31話 揺さぶられる私
紫の衣の識波。
私は彼がわざと嘘を述べ立てていったのではと疑いました。
しかし。
『ツヌグに会えたよ』
二十四時間の定時報告の折、我が主が伝えてくださった内容は、ほぼ識波が語っていった通りでした。
『ひとりご飯を食べないでスメルニア軍に抵抗してたけど、なんとか食べてくれるようになった。カイザリオンさまはレナンが救いだして、今はツヌグのお姉さんの所に一緒にいる。連れ去られたトォヤ族の人たちも、元気でいる。今はみんな薬草とったり薬を作る手伝いをしてくれてるよ』
ああ、できますれば。
私自身がうるわしのツヌグさまを直接お救いしたかったものです。
しかし私がいなくともあの方をちゃんと救出したとは、さすが我が主です。
あの方を選んだ私の目に狂いはなかったのです……。
不思議なことに紫の衣の識波は、それからも毎日決まった時間に倉庫にやってまいりました。
彼は賢き剣よと呼んできて、丁寧に、しかも親しげに話しかけてきました。
外の状況を語り、さんざん私をおだてあげたあと。
彼はさりげなく聞いてくるのでした。
――「あの癒やし手夫婦は、いったい何者なのです?」
それで私は悟りました。
彼がここに来ますのは、我が主たちの正体を私との語らいから探りだすためだと。
そして彼には、ここに来るもうひとつの理由がありました。
銀のキセルで蒼い煙を出すものを吸うこと――。
キセルの中身は、アズルと呼ばれる薬。
これは魔力を高める薬で、白い煙を出すヘロム鉱石よりもはるかに強力な作用を及ぼします。
『なぜそれを吸うのです? それはとてもきつい薬でしょう?』
私がさも心配しているように聞きますと、銀の瞳の人は思いつめた顔で申したものです。
「これは密売されているもの。姫のおわす舟で公然と吸うわけにはまいりません。しかし今の私にはこれはどうしても必要です」
『と言われますと?』
「姫を守るためには、あなたの主人を上回る魔力が必要です。どうかすれば、あなたの主人を倒さねばならぬかもしれませんからね」
アズルの副作用はヘロムの比ではありません。
たとえ短期間でも確実に体をこわします。
我が身を削ってまで姫を守ろうとするとは、なんとけなげな男なのでしょう。
『我が主はお優しい方ですよ。きっとあなた様方のよいお味方になります』
「そうであって欲しいものです。お倒れになった姫はだいぶご体調がよくなられ、今は癒やし手夫婦から瞑想の技を習っておいでです。姫はとくに、水晶玉の中にいた者に夢中です。癒やし手の夫君だという、黒い髪のあの男に……。賢い剣よ、あの男は本当は何者なのですか?」
黒髪が水晶玉の中にいた者ですって?
いえいえ、水晶玉に囚われていたのは実は我が主、鳶色の髪の少年の方ですよ。
私は何度訂正しようとしたかしれません。
識波はこのようにさりげなく何度も探ってまいりました。
しかしそのたび私はぐっとこらえました。
銀の瞳が、常に鋭く私を探っておりました。
えぐってくるようなあの眼力。
それはとてもおそろしく。
とてもまっすぐで真摯なものでした。
黒髪は我が主を「奇跡を起こす癒やし手」に仕立てて、周囲から完璧に守っておりました。
水晶玉の中にいた者をおのれ自身としたのも、その一環。
巫女姫の淡い恋心が我が主に届かぬよう、おのれを盾としているのでしょう。
悪賢いあやつのことです。ツヌグさまもそれとなく近づけぬようにしているかもしれません。
メニスの甘露の効果が、奴を狂ったように突き動かしているのです。
おそろしいことです。
しかし我が主は不才です。韻律を行使することはほとんどできぬ身。
もし我が主が本当の癒やし手ではないと知れたら……。
識破はあっという間に我が主を御して人質にして、形勢を逆転させるでしょう。
我が主を守るためには、黒髪の策に乗るしかありません。
そこで私は答えたものです。
『ご心配には及びません。あの黒髪には、我が主しか見えておりません。あの男はかつて我が主に命を救われ改心いたし、我が主に韻律の技を仕込まれたのでございます。元はごろつき同然でしたが、今は大変立派な我が主の役に立ちたいと、助手をしております次第で』
黒髪をけなしているように聞こえる? いえいえ、それは気のせいです。
「あの黒髪の男は託宣と称して師である癒し手をここに呼び寄せ、水晶玉から助け出させた。やはりそうおっしゃるわけですか?」
『そうですそうです。実はそうなんです。本当に黒髪は、うかつな男です』
銀の瞳の人はとても疑わしい目つきをするのですが、私がごまかすように風乗りの歌を飄々と歌いだしますと、渋々引き下がって倉庫から出て行くのでした。
しかし。
必死に姫を守ろうとする識破は何と真面目で一途なのでしょう。
彼のために、私はまだ見ぬ巫女姫を我が主に娶わせることはすまいと決めました。
影ながら応援したくなるほど、あの男の精神波はとてもまっすぐで真摯で揺るぎ無いものでありました。
ほれぼれするほどに。
倉庫に入れられていかほどたったでありましょうか。
その日もやって来た識波の探りをのらりくらりとかわし、目を持たぬくせに遠い目をしている心地でおりましたとき。
突然、スメルニアの兵士が二人、どかどかと倉庫に入ってまいりました。
「どれだ」
「それだ」
「これか?」
「いやその右のやつ」
「こいつか!」
「それとこいつだ」
私はいきなり兵士に抱えられました。
もうひとりの兵士はトォヤ族の銛をひっつかみました。
私たちはあれよあれよという間に、太陽の神官がいる大きな天幕へと運ばれました。
これはまさか? おお、やはり!
