35話 こわれた私
黒髪、なんてことを……!
私は茫然としました。
黒髪は気丈にも、スメルニアの皇帝におのれの目を差し出しました。
口を真一文字に引き結び、残った片方の眼で、陛下を刺し貫くように睨みながら。
「これで……いいんだな?」
いくら我が主の甘露に侵されているとはいえ。
我が主と同じ芳香を放つメニスの混血を目の前にして、ここまでやってのけるとは。
やはり黒髪は。本当に。本当に話が主のことを……
「く……!」
顔面蒼白の陛下は、黒髪の手から青い眼をひったくりました。
陛下の怒りはすさまじく、その感情は狂った笑いとなって彼の口からほとばしりました。
「あはははははは!」
陛下は笑いました。
けたたましく笑いました。
我が主と同じ菫色の眼に、白い液体を浮かべながら。
「見上げた奴。黒髪! 朕はますますおまえが気に入ったぞ!」
なんと重たく淀んだ悋気でしょうか。
嫉妬。妬み。苦しい悲しみと怒りの色。
よもや黒髪が自分で片目を抉り出すとは。
レクルーという子のためにここまでするとは。
陛下には、思いもよらなかったことだったのでしょう。
しかし誇り高いスメルニアの大皇帝は取り乱すのをこらえ、ぎりっと歯を食いしばり、黒髪の頬に白い手を当てました。
「黒髪、あっぱれだ。朕の褒美を受け取れ!」
その白い手が一瞬輝いたとたん。
黒髪は勢いよく後ろへ跳ね飛ばされて、壁にドッと打ちつけられました。
奴が声をあげることもできぬぐらいの、強い衝撃でした。
その顔からじゅうじゅうと嫌な音がして、ほのかに煙が立ちのぼりました。
ああ……これは、スメルニアの貴族どもが奴隷に与える罰です。
確か、指輪から出る熱線で肌を焼くのです。
陛下の中指に金色の輪がはまっているのが、きっとその光線の出る道具でしょう。
黒髪の顔は見るも無残に半分焼けてしまっていました。
ああ……かわいそうに。
う? かわいそう……?
私、何を思って……こやつは、私とフィオンの敵のはずなのに……
「剣、こいつを喰らえ!」
……!
「いますぐ喰らえ。おまえが本物なら、それができるはずだ。喰らえ!」
スメルニアの皇帝よ。なんという命令をするのですか。
言われなくとも食いたいです。私、とてもそうしたいです。
でも。こやつは、我が主を本気で想っていて。
そして。我が主も、こやつを……
「何をブツブツ言っている。早く喰わぬか!!」
あっ……けらないで……ぐっ……
でき……ません。わたし、できません……
わたしの。しゅじんは。れくりある・のーん。ただ、ひと・り……
「こ……の……役立たずめ!! 朕の視界から消えろ!!」
わたし
できませ、ん
あいする
れくりあるの
いちばん
だいじな
ものを
こわす
なんて――
『あら新入り? ずいぶん男前ね。広刃の剣なんて』
……。
『ん? あんた、喋れないの?』
『弓姉さん、見てごらんよ。かわいそうに、柄の部分からなんか垂れてるよ。こわれてるんじゃない?』
『えっ、そうなの大釜くん? あらまほんと。真っ赤な血の塊みたいな石が取れかけてるわね』
……ここ……は?
『そいつも、わしらみたいに陛下にこわされたんじゃろ』
『あ、杖じいさん起きてたの? あなたと同じような銀の杖も隣にいるけど。そいつも全然喋らないわね』
ど……こ……?
『わしみたいに折られてないだけ、まだよいわ。しかしその剣、どこかで見覚えがあるような……』
『剣さんに杖さん。たぶん君たちもずいぶん由緒あるものなんだろう? 僕らもそうだよ。腹にひびが入ってる僕は、大魔女カカリクの大釜で、三百年間、ずっと魔法薬を煮込んでたんだ。そこの壁にいる弦がちぎれた弓姉さんは、聖なる月女神ザルヤの弓だった。ぽっきり折れて転がってる杖じいさんはね、なんと導師ダンタルフィタスの杖だったんだよ』
『あなた知ってる? ダンタルフィタスは、黒の導師の中でも最強の導師よ。その人の杖だったなんて、このじいさん、ほんとにすごいわよね』
しって……ます
『わしの主人は北五州でずいぶん名をあげたもんじゃ。黒竜と共に、黒竜家があそこを統一する手伝いをしての。しかし銀の足の悪魔と激闘の末、相打ちになってなぁ……主をなくしたわしは、めぐりめぐってスメルニア皇家に渡ったんじゃ』
『この部屋にいる連中は、みんなそんなのばっかりよ』
みん、な……?
