36話 ダンタルフィタスと私
なんということ。
あの優しい我が主が。
獰猛な獣すらかわいいと愛でる我が主が。
スメルニアの大皇帝を襲うなんて……!
「やめろバオ!」
蒸気の向こうからほとばしる、銀色の閃光。
雪豹はその光に弾き飛ばされて床に転がりました。
黒髪がとっさに韻律を放ったのです。
銀の光の一閃で蒸気が割れ、奴の全身が現れました。
その右手には、燦然と輝く銀の杖がありました。
火事のどさくさに紛れて、宝物庫から持ち出してきたのでしょう。
「混乱しているんだな? 大丈夫だ、こちらにおいで。さあ」
獣の中に我が主の魂が入っているとは露ほども知らず、黒髪は手をさしのべて雪豹を呼びました。
(うう?)
頭を振りながらよろよろと雪豹が身を起こしたそのとき。
世にも恐ろしい精神波が、私の波動受信機に引っかかりました。
――『殺せ! 陛下を殺せ!』
これは……一体誰の思念でしょうか?
その不気味な声に反応するかのように、雪豹がわななきました。
――『殺せ! 陛下を殺せ!』
(殺せ? あ……! 僕……なんてことを……!)
獣の中にいる我が主は、まさにその不気味な声を聞いてハッと我に帰りました。
床には一面、芳香を放つ真っ白い血だまり。
首を深く噛まれた陛下は、ピクリとも動きません。
(ぼ、僕、怒りに任せて、なんてことを……!)
――『殺せ! 陛下を殺せ!』
おののいて後ずさる雪豹の額がほのかに光っています。
それは黒髪の額にはまっている隷属の印と全く同じもの。
額の印が、不気味な声を受信しているようです。
この隷印を操れるのは陛下だけのはず。しかしどこか他にもうひとり、隠れた主人がいるのでしょう。
(やめて! やめて! 命令しないで!)
獣の中の我が主はその声に抗い、我が身を激しく責めました。
(こんなことするなんて。僕……僕、最低だ!!)
『レク! 落ち着け、レク!』
フィオンが必死に呼びかけて宥めましたが、表裏一体のその声は我が主には聞こえませんでした。
ぐおん
悲しみの咆哮をあげた我が主は、浴場から飛び出し。
(やめて! お願い! そんな命令しないで!)
不気味な声をたどり、声の主をすぐに探し当てました。
(やめて! 尚光さん!!)
太陽の第二神官にして、いまや大神官となっている尚光。
銀の戦舟を襲った張本人は、今度はおのれの主人に対して謀反を起こしたようです。
我が主の精神波の発信元は、ここから直線距離にして約百メートル。
ここより十メートルほど低い処ですのでおそらく階下。
そして飛竜船の船首方向から聞こえますので、一般的な飛竜船の構造を考えますと、司令室か操舵室あたり。
我が主に蹴られたせいなのか、このときの私の感度はとても良好でした。
まるでこわれたテレビがはたかれて正気に戻るように、我が意識は晴れ渡る空のように澄み渡り、表裏一体の二人の少年の叫び声を完璧に拾うことができました。
『尚光が僕らに命令してきたのか! レク、こいつを倒そう!』
(僕はこの人の声が聞こえる前に、陛下を噛んだ……あれは……僕の意志だ)
『レク、何を迷ってる? こいつ笑ってるぞ! 隷属の印を作ったのも、豹を皇帝に献上したのも、自分だって自慢げに言ってるじゃないか。こいつは本物の悪党だ』
(僕は望んだ……陛下が死ぬことを)
『レク! 躊躇するな! 早くこいつを止めないと、大変なことになる!』
(僕も、この神官と同じだ!)