天幕の中には太陽の神官陽睛ヤンジン、そして懐かしい我が主と黒髪の姿がありました。
陽睛ヤンジンは我が主に白い衣を、黒髪には黒い衣を授け、うやうやしく我が主を軍医として迎えると宣言いたしました。
そして兵を救った感謝と信頼の証として、私とトォヤ族の銛をわが主に返しました!
ああやっと! やっと!! わが主の元へ戻れましたー!!!
感激する私を、わが主はおだやかな精神波で迎えてくれました。
(アクラさん、おかえり)
『それで! 契約の! 更新は!』
(手元に戻ってきたし……レナンがいいって言うなら、君の主に戻る)
戻ってくださいお願いします! 黒髪がいいって言わなくてもお願いしますううううう!!
(仕方ないな……いいよ)
よっしゃああああああ!
「ちっ……」
黒髪が舌打ちしましたが、そんなの無視! 無視!!
しかし我が主、スメルニアの白い衣といえば、太陽の神官に次ぐ、月の神官に与えられるもの。紫の衣の元老院議員よりも上の位ではないですか。
すごいですよ!
「レクルー、さっそく天幕へ戻って着替えよう」
「う、うん」
おや? 黒髪の様子が、なんだか変です。
我が主に体を支えられており、目を閉じております。
なんだか体の動きがとてもぎこちない感じです。
もしや、長い仮死状態から覚めた体に後遺症が残ったのでしょうか?
考えてみればこやつも姫を守ろうとする識破のように、とても一途な行動に出ています。
なりふり構わず、我が主を守っているのです。
なんとけなげな……
……はっ。
いけないいけない。
黒髪は我が主の甘露に魅惑されているだけ。
本当には愛してなどいないはず。
うう、しっかりしなさい私!
「癒やし手夫婦」に与えられた小さな天幕は、熱を出す灯り球のおかげでとても暖かでした。
灯り球の前には、雪豹の仔がのんびり幸せそうに寝そべっております。
丸い座布がいくつも置いてあり、寝転がるととても気持ちよさそうです。
「レクルー、いただいた衣を着よう」
「あとでにします。レナン、早く巫女姫様の修行の手伝いにいかないと」
「む……」
我が主は黒髪を引っ張って急いで天幕を出て行きました。
待ってください。私も巫女姫様にお会いしたいです。連れてってくださいよー。
私は後を追おうとずるずる動きだしました。
そのとたん。
「うにゃー」
『うああああ!』
桃色の肉球が私を襲ってまいりました。
雪豹の仔の前足で、私はびったんとその場に押さえつけられてしまいました。
主人のもとへ行かせろという我が訴えなど、賢い獣は知らんふりです。
のんびりあくびをかまし、ごろごろ喉を鳴らすばかり。
しかもすりすり顔をなすりつけてきます。
おやめなさい。くすぐったいです。こら、そんなにべったり……
オカエリ
え。
今なにか空耳が……。
ち、ちょっと重いですよ。私を枕にして寝ないで下さい。
アイタカッタ
まさか雪豹の仔? あなたが言ってるんですか?
な、なに言ってるんですか。そんなごろごろ喉を鳴らして。
ちょ、ちょっと。ニクスさん、どいてくださ――。
ごろごろと喉を鳴らす音が聞こえます。
あたたかいのですが、ずっしり重たいです。
雪豹の仔は一向に頭をどかしてくれません。
私を枕にしてずうっと惰眠を貪っております。
「うにゃー」
寝ぼけているのですか?
また今日も、私はあなたの枕で一日を終えるのですか?
あれからというもの、私は雪豹の枕と化してしまっておいてけぼり。
そして我が主は、ずっと白い衣を着ることを躊躇して毛皮の服のままでおりました。
本物の癒やし手は黒髪です。奴よりも高位の色を着ることはできないと思ったのでしょう。
黒髪が「衣を着よう」と催促するのをごまかしながら、いそいそと兵士の治療や巫女姫様の修行の手伝いに出ていってしまいます。
私もついていってツヌグさまや巫女姫様にお会いしたいのに、全然身動きできません。
そして夜となれば……
『あのう……我が主』
(ん……なに?)
