16話 ウェリントン公と私
我が嫁が目を覚ますと同時に。
彼女の守護者だというフィオンは、むっつり押し黙ってしまいました。
今や我が嫁の中に彼の気配がはっきりと感じられるのですが、何度呼びかけても返事がありません。
ひどく拗ねているような、怒っているような波動。
その精神波を捉えようとすると、スルリと逃げられてしまいます。
あの乙女の鎖さんなら、その霊力で捉えられたかもしれません。でも怖い彼女は離れ落ちて、水の中にうねる金の蛇のように泳いでいきました。
もう二度と会うことはないでしょう……。
目を覚ました我が嫁は、自分の中にいるフィオンの存在を全く知らぬようでした。
本人の知らないうちに、最長老からいろいろ細工をされているみたいです。
なにせあの最長老は、首から上だけになって黒い箱の中にいてもまだ生きてる奴です。恐ろしい技をいろいろと使えるのでしょう。
私はしばらくフィオンのことは黙っていることにしました。
今私が教えても、信じてもらえないような気がしたからです。死の淵から戻ったばかりの嫁にそんな話をしても、混乱するばかりでしょう。
我が嫁は、周囲に群がっている猫のような獣たちに大変驚きました。
彼らが人懐こくすり寄ってくるので、たちまち「かわいい」とそのきれいな顔に笑みを浮かべました。
どうです? 私のハーメルンの調べの効果は。
獰猛な紅獅子だって、私の言うなりになるのですよ。
そう自慢しようとした私ですが。
突然、我が刀身がぶるぶる震えだしました。
先ほどから立て続けに力を使いすぎたせいでとても腹ぺこです……。
ちょっとろくに喋れないぐらいです。
導師キュクリナスの怨念や魂、それに長老たちの結界だけで、よくここまでやれたものです。
ああ、目の前のかわいい獣どもが、とてもおいしそうに見えます。
我が主、どうかこいつらを喰わせてくだ――
(それはだめ!)
優しい我が嫁は、即座にそう答えてきました。
そんなこといわれましても、力の残量がほとんどありません。
いざという時にこれではちょっとまずいんですけど。
(かわいそうだよ……これ、とってもかわいいよ?)
優しい嫁は私を背負い、銀の杖をついて、ぴょんぴょん移動する猫のような獣たちの後を追いかけました。
程なく私たちは、洞窟の横穴を登った露天の草地に出ました。
嫁はそこで空を見上げました。私も、百年ぶりの空を見上げました。
蒼い蒼い空。
ああ、空ってこんな色でしたっけねえ。
白雲のなんとおいしそうなこと。ワタアメみたいです。
それから嫁は猫のような獣たちの巣穴を偶然発見しました。
迷路のように入り組んだ穴。穴からひょこひょこ顔を出す獣たち。
獣の目が警戒の色をしているので、私はあわてて刀身を震わせ、なけなしの力でハーメルンの調べを奏でました。
しかしもう力がろくに出ません。出枯らしです。お腹がぺっこぺこです。
あのう。こいつらを食いたいんですけど、我が主。
(ダメだったら)
うぐう。嫁は私が超音波を出して獣を大人しくさせていることに全然気づいていないようです。
嫁は巣穴を登って草地に戻り、黄金色の草の中に寝転んで、暮れなずんでいく空を眺めました。
夜になるまでずうっとそうして、とても嬉しそうに星空を眺めて。そして。銀の杖を抱きしめながら、うとうと眠りに落ちました。
すると――
『カリブルヌス、大丈夫?』
ずっとだんまりだったフィオンが、私を気遣って声をかけてきてくれました。
『お腹が減ってるんだよね? レクが無理させてごめん』
いいえ。大丈夫ですよ。百年間、私、クモ一匹でしのいできましたからね。
ただ、いざという時に力が出せないのが不安なだけなのです。
『レクは、猫もどきたちを気に入っちゃったみたいだね。でもこれからレクは、食べ物が必要になる。その時カリブルヌスも、きっと相伴にあずかれるよ』
な、なんと優しいお言葉!
やっぱりこの人、ものすごくいい方です!
こんなに私のことを気遣ってくれるなんて。ううう、感動して涙が出ちゃいますよ私。……って、目がなかったんでした私。ああもう!