『レク、僕の声を聞いて――!!』
フィオンの声はどうしても、我が主には届かないのです。
我が主は、やはりとても優しい子でした。
鬼には、なれませんでした。
ためらう雪豹は容赦なく――
『くそ! 蹴られた! 尚光め! あっ……!』
フィオンの悲鳴を最後に、二人の精神波がぶつりと途切れてしまいました。
我が主は、内なるフィオンもろとも気絶させられたようです。
もし獣の体が死んでしまっても、我が主はおのれの体に戻ればよいのであまり心配はいらないのですが、尚光なる者は、これから大変なことをしでかしそうな雰囲気です。
そして陛下は――
黒髪に抱きかかえられていました。だいぶまっ白な血が流れましたが、まだかろうじて息があるようです。
『黒髪、あなた、その人を助けるつもりですね?』
「もちろんだ」
雪豹を止めたこやつも我が主と同じく、根っこは優しい奴なのかも。
私が感心していると。
黒髪はくつくつと笑い出しました。
「こいつを死なせる? 一瞬で終わる死の恩恵をこいつに与える? そんなことは許さない」
え。
「もっと苦しませないとだめだ。私と私の子が受けた辛苦を、こいつに何倍にもして返してやる」
黒髪はぞっとするような声でそうつぶやき、隷属の印がはまっているおのれの額に触れました。
「この印。こちらから命令の霊波を送ればどうなるかな?」
『く、黒髪、およしなさい。あなたの今の顔、悪魔のようですよ』
「黙れまがいもの」
黒の導師はひとつしかない目でギッと私を睨んできました。
「私の子に手を出す奴は、誰であろうと許さない。たとえ天上の神々でも」
黒髪は曲がりなりにも黒の導師のはしくれ。
ゆえに人を呪ったり操ったりする黒の技を行使することなど、朝飯前でした。
奴は額の隷印を逆手に取り、陛下と繋がっている額の印の波動に命令の韻律を乗せて送り返して命じました。
『眼を開けろ』
果たして瀕死の皇帝は、力なくうっすらと眼を開けました。
「死にたくなければ、おまえの名を教えろ。そうすれば助けてやる」
名前とともに韻律で命じられれば、その者は決して抗うことはできません。本物の奴隷と化してしまいます。
陛下は抵抗しましたが、黒髪は何度も厳しい口調で脅し、彼の名前をようやくのこと聞きだしました。
フンミーというのが、この苛烈な性格の皇帝の幼名であり、真の名でした。
名を手に入れた瞬間、黒髪は目を細め、悦に入って口元をにやりと引き上げました。
なんと恐ろしい貌。
怒りと復讐心に支配された貌。
とても醜く。とても哀しい貌。
はるかな昔、これと似た貌をどこかで見たような……。
ああ、導師ダンタルフィタス。
私の奥底にいるあやつも、こんな貌をしていましたっけ。
我が銀足の戦士が、黒竜を操る姫を倒した時に。
あの導師は黒竜家の後見をしており、都市をいくつも水没させたおそろしい姫をこよなく愛しておりました。だれよりもなによりも大事にしておりました。
ですから銀足の戦士が黒竜を止めて姫を殺したとき、ひどく激昂して仇を打たんと我々に挑んできたのです。
悪魔のような笑い声をあげ、両の瞳から滝のように涙を流しながら、ダンタルフィタスはこの船の宝物庫にいるあの杖じいさん――当時は杖少年でしたが――をふりかざし、世にも恐ろしい術で我々を攻撃してまいりました。
奴は墓場から次々と死者をよみがえらせて、不死の軍団を作り上げたのでした。
すでに魂の抜けた、ぬけがらの兵士たち。
喰らうものがない虚無のかたまりは、どんなに斬っても払っても倒れることなく、我々を襲いました。
銀足の戦士はなんとかその軍団を焼き払い、すべて倒したものの。
力尽きて一瞬隙をみせたところを、杖から放たれた光弾で射抜かれました。
