32話 雪豹の仔と私
ぎいこ、ぎいこと静かに舟が揺れています。
私は今、戦舟の船室の壁にたてかけられています。
毛皮でス巻きにされていて見えないのですが、この舟の船体は銀色のはず。
なぜならこの舟は、あの巫女姫様が乗っている舟だからです。
行き先は、私どもがはじめて鉄の竜を目撃しました浮遊石の採掘場。
実はその奥底に巨大な「黒い竜」が封じられており、これから姫は竜を目覚めさせる儀式に臨むところです。
我が主と黒髪は姫のたっての希望で姫に同行し、瞑想修行の手伝いをしております。
姫は識破シーポゥの言う通り、黒髪に深く心を奪われているご様子。
舟に乗ってからというもの、我が主たちはちょくちょく姫のもとへ呼ばれており、聞こえてくるのは姫に付き従う識破シーポゥのため息ばかり。
我が主が私を背負ってくれましたら、私も姫にお会いすることができましたのに。
黒髪が捨てろ捨てろとしつこく訴えるものですから、私はずっと船室においてけぼり。
雪豹の子がまたぞろ私を枕にして眠っております。
この見張り役のせいで、全然動けません。
なんだかこのまま深窓の姫に一度も会えないのでは、という予感がいたします。
周到な識波シーポゥは巫女姫の船室を結界で護り、外に声が漏れないようにしているのです。
姫の声さえ聞けぬとは、なんとも哀しいことです。
ああそれでも。それでも私は耐えましょう。
なにをないているの?
ねむれないの?
星がみえないの?
なみだにぬれたあなたのまぶた
なみだをそっと手にうけとるわたし
船べりから、うるわしのツヌグさまの歌声が聞こえているからです。
なんという慰め!
竜王にさらわれたあの歌姫にひけをとらぬかわいらしい声音です。
なんと。
ツヌグさまは、巫女姫の世話をする下女に志願して舟に乗ってきたのです。
しかも。
実は我が主を追いかけてきたらしいのです。
確かに我が主はスメルニア軍に襲われたツヌグさまの邑を救い、連れ去られたツヌグさまたちを追いかけて、ついに解放せしめました。
そう、ツヌグさまから見ればまさにかっこいい英雄です。考えてみれば年頃の少女が惚れないはずがありません。
これこそ王道の恋!
しかし。我が主はひどく鈍感でした。
あなたがあいたい人を知っているわ
くものむこうの
ほしのむこうの
ほんものの天のその先に
それは流れているのです
大河となって流れているのです
そこであの人は眠っているのです
この大地にまた生まれるために
私のお腹にやどるために
「不思議な歌だね」
我が主が無邪気にツヌグさまに話しかけています。
二人は甲板にいるようですが、地獄耳の私には二人の声がしっかり聞こえてまいります。
「邑に伝わる恋歌なんよ」
「へえ?」
「親を失って泣く人をなぐさめる歌。お見合いの祭りの時に、女の方がこれはって思う男の人に歌うんだよねえ。昔々、うちの邑にほんとにそういう娘がいたんだろうね。それがずっと伝わってるの」
「あなたの親の生まれ変わりを産んであげますなんて、すごい女性だね」
いや、感心してる場合じゃないですよ我が主。
あなたさりげなく、それを目の前で歌われてるんですよ?
愛の告白ってやつですよ。
ツヌグさまはこのように始終それとなく言い寄っているのですが、我が主はことごとくずれた反応をしておりました。
この見事なかわしぶり、もしかしてわざと気づかぬふりをしているのでしょうか?
『いや、本当に気づいてないよ。今のレクには、トリオンしか見えてない』
フィオンが悲しげに言いました。
『トリオンがいなくなればいいのに。そうしたらツヌグさんがレクを慰めて、力づけてくれるだろうな。そうなればいいのに……』
ここ数日泣き臥せっているフィオンの声はとても暗く、哀しみを帯びておりました。
彼も理解しているのでしょう。
我が主の心はいまや黒髪一色。黒髪も本気。つまり二人は相思相愛だということを。
でも、認めたくないのです。
そして私も認めたくない……のですが。
夜な夜な黒髪に深く愛される我が主の幸せそうな気配を聞きますと、二人を黙認しなければいけないのだろうかと思ってしまうのでした。
――「うにゃあ」
私をおさえている雪豹の仔が大きくあくびをしました。
体の向きを変えてずんと私に寄りかかってきます。
ああ、なんという体たらく。
その昔漬物石にされた時代もありましたが、獣の枕になるなんて負けず劣らずの情けない事態です。
アッタカイ
豹の仔がむにゃむにゃつぶやきました。
暖かい? ……そうかもしれません。
今の私は哀しみと混乱のあまり、かっかとその刀身を赤く光らせておりますからね。
ヌクヌク。ダイスキ。
ちょっと。何を言ってるんですか。
ごろごろ喉を鳴らすのは止めなさい。顔をスリスリしたって何も出ませんよ?
