26話 鬼畜な私
『トリオンはメニスの甘露に惑わされている? うん。それは間違いないだろうね』
私の言葉に、フィオンはすぐさま同意しました。
そんなことは、百も承知だというように。
『トリオンがレクに夢中になりだしたのは、ほんの数ヶ月前からだよ。それまで二人はほとんど接点がなかったし、ろくに会話したこともなかった』
我が主の瞳がうっすら開きました。起きたのではありません。フィオンが動かしたのです。彼は嫌悪の表情で、我が主の体に巻きついているトリオンの腕をそっと外しました。
トリオンは一瞬ぴくりと体を動かしましたが、相当疲れているのでしょう、すぐにまどろみの中へ戻っていきました。甘い囁きの寝言とともに。
「私のレクルー……」
フィオンは我が主の菫色の瞳でトリオンを睨みつけました。その冷たい憎悪のまなざしに、私はざわりといたしました。
『レクのこと、何も知らないくせに』
フィオンの精神波はもどかしい怒りを帯び、まるで鋭い棘のように私に突き刺さってきました。
『僕は、レクのすべてを知ってる。レクと一心同体になった時、この子の記憶が、僕の中に全部流れ込んできたんだもの。レクは今までほんとに、ひどい目に遭ってきた。自殺するのも当然だ。大事な人を奪われて。何度も人に裏切られて。殺されたんだから……』
私はびっくりいたしました。
『殺された?』
すると我が主の菫の瞳に、みるまに涙がたまりました。
『レクは孤児院から直接、寺院に来たんじゃない。殺されたあと、神殿に売られた。そこで解体されるすんでのところで、息を吹き返した。神殿の人たちは恐れおののいて、得体の知れない子を導師たちに処理してもらおうと、寺院に押し付けたんだよ』
メニスの一族の体は、不老不死の秘薬になるといわれています。
巷ではメニスの子を狩り、高値で売買する闇取引が確かに存在します。
フィオンによれば、我が主はその犠牲になったというのでした。
『我が主は、一体だれに殺されたのです?』
『ごめんアクラ、これ以上は話せないよ……』
フィオンが動かす我が主の顔はいまやとても辛そうに歪んでおり、唇もかすかにわなないていました。我が主の忌まわしい記憶が、まるで自分が経験したことのように彼の心中によぎっているのでしょう。
『これ以上記憶の蓋を開けたくない。本当にひどくて、痛くて、哀しい記憶だから。また思い出したら、レクも僕も、ただじゃすまない……』
『記憶の蓋ですと?』
『僕の意識は、レクの記憶をすっぽりくるんでいる。レクが過去を思い出せないようにね。そうしないと、この子は辛い記憶を何度も何度も思い起こして、きっとまた自殺してしまう。寺院に来たあの日、泣き叫びながらお師匠様の目の前でしたように……自分の胸に刃を突き立ててしまう』
涙に濡れた怒りのまなざしが、眠る黒髪の男を刺しました。
『なのにこの人は……レクを守ってる僕を吹き飛ばそうとするんだ。僕はいらない、記憶を封じるなんて余計なことをするなって。レクのためにしてるんだって何度言っても、解ってくれないんだ』
トリオンは我が主と再会するなり、表に出てきたフィオンを強引に意識の底に追いやりました。あれが「吹き飛ばす」ということなのでしょう。
『トリオンにとって、僕はすごく不都合な存在。どうしても消したい存在なんだ。昔お遊びで手篭めにした子なんて……邪魔もの以外の何ものでもないよね』
『なっ……手篭めですと?!』
以前、トリオンにひどい目に遭わされたと告白されましたが。
フィオンは改めて己のことを詳しく語ってくれました。
菫の瞳をしとどに濡らしながら、トリオンとの忌まわしい過去を――。
『僕は……不才だった。お師匠様はあきらめずに講義してくれたけれど、全然だめで。それでひどく思いつめて、救護室に入り浸るようになった。
あるとき偶然、仮病がトリオンにばれた。トリオンはそこにつけこんで、口優しく近づいてきて、大事な恋人にするみたいな口づけをしてきた。僕の体がお師匠様の聖なる印で守られてるのを知ると、鍾乳洞で珍しいものを見せてあげるって誘ってきて……特殊な鉱脈のあるところで、聖なる印の力を無効にした。そして僕を無理やり……』