『君を作った奴をまた呪うの?カリブルヌス』
フィオンがくすくす笑います。
目の代わりに、いろいろつけられましたけどね。時計を皮切りに。
方位磁石に温度計、小さなメモ帳入りロケットに小さな羽ペン……。
『羽ペン?』
遠い昔の我が主が、密書を書くのに使ったのですよ。柄の所に仕込まれましてねえ。
『それも八代目のウォルター卿が細工したの?』
いえいえ。ウォルター卿が私につけたのは時計だけです。方位磁石や密書セットをひっつけたのは、我が九代目の主人、アーサー・ウェルズリー卿です。
『海賊の歌を教えてくれた人か。ということは、海賊か、海軍の人?』
いえいえ。アーサーは陸軍人でした。
あの歌はインドという国を征服するために、軍艦で何ヶ月もかけて大海を渡った時に、水兵たちから教えてもらったものです。
アーサーが我が主人だったころ、私は本当にたらふく、つわものどもの魂を食らいました。お腹がすく暇なんて、全然ありませんでした。
本当に青の三の星の人々は、呆れるほど戦が好きな生き物でしたよ……。
ウォルター卿の奥方の死後。
私はウォルター卿の首と一緒に、王都ロンドンの真ん中にあるとある教会へ納められました。
奥方の狂った愛から解放されたウォルター卿の首は、実に三十年ぶりに、ようやく己の胴体のもとへ帰ることができたのでした。
私はそれからしばらく、ウォルター卿の棺の上に置かれておりました。
私のいる教会はウォルター卿だけでなく、他にもたくさんの王や貴族、著名な詩人、軍人たちのお墓がありました。みな王国のために輝かしい功績を残した人々ばかりです。
ある時、王国随一の名門学校から、少年たちが歴史教育の一環で偉人参りをしに来ました。
寄宿舎に入っている少年たちは、王国領内から集められた貴族や名士の子ばかり。
ウォルター卿の棺を囲み、教授がはるか昔の女王陛下の御世のことを語るのを聞きながら、学生たちは口々にヒソヒソ言いました。
「柄に時計がついてる剣なんて面白いね」
「かっこいいな」
「古そうなのに、時計はまだちゃんと動くんだってさ」
「持ってみたいなぁ」
褒められたのが嬉しくて、私は誰にともなく棺の上で、ウォルター卿のことや聖堂騎士と一緒にイングランドに来たことを有頂天に話し始めたのですが。
他の子は全然見向きもしませんでしたのに、一人だけ驚いた顔をして周囲をキョロキョロする子がおりました。
その子こそ、第九代目の主人。アーサー・ウェルズリーでした。
喋っているのが剣の私だと気づくと、彼はなぜ聖堂騎士のことを知っているのかと囁き声で聞いてきました。
そこで私が己れの身の上をさらに詳しく明かしますと、アーサーはもういてもたってもいられなくなり、その夜こっそり寄宿舎を抜け出してきて、私を盗み出してしまいました。
実はこの少年はかの聖堂騎士、白薔薇の王エドワードの父君に私を奪われた、哀れな騎士の末裔だったのです。
幼いアーサーは父親から、先祖代々伝わる話、すなわち高潔の騎士モレーのことや、剣を奪われた時の話をよく聞かされて育ちました。
ですからこうしてロンドンの学校に入り、偶然私に出会えたことに狂喜してくれました。
彼は同級生どころか上級生とも互角に渡り合うガキ大将で、成人してからは陸軍に入り、めきめきと頭角を現しました。
兄の勤める貿易会社を助けるために国命でインドに派遣されるや、そこでインド遠征軍を指揮する司令官となり、大活躍。インドは英国に征服され、そのおかげでアーサーの兄はインド総督になるという大出世ぶり。
むろん、私がインドのつわものどもを喰らって喰らって喰らいまくったせいなのはいうまでもありません。
インドから軍艦に乗って母国へ凱旋する途中、私たちはアフリカという大陸の沿岸に浮かぶ、絶海の孤島でしばし休養しました。
そこは岩だらけの小さな島ですが、英国の貿易会社の手によって岩間に素敵な街が作られておりました。
「静養するにはいいところだ」
アーサーは街外れの、野薔薇が咲き乱れるコテージをえらく気に入り、しばらくそこで過ごしました。
「俗世間から離れて過ごすには、実にいい」