『なーんにも、見えないです』
(そ、それでいいんだよ)
『でもこれは、我が主の毛皮の服ですか? くすぐったいです。とってください』
(ご、ごめん、はずかしいからだめ! 我慢して)
「レクルー、おいで」
「ん……」
「ここ、どうかな」
「ん……すごく……いい……」
「ここは?」
「あっ……」
私……毛皮をとられなくても二人が何をしているかよーく分かっておりました。
黒髪は「夫婦なんだから当然だ」とぬかしてやりたい放題。
でも毎晩なんて勘弁して下さいよう。
フィオンの反応がないんです。
不気味なぐらいだんまりなんです。
怖いです私。
あの子、きっとすごく泣いてます……
『やめてください。お願いしますやめてください。せめて三日に一度にしてください』
「黙れ!」
ある夜、たまらずに私が訴えますと。
黒髪は烈火のごとく怒って、我が主の毛皮の服で私をすまきにしてしまいました。
私を廃棄処分にするようにと、我が主を説得しはじめる始末でした。
しかも毛皮の服を使われてしまった我が主は、ついに白い衣を着なければならなくなってしまいました。
「黒い衣だっておそれ多くて……無理です」
うろたえる我が主に、黒髪は懇願しました。
「頼むから白き衣をまとってくれ。その身分にふさわしく」
「身分って……本当の癒し手はあなたじゃないですか!」
黒髪は優しい声で我が主を諭しました。
「私が君を守ってやるだけではどうしても限界がある。君自身が人から畏れられ、一目置かれるのが最大の防御になると思った。だから君自身を癒し手にしたんだ」
黒髪の声が震えています。
「もう二度と、誰にも触れさせない……」
泣いているのでしょうか。
「君を守る。どんな手を使ってでも」
「レナン……」
「愛してる。君を愛してる……甘露なんかのせいじゃない」
黒髪は言いました。涙混じりの、震える声で。
「君を本当に愛しているんだ。愛しい子……」
その夜ふけ。
黒髪が眠ったあと。
毛皮にくるまれて何も見えない私は、我が主がひそかにすすり泣いているのに気づきました。
(レナン……ごめんなさい……)
我が主は、ひと晩中泣いておりました。
(僕は不才で……役立たずで……体は……汚れきってる……。僕、あなたに守ってもらう価値なんかないのに……僕のせいでレナンはまだ目もろくに見えない……歩くのもやっと……)
ずっとずっと、声を押し殺して泣いておりました。
黒髪に気づかれないように。
(なのに僕……すごく嬉しいって思ってる……守ってもらって幸せだって思ってる……あなたのこと愛してる……そんな資格ないのに……ごめんなさい……ごめんなさい……ゆるして……愛してる……愛してる……)
――『うそだ。トリオンがほんとにレクを愛してるなんて』
我が主の精神波の裏側から。
かすかな呻き声が聞こえてきました。
『信じない、そんなこと……』
その声も、すすり泣いておりました。
『僕のレク……僕のレク……トリオンの言うことなんか聞かないで……』
フィオンさん……!
二つのすすり泣きはそれからずっと、夜が明けるまで聞こえておりました。
まるで昼と夜。光と闇。ソプラノとアルト。
二つの声の合唱のように。
私は揺れました。
ぐらぐら揺れました。
なぜなら。
識破が巫女姫様のことを語る時と。
黒髪が我が主に「愛している」と訴えた時の精神波が、とても似かよっていたからです。
とても強く。暖かく。
真摯でまっすぐな精神波――。
もしかして黒髪は本当に……我が主のことを想っているというのでしょうか?
黒髪の意志は、メニスのおそろしい血の力を凌駕するというのでしょうか?
まさかそんな……。
ありえません。信じられません……
(レナン……愛してる……)
『レク……僕のレク……』
我が主とフィオン。
二人のすすり泣きを聞きながら。
私は揺れました。
ぐらぐら揺れました。
私は。どうしたらよいのでしょう。
このまま我が主の望みを無視して、フィオンと私の望みをかなえるべくまい進していいのでしょうか?
我が主が望むのは……?
我が主は……
我が主は……
黒髪を愛しています。
黒髪は……
黒髪は……
おそらく本当に、我が主を愛しています。
二人の未来がたとえ黒髪の夢の通りになるとしても。
それはまだまだ先。遠い未来のことでしょう。
我が主の内にあるフィオンは?
フィオンは……黒髪を嫌っています。
私も、黒髪を嫌っています。大嫌いです。
でも私は。
私は……
私は……
主人の望みをかなえるもの。
たとえそれが悪しき結果となろうとも。
私はこれまで、主人の望みをすべて叶えてまいりました。
一万と、二千年。それが誇りと生きてまいりました。
私は。
どうするべき。
なのでしょうか。
わかりません。
わかりません。
わかりません……