フィオンは泣きながら師のもとに逃げ帰りました。
師である最長老レヴェラトールは、トリオンに厳しい制裁を下したそうです。
半年間の謹慎と。それから……
『機会があったらこの人の胸を見てみるといい。お師匠様が焼いた跡が、まだくっきり残ってるよ』
私はとても不安になりました。
フィオンの話が真実ならば、もとからして犯罪者のような奴が、甘露で魅惑されていることになります。まさにサイアクの状況ではないですか。
『僕はその後、トリオンとはひと言も言葉を交わさなかった。ほどなく僕は病にかかって死んだけれど、お師匠様は、ひと月たたぬうちに僕をよみがえらせてくれた。レクに僕の魂と心臓を入れる、という形でね』
我が主はフィオンの記憶の蓋に守られ、すっかり生まれ変わったようになって三年ほど平穏に暮らしたそうです。
しかしその平和は、ある日突然終わってしまいました。
最長老が所用で寺院を出て、トリオンが我が主の代理の師になった時に。
『トリオンはレクの言動から、たちどころに僕の存在に気づいた。ひどく怒り狂って、全力で僕を消そうとした。僕を襲った場所で、レクに同じことをしたんだ。そうすれば、僕が嫌がって離れてしまうと踏んだんだろう。こんな転生のやり方は間違ってるとか、正気の沙汰じゃないとか、正義面してお師匠様を呪いまくってたけど……僕には、この人こそ狂ってて、うしろめたい過去を消したがってるとしか思えなかった』
憎悪うずまく菫の瞳の中に、ふと、かすかな哀しみの色が見てとれました。
もしかしたら。フィオンの中にはかつてほんの少しだけ、トリオンを想う気持ちがあったのかもしれません。しかし瞳の中のその哀しみは、一瞬のうちに憤りと憎悪の中に吸い込まれていきました。
『僕はなんとか踏みとどまった。だって僕が消えたら、一体誰がレクを守る? 人を手篭めにするような奴に、僕の大事なレクを託すことなんてできない。僕には信じられない。この人が今、レクを心から愛してるなんて……。甘露のせいだよ。そうに決まってる』
『フィオンさん、このままですと、我が主は大変な目に遭うことでしょう』
キュクリナスは我が主を自室にずっと監禁し、足の腱を切るほどのひどい執着ぶりを見せました。あれを鑑みれば、十中八九この黒髪のこやつも、あの導師のようにどんどんおかしくなっていくに違いありません。
『うん。この人が相手じゃ、きっと足を切られるどころじゃなくなる。レクは息ができないほどがんじがらめにされるだろうね。でもレク本人は今、トリオンをすごく気に入ってる。だからどんな仕打ちを受けても、けなげに耐えようとするだろう……』
でも、これからどうなるかわかりませんよ?
黒髪のケダモノは、まだ完全勝利したわけではありません。
我が主には、「山のパパ」という永遠の存在がいるではないですか。
私はそう励ましましたが。フィオンは悲観して首を横に振りました。
『生きている奴には敵わない。新しい思い出をいくつも重ねられるもの』
それは山のパパだけではなく、体を持たぬ自分へ向けた言葉でもあったかもしれません。
フィオンはそれから長いこと、我が主の腕で我が主の体をきつくきつく、抱きしめておりました。まるで自分の腕で、このやせっぽちの子を抱きしめるように。
そして囁きました。誰にも聞こえないような、小さな小さな精神波で。
『僕のレク……君をずっと守りたい……』
我が主を守りたい――。
フィオンの切なる望みに、私は全面的に協力することにいたしました。
それはこの私の望みでもあったからです。
そして願わくば、我が主が囚われの姫を救い、その姫とまっとうな恋に落ちてくれれば……あのツヌグさまとよろしい仲になってくれれば、この物語は大団円! ではありませんか。英雄たるもの、やはりお話の結末は、ヒロインとゴールインするのが王道でありましょう。
『ツヌグさんはきらいじゃない。レクの相手にいいんじゃないかな。あ、言っておくけど、彼女の裸を見たせいじゃないからね?』