私がダンタルフィタスめがけて飛びかかり、奴の魂を喰らったのと同時のことでした。
狂った導師の笑い声は今も私の記憶にしっかり記録されております……。
『血! チ! ち! サクリフィキウム!』
ダンタルフィタスは私の中で暴れ回り、私を支配しようと、体を失ってもなお呪いの言葉を吐き続けておりました。
しかもこの道師の魂は、なんと人の手によって作られたものであったのです。
人工魂。
たとえ輪廻して生まれ変わっても、決して変容しない不滅の魂。
転生させれば、負の感情に支配されたこの導師が闇の魔王となるのは必至。
ですから私は、ダンタルフィタスを成仏させることをあきらめて、己が身の奥底に封印したのです。永遠に、表の世界には出てこれぬように。
銀足の戦士を倒したことだけが、この悪魔の罪ではありません。
黒竜の姫と共に、ダンタルフィタスは何百万もの命を奪ったのです。
北五州を統一する――その大義名分のために。
「なにをぶつぶつ言っている?」
ああ黒髪、はるか昔のことを思い出していたのですよ。
あなたにそっくりな、悪魔の貌をした者と。銀の足の我が主のことを。
「銀の足? グレイル・ダナンのことか? 北五州では悪魔だが、砂漠地方では大英雄だというあの? 今でも勲詩がたくさん残っている。まさかそいつの剣だったというんじゃないだろうな」
ええ、私はまさにその人の剣でしたよ? ダンタルフィタスの光弾に打たれて、命はとりとめたんですけどね。もう一方の足も吹き飛んでしまって……まあ、いい年になってましたから、それであの人は戦士稼業から引退したんです。
黒髪はふふんと鼻で笑いました。私の話など信じてなどやるものかと言いたげに。
「まがいもの、おまえの暴走のおかげで形成を逆転できた。それに対してだけは感謝する」
黒髪は動けぬ陛下を抱え上げ、浴場を出て、胎と呼ばれる空間へと入りました。
陛下の指紋によって、そこへ至る扉が開かれました。
蒼いゼリー状の空間の中に浮かぶ、丸いタマゴのような大きな物体。
それがこの飛竜船の核たる「胎」で、中は三層の部屋に分かれておりました。
我々はまず、一面黄金の壁紙と垂れ幕に覆われた一番上層の部屋に入りました。
いくつも垂れ下がる幕のひとつひとつに太陽紋がついている円形の部屋で、中央には大きな褥が一つ据えられていました。
そこに凍りついた婦人がひとり横たわっており、そのすぐそばに我が主の体が倒れこんでいました。
「私のレクルー!」
とたんに黒髪は血相を変えて陛下を放り出し、我が主を抱き上げました。
魂が抜けているので、むろん反応はありません。
我が主は今、雪豹の中にいるのです……。
「体が冷たい。氷結しかかっている。かわいそうに、こんなところに放って置かれて……」
計測しますと、室内はかっきり氷点下二十度。この冷気で大きな褥に横たわる婦人の体を保存しているのでしょう。
我が主は陛下に無理やりここに放り込まれ、褥の婦人を目覚めさせるよう命じられたのです。
そう、この婦人こそ、毒をあおって倒れたという皇太后。陛下の母親その人でした。
黒髪は息も絶え絶えな陛下の腕を掴み、その手を壁のはしにひっつけました。
すると音もなく床が開いて、下へ続く螺旋の階段が現れました。
黒髪は急いで我が主を階下の部屋へと移し、その部屋にある大きな褥に横たえました。
そこは月の紋章が垂れ幕に織り込まれている、一面銀色の部屋でした。
黒髪はずるずる這って追いかけてきた私の刀身がまだ熱を帯びているのに気づき、私を拾い上げて部屋のすみにある噴水に投げ込みました。
「癒しの水だ。おまえに効くかどうかは分からぬが、そこで身を冷やしていろ」