あ……いろんなもの……いっぱい……あります、ね。
『陛下がオモチャ代わりに、王宮の宝物庫から持ち出してきてな。みなひとしきり遊んで壊しては、この部屋にポイッ、じゃ』
『ここ飛竜船でしょ? 陛下ったらよくもまあ、大昔の古代の船を復刻させたわよねえ』
『どこかに攻め入るつもりなんじゃろ』
『え、みんな知らないの? 陛下は、この船の胎の中に母君を入れてるよ』
おかあ、さま?
『え? 母君って毒を盛られて死んだんじゃなかった? なんで飛竜船の中枢に入れてるのよ』
『陛下は死なせないつもりなんだよ。胎の中で凍らせて、眠らせてる』
『大釜、なぜそんなことを知っておる』
『ついこの前まで、僕は陛下の手洗い桶だったからね。金色なのが気に入られてさ。あの人、顔洗う時にぶつぶつつぶやくんだ。あの女が死ぬのは許さないとか、絶対水鏡の寺院へ連れてくとか』
『水鏡の寺院て、なんなの?』
すいきょうの・じいん……
『ああ、水鏡の寺院は、白の導師が生まれるところ。黒の導師が生まれる岩窟の寺院と対なるものじゃ。メニスどもの巣窟で、癒しの白の技が生みだされた場所じゃな。確かにあそこに住む者どもなら、死んだ者を甦らせることができるかもしれん』
『さすが杖じいさん、物知りね。でもこんな要塞船で行くなんて、ずいぶん大仰だわね』
『船の中枢に浮かぶ胎は、癒しの空気に満ちてるんだ。陛下は母君をそこに安置して、完全に死ぬのを食い止めてる。胎には、少々の怪我なんかたちどころに治るぐらいの癒しの水が循環してるんだ』
『へええ。つまりこの船の胎の力がなければ、母君は完全に死んでしまうってことね』
『うん。それに目的の寺院は、きっと敵対してる国の中にあるんだろうね。だから軍を動かして侵攻するつもりなんだろうな』
――『我を目覚めさせるな!』
『うわ? 今の何?』
『スゴイ声ね』
『今のはなんぞ?』
――『我の腹の中で唄っているのはだれだ? なぜ我を起こす?』
ヴ。ヴァ-デ……黒……竜……?
ピ。ぴ。ぴぐぐ。
――『なぜ人間は我に空を飛べと命じる? 眠らせろ。我を眠らせろ!』
『ものすごい精神波じゃな』
『びんびん響いてくるわ。船倉あたりからよ』
『僕、さらに割れそうだよー』
ぴぴぴぴ。ぴ。
ヴァーテ・ゾヴェイ・ヴァーテイン・くろいりゅう・ごきげんようこんにちは
『なんじゃ?』
『あら、喋ったわ』
『剣さん、大丈夫?』
わたし・えくす・かりぶるぬす・のば・へべす・うぇるしおん・とりぶす
――『む? なんだこの機械的な信号は。カリブルヌスだと? もし本物ならば、ここで会ったが百年目……』
ヴァーデ・ゾヴェイ・ヴァーテイン・くろいりゅう
ひゃくねん? いえ・3333ねん3かげつ3にち3じかん3ぷん3びょうぶりです
『な、なにを言っとるんじゃこの剣は』
『ずいぶん年寄りじゃない?』
『ぼ、僕の十倍? ま、まさかもっと?』
――『三千三百年? もうそんなに経つのか』
ヴァーデ・ゾヴェイ・ヴァーテイン・くろいりゅう
血・チ・ち・ロイハド・サングエ・りゅうのちを・われに・
くろき・うろこを・はがして・やりましょう
――『あいかわらずケンカ腰の挨拶だな、カリブルヌス。おまえ、今我を操っている者を知っているか?』
いいえ・かわいそう・くろいりゅう
――『相変わらず使えぬやつめ』
つかえない・わたし
まもれない・わたし
れくりある・のーん
やさしいこ・いいこ
でもわたし・こわれて
まもれない
『ふむ……陛下はレクリアルという者からこの剣を奪ったのか』
『あの人ならやりかねないわね』
『でもすごいね、この轟く声は黒い竜だって? まさか神獣なのかな? そんなすごいものと知りあいだなんて』
まもれない・わたし
あいして・る・のに
――『本当に調子が悪そうだな。戦神の剣よ、残念だがおまえに助けを求めるのは無理のようだ』
『なんじゃと? こ、こやつが? 通りで見覚えがあると思ったが』
『え? 伝説の剣なの?』
『まさか。うちの王宮の宝物庫にいた剣が、本物じゃないの?』
――『人間どもは我をどこへ連れて行こうというのか。また大地に雨を降らせよというのか? 我は眠っていたいのに。難儀なことだ……』
まもりたい・わたし
まもりたい……
「なんだ黒髪、信じぬのか? 本当に導師ダンタルフィタスの杖はここに持って来てあるんだぞ。特別におまえに見せてやる」
『む! 陛下じゃ』
『いやだ、入ってきたわよ。あら、二枚目を引き連れてるわ。顔が半分焼けてて残念だけど』
『いい人そうだね。杖じいさんを見て泣きそうな顔してる。あ。雪豹も一緒だ。あの獣、太陽の第二神官が贈ったんだよ』
『ちょっと、陛下ったらちらちら部屋を物色してるわ。まただれかをオモチャにするつもりよ。みんな気をつけて』
くろかみ? ゆきひょう? スメルニアの・だいこうてい?