フィオンも、私のハッピーエンド計画にまんざらではありませんでした。
とにかく我が主とケダモノを引き離すこと。これに尽きます。
私はただちに攻撃をして、我が敵を物理的に排除したかったのですが。相手は我が必殺技すらはねかえすバケモノ級の導師ゆえ、それは不可能でした。
我が主は足が不自由ですので、フィオンが我が主の体を操って逃げおおせることも無理でした。しかして我々は、意外なところから強力な援護を受けました。
なんと黒髪のケダモノ本人からです。
やつは周到にも、我が主にある魔法をかけていたのです。
「温泉で身を清めた時に気づいたんだが……君を守るためにかけた接触結界の魔法が消えているね。誰かに無理やり剥がされたんだな。おそらく泉に沈められて私の魔力がひどく落ちた時に……」
そう、貞操を守る魔法です。これはまさしく、甘露由来の狂気のなせる技でしょう。
私が初めて我が主に出会いました時、しつこく言い寄ってきたキュクリナスを撃退した放電の魔法こそが、まさしくそれでありました。それはトリオンが処刑された時に急激に弱まって、キュクリナスにあえなく剥がされてしまったものでした。
自分が処刑されたあと、愛する子が一体どんな目に遭ったのか。
察しのよいトリオンは、我が主の表情や言葉尻から、かなり正確に事態を把握してしまいました。そしてついに。
「君を守りきれなくてすまない」
ぼろぼろ涙をこぼして詫びてきました。
目の前で愛する人に泣かれるなんて、これ以上破壊力のある責められ方があるでしょうか。
かわいそうに我が主はひどく動揺して、痛々しい嘘をついてしまいました。
「僕……あなた以外の誰にも触れられてません……」
魔法が消えたという証拠があるのです。当然、信じてもらえる可能性など微塵もありません。
トリオンはメニスの子が誰かに狙われないなんてありえない、これは自分の力不足のせいだと自分を責めて、我が主にさらに追い討ちをかけてきました。
わざとらしいぐらい優しい、哀れみをこめた口調でした。
深く傷ついて泣き出した我が主の中で、フィオンが怒りの気をしんしんと放ちました。
『卑怯な責め方だね。それに狂ってるよ。貞操の魔法なんて!』
確かにそんなものなどかけていなければ、このケダモノは知りたくないことを知らずに済んだのです。
それからの二人は、かなり微妙でぎくしゃくした雰囲気になりました。
この微々たる傷口をがんばってガシガシ押し広げれば、私が夢に描くことが容易に実現するかもしれません。
地表へ通じる洞窟の少し前で、我が主たちが休んだ時。私は申し訳ないと思いつつ、心を鬼にして、我が主に圧力をかけてみました。
彼はトリオンに抱っこされてまどろんでいたのですが、私はそれをわざと揶揄いたしました。
『あなたがたは、ほんとに恋人同士なのですか? 私の歴代のご主人様方は、恋人に会えば、すーぐ私の目の前で、いちゃいちゃのぎしぎしのあんあんってやつをしまくってましたけど?』
(えっ……? そ、そうなんだ……)
『あなた、再会してから赤ん坊のように抱っこされてるだけじゃないですか。あなたのこと、愛してなんかいませんねこの人。きっとかわいそうだから優しくしてるだけですよ。意地悪です。すごい意地悪です。ものっ……すごい悪人です』
(そんなことない……)
私はわざと冷たく突き刺さるような精神波を放ちました。
『きっとそうです。わかります私。あなた、嫌われましたよ』
(どうして……そんなこというの?)
『あなた嘘つきました。あれいけません。下半身無節操モラル皆無な竜王も真っ青な、ひどい嘘』
(嘘だけど……でも……知られたくなかった……)
『あれで相手はドン引きでしょう。他の男に汚された子を、誰が触りたがりますか? こんなに汚れてる子など、普通要りませんよ。もう二度と、口づけもされないでしょうね』
(汚れてる子……)
『普通なら、速攻で捨てられてます。足が不自由で病気だから、捨てるに捨てられないだけです。きっとそうです』
我が主の魂が震えました。
(僕……また捨てられるの……? また……?)
