
「でもユール兄さまは、入れてもらってるって……。ねえ、どうしたら、おまえみたいにお師匠の部屋に呼んでもらえる?」
何か特別な方法があるなら真似してみよう。そう思って聞いたのですが。
目の覚めるような金髪のジェンは、つんと冷たく答えました。
「そんな汚い髪の色じゃだめだろうね。金髪ならいいかも。でも君、お師匠さまが初めての相手じゃないんだろ?」
「え?」
「ユールが、君はひどい傷物だってみんなに言って回ってる。同じ孤児院出のダニンみたいに、体を売ってパンをもらってたってね。君がここに初めて来た日、ディクナトール様は君の体にその跡があったから抱けなかった、とも」
傷物? 体を、売る?
確かに、院長さまの部屋に呼ばれたあとは、パンをたくさんもらえました。
でも、体を、売る? 売るってそんな……。
私には、そんなつもりは全然ありませんでした。
私が欲しかったのはパンではなくて……そうではなくて……。
混乱していると、ジェンは吐き捨てるように言いました。
「君みたいなひどい傷物なんて、だれも愛でたいなんて思わないだろうね。もう誰かに『入れられてる』お古なんて。僕だったら、絶対イヤだ」
「も……もう誰かに入れられてたら……だめなの?」
「だめに決まってるだろ。他人に汚された奴なんて、一体誰が欲しがるんだ?」
汚された?
「それ、どういう……」
「なんだか、ほんとに知らないようだから教えてやるけど。世間一般では、金や物のために体を売ることは、とても汚らわしいことだって認識されてる。睦み事は、本来愛し合ってる者同士がやることだ。夫婦や恋人たちが愛を確かめ合う行為なんだからね」
愛を、確かめ合う……?
「愛……って……かたわれのこと?」
ジェンは途方にくれたように天を仰ぎました。
「とにかく、君の前の飼い主は子どもを食い物にする人でなしってことだ。たんに君を、オモチャにしただけさ」
私は、ガツンと頭を殴られたかのように打ちのめされました。
「オモ……チャ?」
「たまにいるらしい。ただ単に快楽を求めるためにそういう事をする、どうしようもなくおぞましい気狂いがね」
私は言葉を失い、黙々とハーブを摘むジェンを見つめました。
この瞬間まで私は……悪いことをしたという感覚は、まったくありませんでした。
院長さまがいい人か悪い人かなんて考えもせずに、私はただ、院長さまから命じられたことをしただけでした。
ただ、あのぬくもりが欲しいあまりに。
そうしなければ私は。
あの一瞬のぬくもりを求めなければ、私は――
「だってそうしなきゃ……」
私は呻きました。ハーブの束をきつく抱きしめながら。
「生きられなかった……」
私は暗く沈みきった気持ちで、その日の夕餉の給仕をしました。
赤毛の師は、いつにも増して私に食べさせてきました。
寺院に来て数ヶ月経つのになぜ全然太らないのか、と愚痴って口の中に次々とパンを押し込んできました。
私はいつものように手洗い場で食べたものを全部出しました。
涙が出てきて、止まりませんでした。
思い起こせば。私が始めて寺院に着た夜、赤毛の師は私の体をすみずみまで眺めて深いため息をついて。とても残念そうに背中を押して共同部屋に帰しました。
あれはジェンが言うように、私が汚れている、と判断したからなのでしょう。
とても触れられない、と思ったからなのでしょう。
それに師は、ユールをとても可愛がっています。
これから万が一にも、私を好いてくれる可能性なんて……。
――「おいこら! 何をしとるんだ!」
ぐすぐす手洗い場で泣いていた私は、偶然、赤毛の師に見咎められました。
そしてついに、見つけられてしまいました。ほとんど何も、食べていない証拠を。
「レナン、なんだこれは!」
「う、うあああ!」
私は自暴自棄になって暴れました。どうにでもなれと思いました。
「こら、暴れるな! 食ったものをこっそり吐きだすなんて、バカなことを。なかなか太らんので、おかしいと思ったら」
赤毛の師は髪を逆立て烈火のごとく怒りました。私は暴れながらひいひい泣きました。
「やだ! こんなとこ大嫌いだ! 飢え死にして死んでやる!」
「食い物が嫌ならなんだ? 欲しいものを言ってみろ! 一体何が欲しいんだ! お菓子か? お菓子なら、食べられるのか?」
欲しいもの? 私が、欲しいもの?