あなた豹でしょう? 完全にただのネコになってますよ?
ほらほら、寝てばっかりじゃいけません。
もっとこわそうに唸ってみなさい。牙を出して、あの獰猛な紅獅子のように。
クレナイジシ?
西の砂漠に住む獅子ですよ。真っ赤なたてがみでとても強いのです。
我が主人のひとりが、かつてそいつに襲われたことがあります。
二十一代目の主人で、あれは砂漠を渡る隊商を護衛している最中でした。
なんとか退治しましたが、非常に若かった主人はまだ私をうまく扱えず、片足を食いちぎられてしまったのです。
銀の義足をつけた主人は後に「銀足の戦士」と呼ばれる大英雄となりましたが、紅獅子をずっと目の仇にいたしておりました。
砂漠に赴くことがあれば、サバンナにひそむ獅子をわざわざ探しに出かけてまで狩りをしたぐらいです。
しかしある時。銀足の戦士は砂漠を横断中に空賊に襲われて、私と離れ離れになってしまいました。賊の旗艦の高速波動砲で、互いに遠くに吹きとばされてしまったのです。
私は必死に銀足の戦士を探しました。
砂漠には獅子だけでなく危険な生き物がたくさんおります。
サソリにバジリスク。砂虫に渇き蛙。
突然砂漠の底から噴出する暗黒の瘴気。底なしの流砂。
私無しで主人は大丈夫なのかと、大変心配いたしました。
離れ離れになって三日後にようやく、銀足の戦士の精神波をたどった私は彼を見つけだしました。
戦士は砂漠にぽっかりあいた穴に落ちており、埋もれた遺跡の中にさまよいこんでおりました。
なんと……怪我をした紅獅子の仔と一緒に。
それは奇跡の光景でした。
一人と一匹は柱に寄りかかり、寄り添い合って眠っておりました……。
ナカヨシ?
ええ。信じられぬことに、戦士は獅子の仔と仲良しになっていました。
獅子の仔は遺跡に落ちて気絶した戦士の頬を舐めて起こし、水場へ案内してくれ、冷え込む夜には擦り寄ってきて暖めてくれたのだそうです。
戦士はそれからその獅子の仔を飼いはじめ、その獣は我々のたのもしい仲間に……。
あれ? 私、獅子は大変怖いものだと話そうとしましたのに。
なぜこんな思い出話を……
オナジダネ。ヌクヌク。
そう……ですね。戦士とあの獅子の仔は、今の私たちのようでしたよ。
互いに寄りかかって、幸せそうな顔でぬくもりを感じておりました。
い……いやいや、それではだめですよ。
あなたはもっと雄雄しくならなければ。故郷に戻って立派な雪豹におなりなさい。できれば人目につかぬところで生きるのです。
でないと、あの獅子の仔みたいにいずれ主人をかばって……
あれ……私、なんでこんなことを豹の仔に。
ヌクヌク。
そうですね。豹の仔が暖かいせいでしょうか。
いいぬくもりです。私、うとうとしてきました……あふ……。
――「火山が近づいてきたな。レクルー、その剣を火口に投げ込むべきだ」
心地良いまどろみが苦々しい声で覚めました。
雪豹の仔がいなくなっています。甲板に遊びにいったようです。
その甲板で黒髪がしつこく我が主に訴えています。私を早く処分しろと。
なぜあやつは、私のことを全く理解してくれないのでしょう。
私は我が主のために万事を成しているというのに。
むかついた私は我が主に訴えました。
大体私は、黒髪が命令したことだけしか実行しておりませんと。
しかし我が主はろくに聞いてくれず、黒髪と一緒に姫の船室に行ってしまいました。
雪豹の仔がちょこちょこついていって、船室の前で寝そべる気配がいたしました。
『我が主! 聞いてください我が主!』
私が必死に食い下がりますと。我が主はようやく渋々、私の言い分を聞いてくれました。
(レナンがアクラさんに命令したことって何? アクラさんがレナンを主人としていた時にやったことを、隠さないで全部教えてくれる?)