それから黒髪は上の部屋から皇帝を背負って連れてきて、さらに下へ降りる階段を出現させました。一面蒼い壁面の部屋がちらと垣間見えました。
黒髪はその蒼い部屋へ皇帝を運び入れ、すぐに我が主のもとへ戻ってきました。
皇太后の眠る黄金の部屋は、太陽の間。
我が主が横たえられた部屋は、月の間。
そして皇帝が置かれた部屋は、星の間と、それぞれ呼ばれているのだそうです。
『陛下の容態はどうなんです?』
「星の間の噴水の水を飲ませて褥に置いて眠らせてきた。ここの水はみな、癒しの霊水だ。じきに傷が癒えてすっかり回復する」
『なんだかんだいってちゃんと治療してやるなんて、偉いじゃないですか』
「これから皇帝には、大いに役に立ってもらう。この船のすべての扉が、あいつの指紋一つで自在に開閉するんだ。腕を斬り落としてそれを使ってもよかったが、」
黒髪はフッと目を落として我が主をみつめました。
「そんな残酷なことをしたら、この子が悲しむだろうからな。だからやめておく」
黒髪は我が主の頬を撫でて呻きました。
「くそ……体温が低すぎる。凍死寸前じゃないか」
『ちょっとあのぉ。我が主に何やってるんですか。変なことしないでくださいよ』
「うるさい黙れ。これから暖めるんだ」
黒髪は銀色の褥の上で懸命に我が主の体を抱きしめ。手足をさすり。それから。
「レクルー、愛してる……魂が抜けているのか? どこへ行った? 目を覚ましてくれ」
陛下に囚われてから離れ離れにされて、ずっとお預けを喰らっていたのでしょう。黒髪は我が主を抱きしめてしばらく離しませんでした。
『あのう。我が主の怪我は、大丈夫なんですか?』
「うるさい!」
うわ。雷玉飛ばしてこないでくださいよ。怖いですよう。
「癒しの空気に満ちているこの中にいれば、大丈夫だ。くそ……レクルー、なぜ眼を覚まさない?」
我が主は今雪豹の中で気絶しています。まだ当分戻ってはこれないでしょう。
「頼む。早く戻ってきてくれ」
黒髪は目に涙を浮かべ、我が主の名を呼び続けました。
何度も何度も。幾度も幾度も。呼び続けました。
我が主に額や頬や唇に、千の口づけを浴びせながら。
『セイレーナ! セイレーナ!』
あ。れ? この声は。
『私のセイレーナはどこだ?』
お黙りなさい、悪魔。
もうあなたの姫はこの世にいないのですよ。
もう何度も、どこかの誰かに生まれ変わっているはずです。
あなたのことなんか、すっかり忘れ去っていますよ。
『会いたい。会わせろ。セイレーナ! どこだ!』
お黙りなさい、ダンタルフィタス。
封印の箍たががだいぶ緩んでいるようですね。
どうしてでしょうか。なんだか喉元に何かひっかかっているような感覚がします。
私、何か変なもの、飲み込みましたっけ……?
「レクルー……私のレクルー……愛してる……愛してる……!」
黒髪が……ダンタルフィタスのようにならないといいのですが。
泣きながら我が主を貫いてきつく抱きすくめる黒髪に、私はひどく不安を覚えました。
もし我が主を失ったら。
こやつもあの悪魔のように、絶対狂ってしまうに違いありません。
まだ救いがあるのは、黒髪の魂は輪廻できる普通の魂であるということ。
しかし命を散らすその時まで、黒髪は大地を破壊し尽くし、たくさんの命を奪うことでしょう。
復讐のために……。
そうならぬよう、我が主をしっかり守らねば。
この黒髪よりも、絶対に長生きさせなければ……。
『どこだ、セイレーナ! 我が姫!』
私は封印の割れ目をぎゅっときつく絞りました。
狂った悪魔の声は、きゅうと悲鳴をあげて消えていきました。
我が柄の宝石に秘められた、深淵の奥底へ。