「ああ、そこに転がってる杖だ。竜頭の彫りがすごいだろう? 金箔を貼らせたら、へそを曲げてかっかと燃え出したから、へし折ってやったんだ」
「なんてことを……」
「そこの弓も大釜も、由緒あるすごいものだぞ。普段使いにできるのは皇帝の特権だな」
「だが、みなこわれている」
「ふん。物など、いずれ必ず壊れるものだ。ああ、そこにおまえの銀の杖を置いてやったぞ。今はもう朕のものだがな」
「さわらないでくれ。それは……」
それは・くろかみのじゃ・ありません
わがあるじの・です
あしのわるい・れくりあるの
「ずいぶん輝いているな。かなりの魔力が宿っていそうだ」
さわ・るな――
『きゃあ?!』
『な、なんぞ剣が燃え出しよったぞ』
『うわっ熱い! わああ、周りに燃え移ってるよ?』
「なんだ?! くっ……剣が……燃え出しただと? 黒髪……熱い……!」
「陛下、私から離れぬように。まがいもの! やめろ! 炎を出すな!」
さわるな
さわるな!
さわるな!!
それはあのこの
れくりあるの・も・の――!
「熱い……っ! バオ! その杖をくわえて外に出ろ!」
だめ! だめ! ゆきひょう! まって!
それは・れくりあるの――! あ……!
『なんと!』
『雪豹が倒れた?』
『なんかすうっと光の玉が抜けて、剣に吸い込まれたわよ?』
「バオ?! バオが……倒れた!」
「くそ! 結界が効かぬ」
こ・こんとろーる・できな……い!
ゆきひょうの・たましい・わたしの・なか
そんな・また・わたし・しっぱい・してしまっ……
だめ・かんぜんに・のみこんでは・だめ
ああああ!
おさえ・られな・い
もえる・わたし・もえる・わたし・とまらな――
『美味なり生贄! イケニエ! サクリフィキウム!』
え? これ・わたしの・こえじゃ・ない
ああ・これは! おおむかしに・わたしがくらった・あくま
『燃えろ! 燃えろ! 生贄を喰らえ! はははは! ふん? なんだ? なぜここに我が杖がころがっている?』
どうし・だんたるふぃだす!
しょうかできなくて・からだのおくそこに・ふうじこめた・あくま
でてくるなんて・まずい・です・はやく・ふうじこめ・ないと
あ・あ・あ・あ・だめ・でちゃ・だめ――!
(アクラさん!やめて! 起きて!)
――!!!
こえ。声。
我が主の声。
どこに? そこに、いるのですか?
(アクラさん! 目を覚まして! 食べちゃだめ!)
我が主!
レクリアル!
私は……ようやく目覚めました。絶対的な主の声が、私をよみがえらせました。
私は黄金色に輝く宝物庫の中におりました。周囲には武器やら調度品やら装飾品やら、宝箱やら、きらびやかに輝くものがたくさんごちゃごちゃ置いてありました。
私に話しかけてきていた者どもはすぐそばにおり、彼らは一斉に驚きの悲鳴をあげておりました。
『ちょっと見てよ杖じいさん! 雪豹が起き上がったわ! 』
『し、信じられん。何か光の玉が、獣の中に入ったぞ』
『誰かの魂だ! きれいな菫色だったよ』
なんですと? 菫色の魂?
うっ。痛い! だれですか、痛いです。蹴らないで! あ? ああっ?
私は度肝を抜かれました。
起き上がった雪豹が、私を部屋の外に蹴り飛ばしたのです。
しかもその獣の中から、我が主とフィオンの声が響いてきたのでした。
(眼を覚ましてアクラさん!)
『アクラ! なにしてる! しっかりしろ!』
ど、どうして、我が主の魂が獣の中に?!
まるで蹴鞠のボールのように何度も何度も雪豹に蹴られ、私はぐるぐる回転して吹っ飛んで通路を吹っ飛んでいきました。
『アクラ、起きた?』
フィオンさん、こ、これは?