私は我が主の命令通り、正直に答えました。
『私めが黒髪のためにいたしましたことは。丸木舟で発熱しまして、懐炉の代わりに二人の人間とけだものを暖めてやったことと。こうるさいロンティエを追い払おうとしたことと。我がまことの主キュクリナスのレクルーが、キュクリナスめにどんな目にあわされたかを詳細に説明したことで――』
(え……? キュクリナスって……どんな目にあったかって……それ……)
私は、主人の命令にそむけません。
忠実で誠実な私はただ、命令に従うのみ。
主人となった黒髪の望みを叶えるしかなかったのです。
あやつは我が主の声で私に命じました。レクルーを虐げた奴を教えろと。
ですから私はそやつの名を、そやつが一体何をしたかを、無理やり言わされたのです。
我が主が夜な夜な、キュクリナスに手ひどく――。
(僕がどんな目にあったかなんて……レナンに詳しく説明する必要なんてないよ!)
突然我が主の精神波は取り乱し、ひどく怒り始めました。
(レナンをひどく傷つけるような内容だって分かってたはずだ! なのに何でそんなことを教えたの?)
どうか怒らないで下さい我が主。
黒髪は覚悟して、知ることを望んだのです。
(でもそれでレナンは傷ついて……追い詰められたんだ。だからなりふり構わず、僕を守ろうとしてるんだ……! レナンになんてひどいことをしたの? 今のレナンはきっと人殺しだって平気でやる。僕を護るためなら……きっとなんでもしてしまう!)
我が主。なぜそんなに怒るのですか。理解不能です。
(解らないなんて嘘だ! もとは人間だっていってたじゃない!)
もとは、です。今は、違います。
――『アクラ、レクに教えるべきじゃなかったんだ。トリオンがキュクリナスのことを無理やり聞き出したなんて』
フィオンの声が冷たく割り込んできました。
『バカ正直に全部答えないで、そのことは黙っていればよかったんだ。レクは、知られたくなかったんだよ。自分がひどく汚された子だって、好きな人に知って欲しくなかったんだ』
……!
そ、そんな。
我が主が前におのれに価値がないと泣いていたのは、それを気にしていたと?
で、でも私は、そういうものなのです。
主人の命令にはそむけないのです!
『かわいそうなアクラ。結局は物。融通がきかないんだね』
物……
そうです。私は主人の命令をきくだけの、ただの道具。
そのときの主人の命令には背けません。
たとえそれが、主人を傷つけるものになってしまっても。
言うことを聞くことしかできません。
できません。
できませ……
ドウシタノ?
う? これは……雪豹の仔の精神波?
フルエテルノ? ナイテルノ?
泣く?
いいえ。私には目がありません。
はるか昔に、涙を流せるものは失ってしまったのです。
一万と、二千年前に。
でも。
フルエテルヨ?
雪豹の仔が心配げに私を伺っています。
巫女姫の船室の前にいて離れているのに。
まさかこの仔は、私の声が聞こえるのでしょうか。
獣だというのに我が主たちと同じ素質があるというのでしょうか。
ダイジョウブ?
ええ、私は物ですから。嫌われても、大丈夫です。少しも悲しくなんか……
私が豹の仔の言葉に思わずほろりとなったそのとき。
ぐわんと、舟が大きく揺れました。
ここは北の海の只中。座礁したのではなさそうです。
揺れが来た直後、海からぞわぞわと何かが這い登ってくる気配がいたしました。
廊下で雪豹の仔がうーうーと唸りだしました。
ナンカキタ! ナンカキタ!
それは近寄る気配だけでもおどろおどろしいものでした。
あきらかに海を渡って何かが舟を襲ってきていました。
黒イ! 黒イ!
豹の仔がしゃーしゃー警戒の声をあげました。
我が主は?
瞑想の修行で魂だけが外に出ておりましたが、今は黒髪に呼び戻されて巫女姫の船室にいます。識破シーポゥも姫も、その一番奥の船室にいます。
来ル! 来ル!