私は、泣きながらまくしたてました。
「かたわれをくれよ! 一日中俺だけを愛してるって言ってくれる奴! 一日中俺だけを抱きしめてくれる奴! 俺だけしか要らないって言ってくれる奴! 今すぐくれよ! 俺、そんな奴がほしい!」
「ちょっ……レナン! おまえ何言っとる?」
「魔法で出してくれよ、おとうさま!」
私はついに躊躇なく、赤毛の導師を「おとうさま」と呼びました。
どうせ望みのものなど、手に入らないのです。だからもう、やけくそでした。
ぶたれる覚悟で、私は怒鳴りました。
「あんたえらい導師さまなんだろ? なんだってできるんだろ? だったら今すぐ、俺のかたわれを出して!」
「レ、レナン?!」
「そんなやつ、いるわけないよな。くそ! おとうさまなんか、大っ嫌いだ! ユールばっかり抱きやがって!」
「ここここら! お、落ち着け! わしの部屋にいこう、砂糖たっぷりの甘いお菓子をやる。な? それなら食いたいだろ? 食った後、たっぷり可愛がってやるから」
赤毛の導師は泣きじゃくる私を抱きかかえ、煙たい部屋に連れ込んで籠にたっぷりのお菓子をくれました。
私はしぶしぶ手を伸ばして、警戒しながらお菓子をぽそぽそ口に入れました。
信じられないことに師は、「いい子だ」と私の頭を優しく撫でてきました。
でも……。
――「お父様、まだですか?」
緋色の幕が降りた寝台の中には……すでに、ユールがいました。
金髪の少年は顔を出してきて、赤毛の師を誘いました。
「待ちくたびれました。早くレナンを共同部屋に帰して、こっちに来てくださいよ」
「ゆ、ユール、すまんな。今日はレナンをだな、愛でようかとー」
「ええっ? ヤり捨てられて来た子なんて嫌だ、せめて肥え太るまで絶対愛でてやらんって言ってたじゃないですか」
「こらユール! レナン、今のは――」
「ちくしょう!」
やっぱり。
やっぱり。
ジェンの言った通り、赤毛の師は、私が汚れてるから今まで一度も……。
「みんな、大っ嫌いだ!!」
私はお菓子の籠をひっくり返し、部屋から飛び出しました。
泣きじゃくりながら地下に降り、木戸をくぐってあっという間に暗い鍾乳洞に駆け込みました。
灯りも持たずに奥へ奥へがむしゃらに進んで。
進んで。
転んで。
起き上がって、また進みました。
「死んでやる……死んでやる!」
そう、呻きながら。
鍾乳洞はとても広くて、分かれ道がたくさんありました。
私は闇雲に全く適当に細くて暗い道をどんどん進みました。
どこかで倒れてそのままのたれ死にたいと、本気で思いました。
どこか冷たい岩の上に倒れこんで。
気づけば、私は蒼い湖に行き着いていました。かなり大きな湖で、水面がうっすら青白く光っていました。
冷たい水に身を投げ込もうか?
鍾乳洞はとても寒いので、体が凍り付いてすぐに死んでしまえそうでした。
私は勢いよく、水辺に走り寄りました。
するとその瞬間――。
うわっと、千も万もの光の粒のようなものが、一斉に水中から飛び立ちました。
「え……? 何? これ?」
私は目を見開いてその場に立ち尽くし、茫然と水面を見つめました。
それは……まるで夜空に瞬く星のような光の乱舞。
渦巻く、光の洪水……。
ぽわぽわと淡い光が、何千も何万も飛び交って空中に美しい模様を作り出しています。
ふと。
光の粒がひとつ、私の手の甲に止まりました。
よく見ればそれは、白くて小さな羽虫でした。
「なにこれ……」
私は我を忘れ、その光る虫をじっと見つめました。
「すごく……きれい……」
その虫は、尻尾の光をぴかぴか明滅させていました。
まるで必死に、何かを話しかけてくるように。