『僕らの体は胎の中で、皇帝の母親のそばにいる。癒やし手なら治してみろって、皇帝が凍えるその部屋に閉じ込めたんだ。仕方なく母親の魂を探しにいこうと体から抜け出したら、船倉にいる黒竜が、君の様子がおかしいって教えてくれたんだよ。だから駆けつけた』
水の覇者ヴァーテインが? そういえば、奴に話しかけた覚えがなんとなくあります。
『ちょうど雪豹の体が空いたんで、レクが無我夢中で入り込んだんだ。君を止めたくてね。びっくりしたよ』
危ない所でした。ダンタルフィタスは極悪非道な導師。
黒竜と共闘して、いったいどれだけの人間を呪い殺したことか。
奴は人の手で生み出された人工魂のバケモノで、生まれ変わっても、魔王となるのは必至の存在。人工の魂なので、他の者とは違って決して変容しないのです。
ゆえに私はずっと奴を体内の奥の奥底に閉じ込めているのですが。
銀足の戦士がやつを倒してから三千年強。よもや奴の杖と再会できるとは、なんと稀有な偶然でしょう。
しかし当時は真っ黒で若々しい杖だったのに、今はヨボヨボのおじいさんなのですね……
「バオ! 剣を浴場へ転がせ! 水の中に入れろ!」
陛下がそう雪豹に命じ、通路をサッと走って浴場の扉を開けました。
雪豹の中に入った我が主は、私を浴場に蹴りこみ、冷たい水が張られた湯船に落としました。
ああああ。さむ……い……こごえ……る……!
膨大な量の蒸気がもうもうと巻き上がり、あたり一面を覆いました。
まっ白い蒸気の中。陛下が、「宝物庫の火はすぐに消える」と黒髪に言うのが聞こえました。
「天井から水が落ちてきていただろう? あれは火の気を感知すると発動する冷却装置だ。あのまましばらく降らせておけば完全に消火される」
よ、よかった……弓姉さんも杖じいさんも割れ釜くんも無事なのですね。
しかし我ながら、だいぶ白熱してしまったようです。立ち込める蒸気のなんとすさまじいこと。
陛下と黒髪は、影の姿しか見えません。
「黒髪……! 黒髪、怖かった」
陛下の影が、黒髪の影にひたっとしがみつきました。
「まだ躯が震えている。抱きしめてくれ……」
なんという甘い声でしょう。
湯船の縁にいた雪豹――我が主が、たちまちひどく哀しい顔をしました。
「黒髪……朕に口づけろ」
「陛下、それは……」
「朕は今、おまえの口づけが欲しい。おまえが欲しい……黒髪……好きだ……好きだ!」
我が主、慄かないで下さい。黒髪は、ちゃんと拒みますよ。
「朕を拒むな……拒んだらおまえの目の前でレクを殺す!」
「陛下……」
「泣き叫ぶあやつを犯しながら下腹を引き裂き、できかけの子宮を引きずり出してやろうぞ!」
我が主、泣かないで下さい。黒髪は、うまくあしらいますよ。大丈――
「あの子に何かすれば、私はあなたを即座に殺す。片目で満足できぬなら、もう一方の目もさしあげよう」
(目……って……?)
雪豹が、ぶるりと震えました。不穏な鳴き声が、牙が生え並ぶ口から漏れました。
獣の中に我が主が入っているとは露知らず、黒髪は手足をやけどしている獣に近づきました。とても無防備に。
「かわいそうに……傷をよく見せてごらん」
白い蒸気が割れ。
雪豹の前に、片目になって無残に焼かれた黒髪の顔が現れました……。
「こわがらなくていい、さあおいで」
黒髪は、氷のように固まってしまった雪豹の頭を優しく撫でました。
(な……に……これ……どう……し……て?)
『片目が……ない?!』
我が主とフィオン。二人の少年が息を呑んだそのとき。
陛下が白い蒸気の向こうから叫びました。
「黒髪! もう一方の目などいらぬ! おまえの顔を焼いて目玉を抉り出すのは、一度で飽きた。 我はおまえのすべてが欲しい! 朕は……朕は、おまえを――」
その瞬間。
雪豹の四肢がはじけるように動きました。
『レク! やめろレク!!』
フィオンが悲鳴をあげ。黒髪がひとつしかない眼を見開きました。
私は水面にごぶりと浮き上がって、その光景を見ました。
怒りに我を忘れた我が主が、哀しい悲鳴をあげて、陛下を一瞬のうちに押し倒すのを。
(許さない……許さない! 許さないっっ!!)
陛下の白い首に、雪豹の牙が食い込みました。
深く。深く。
めきりと、おそろしい音がするまで。