ツヌグさまは?
甲板から、兵士や女性の悲鳴が次々とあがりました。
人々が倒れこむ音。迎え撃っている兵士たちの鎧の音。
船べりから這い登ってきたおぞましい気配が甲板にいる人々をなぎ倒したと思いきや。
ほどなくずん、ずん、とたくさんの足音がそろいだして船室へと向かってきました。
この波動は……どうやら、兵士たちや下女たちの体が乗っ取られて操られているようです。
それに加え、おどろおどろしい波動が姫のおわす船室へと怒涛のように流れていっています。
「なんだこの影は!」
黒髪が韻律を行使する気配がしました。
「呪い走りのようです」
識破が苦々しげに答え、これも魔力全開の気配を放ちはじめました。
「おそらく太陽の第二神官が術を使って姫を奪いにきたのです。目覚めさせた竜を戦に使うために」
「それはあなた方がやろうとしていることではないのか?」
「いえ。我々第一神官の一族は今上陛下の意に背くつもりで、竜を別の所へ封印しなおすつもりでした……戦になど、使わせぬようにするために」
やはり識破シーポゥは真面目で良識のある者でした。
神獣たる黒き竜などを戦に使おうものなら、たしかに大地は荒れるどころではありません。賢い判断です。
しかし愚かな者が姫を奪って愚行を成すつもりでいるようです。
来ルナ! 来ルナ! 黒イ! 黒イ波!
雪豹の仔が姫の船室の前でしきりに唸っています。
姫の船室の前に陣取って、おそろしい波の気配を食い止めようとしています。
待ちなさい! あなたまだ子供でしょう。操られた兵士たちが来ますよ。
もうどきなさい。そんなにがんばったら。がんばったら――。
ぎゃん!
獣の悲鳴が……聞こえました。
小さな体が船室の扉にたたきつけられる音がしました。
ぐしゃりとつぶれる、恐ろしい音が。
ああ……ああ……だから言ったのに。
なぜ、人間についてきたのですか。
なぜ、ひっそり人目のつかぬところで生きなかったのですか。
――守ル……守ル……
何を言ってるんですか。あなたはもう動けないでしょうに……。
おそろしい音をたてて姫の船室に張られた結界が割れました。
襲いくる妖かしの波動は、黒髪たちの魔力をもってしても抗いきれぬものでした。
操られている兵士たちが姫の船室に迫り。扉を破って群れをなして入ろうとしました。
我が主の中にいるフィオンがついに私を呼びました。
『アクラ! 大変だ! 兵士たちが操られて部屋に入ってきてる!』
『わかっております。どうか食わせなさい、私に!』
操りの波動を喰らえば、兵士たちは元に戻るでしょう。
私は我が主に訴えましたが。
(アクラさんなんかいなくても!)
怒っている主は頑なに私を呼ばず、なけなしのおのが魔力でなんとか黒い妖かしの波を消そうとしておりました。
『アクラ! 動け!』
見かねたフィオンが叫んできました。
『自分の意志で動け! 命令を待つな!』
でも私は。私は、人に使われる物で……道具で……
――守ル。守ル!
雪豹の仔の気配がすぐそばにやってきました。
もう体は動いていません。
でもその魂が抜け出し、必死に鳴いて私を呼びにきておりました。
――守リタイ!
なぜ、そんなにまでして?
――好キダカラ! 守ッテ! オネガイ守ッテ!
好き……。
ええ。私も好きです。我が主が好きです。だから我が主人としたのです。
主人の命令は絶対です。おまえを使わぬといわれれば、それで私はびくとも動けなくなるのです。でも。でも――。
――守ッテ!
遠い昔。主人をかばって死んだ獅子の仔がおりました。
その仔は私の目の前で、とある神獣が放った水弾に穿たれて死にました。
四肢を踏ん張り。必死に鳴きながら。
守ッテ
「レナ……レナ! きゃあああ!!」
今の悲鳴は、我が主?!
次の瞬間。
私はぶわっと燃えました。刃を真っ赤に燃え上がらせました。
毛皮が一瞬で焼け落ちるほど、私は熱く熱く輝きました。
『う……うううううう! うあああああ!』
真っ赤な我が怒りと哀しみは、閉じられた扉の隙間から漏れ出していきました。
まるで怒涛の急流のように。