『やめろアクラ! 言いすぎだ』
フィオンが怒って止めに入ってきました。
我が主、ごめんなさい! 私、ちょっとがんばりすぎたようです。
『あんまり刺激すると記憶の蓋がゆるんでしまう。レクのことは僕に任せて』
フィオンはかなり積極的な作戦に出ました。
我が主の魂を、頻繁に体の外へ連れ出すことにしたのです。
『幽体離脱はキュクリナスに監禁されてた時に覚えたんだ。僕がレクのために編み出した術で、レク自身にはできない。魂が体から離れれば、体の感覚は遮断できる。これでレクの魂を完璧にトリオンから守れるよ』
これは非常に有効な、素晴らしい方法でした。
トリオンはことあるごとに体から抜け出す我が主にイライラし始めました。
なにしろちょっとでも奴の手が我が主を撫でる素振りを見せようものなら、フィオンが容赦なく我が主の魂を体の外へ引っ張っていったからです。
奴にしてみれば、我が主が拒んでいるように感じたことでしょう。外へ抜け出た魂を引き戻すため、奴はあわてて自分も体から抜け出して追いかけるのでした。
着々と微妙な雰囲気を作っていきながら、二人と雪豹の仔はついに地表に出ました。
雪豹の仔は洞窟の入り口から出ようとはせず、座り込んでしまいましたので、二人は仕方なくそのまま豹に見送られる形で外に出ました。
吹雪が止んだあとのようでした。
空は晴れ渡っており、美しい極光が日の昇らぬ空を彩っています。
氷点下二十五度。かなり冷えこんでいます。豹の仔は、それで出たがらなかったのでしょう。
「きれいだね」
トリオンがそう囁いて、我が主の肩を抱いてきました。フィオンが、すわ幽体離脱だと身構えるのが感じられました。
ぴゅうー、ぱちぱちと辺りに変な音が鳴り響いています。冷たい空気を割るように。
光の精霊が話しかけているのだとトリオンは言いました。
「あれは死者を天へ誘う階段だともいわれているよ。天から手を差し伸べているんだ。今この空には精霊がたくさん飛び交っている。引っ張られないようにしないと……」
『了解。じゃあ、引っ張られるね』
くすくす笑いながら、フィオンは我が主の魂を連れて体から飛び出しました。
「レクルー! 私のレクルー、頼むから飛んでいかないでくれ」
とっさに我が主の魂を引き戻したものの、トリオンの慌てようは見ていて哀れなほどでした。
フィオンは完全に楽しんでいました。まるで小悪魔のように彼はころころと笑っておりました。
しかも、ひどく心配するトリオンに、我が主は硬い表情で「大丈夫です」の一点張り。
「気にしないで下さい。本当に、心配なんかしないで下さい。急ぎましょう」
「レクルー、待ちなさい」
「この近くに大きな邑があるんですよね? トォヤ族の大きな邑……どこかな」
「レクルー!」
『いい感じだね。痴話げんかが始まるかな』
フィオンの予想通り、二人は「離して」だの、「嫌だ離したくない」だのと揉め始めました。
しかしその時。我々の頭上をぶおっと不可思議な風が吹き抜けました。
宵空をよぎっていく、かなり大きな黒い影。なんだか翼あるもののようです。
「伏せろ!」
トリオンは我が主を押し倒し、雪の上に身を伏せました。
空飛ぶものは流れ星のようにヴンと音を立てて飛び。はるか前方にある大きく黒い山のようなものに降り立ちました。
その黒い山は、宵闇の中にうっすらとその輪郭を浮かび上がらせておりました。てっぺんが平たい台形です。
おお、この形は我が既知のもの。私は己の記憶を呼び出して確認いたしました。
間違いありません。長期遠征型の、スメルニアの基地です。
黒い壁面についている白い電光が星のように瞬いています。闇に浮かび上がる黒い城壁は鋼鉄の板ですが、中枠はおそらく木組みでしょう。
規模は、大きな邑ひとつ分程度でしょうか。
「前に見たときは、あんなものはなかった。あそこには大きな邑がひとつあったはず」
トリオンがそう申しました。ということは、おそらくスメルニア軍が邑を占領し、母国から持ち込んだ建材ですっぽりと覆ったのでしょう。
不可思議な風と大きな影が、またひとつ頭上をよぎっていきました。
ヴン、と空を切る音に、私はとても懐かしさを感じました。
ああ、あれは……!
『アクラ、あれは何?』
フィオンの問いに、私はすぐさま答えました。
『ロンティエです。鉄の竜ですよ!』
その黒い影は、空を薙いでいきました。
二枚の大きな鋼の翼を、悠然とはばたかせながら。