それから本国に戻ったアーサーは、さらに輝かしい戦歴を積み重ねていきました。
その頃フランスでは大革命が起こり、王がいなくなって共和国になったかの国は、血で血を洗う内戦のあと、ナポレオンという英雄によって恐ろしい強国に生まれ変わっておりました。
ナポレオンは大陸全土を征服しようという野心に満ち満ちておりました。
周囲の国と戦い。ことごとく勝利を収め。次はポルトガルという国を征服しようと、その国がある大きな半島に大軍を投じてきました。
そこに立ちはだかったのが、私のアーサー率いる英国軍です。
私の柄に方位磁石と密書セットが内臓されたのは、この時です。
焼けつくような乾燥した土地で、私たちは何年も戦いました。フランス軍とだけではなく、現地の急進派のゲリラとも戦わなければなりませんでした。
長い行軍。そして、敵の動向を知るための斥候を放っての情報戦。
アーサーは幾度となく半島中に配置した部下たちに密書を書き送らねばなりませんでした。
そこで天幕の中の机上だけではなく、どこにいても手紙を書けるようにと、私の剣の柄に便箋とインクと羽ペンが隠し入れられるようになったのです。
ああそういえば。密書じゃなくて、一度だけ、恋文が書かれましたね。
麗しのエリノア、燃える大地の、情熱的な黒髪の乙女……
『あ、また始まった』
私の話を聞いていたフィオンが声をたてて笑いました。
『また百の形容詞を言うの?』
述べ立てたい所ですが、笑われるのは恥ずかしいので止めておきましょう。
でも本当に、エリノアは美しい貴婦人だったのですよ。
でもそれはアーサーの完全な横恋慕で、その恋は実ることはなかったのですがね。
半島で長いこと戦った私たちは、ナポレオンの弟を破ってフランス軍を半島から追い出すことに成功しました。
その頃折よく、ナポレオンが北方遠征に大失敗したという報が入りました。
我々はこれは好機と色めきたち。一気に大きな山脈を越えて、フランスに大侵攻しました。
私たちが勢いに任せて、大きな都市をひとつ攻略しました時。
フランスの皇帝にまで登りつめていたナポレオンが、退位させられたという報が届きました。
ナポレオンは遠征の失敗によって民からの支持を失い、我々の侵攻を恐れた政治家たちの手によって、失脚させられてしまったのでした。
ナポレオン打倒を果たした英国軍は、意気揚々と母国イングランドへ帰りました。
ところが。
ナポレオンという者は、不死身のような英雄でした。
なんと彼は閉じ込められた島から脱出して腹心の仲間をかき集め、あっという間に皇帝に返り咲いたのです。
英国は他国と同盟を組んで急いで軍を集め、ベルギーの、ウォータールーというところでナポレオンの軍と雌雄を決しました。
その戦は、この不屈の英雄の命運を決める戦でした。
ナポレオンが勝てば、彼はフランス国民から完全に復位を認められる。
負ければ、また皇帝の位を失う。
私たちも負けるわけにはいきません。
同盟軍の総指揮を任されたアーサーは丘の上に陣取り、私を振りかざし、全軍に呼びかけました。
「ナポレオンを倒し。長きに渡る大陸の戦を終わらせよう!」 と――。
『それで、勝ったの?』
もちろんですともフィオンさん。我々は大勝利いたしましたよ。
私がいるのに、勝たないはずないじゃないですか。
アーサーはこの勲功で公爵の位を与えられ、ウェリントン公と呼ばれるようになりました。もう大大大出世です。
しかしあの戦の後は、本当にお腹がはちきれそうになりました私。
一体何人喰らったか覚えてません。
『ナポレオンて人は、それからどうなったの? また島送り?』
ええ。島送りです。
彼は英国に亡命することを望んだのですが、むろん英国議会は却下しまして。投降してきた彼の身柄を拘束しました。
そして今度は脱走できないように、ずっとずっと遠くの、誰も行き来できないような絶海の孤島に死ぬまで閉じ込めたのです。
我々英国軍の、完璧な監視の下に。
『あ、その島ってもしかして……』
察しがいいですねえ。そうです、あの島です。
私とアーサーがインド帰りの途中にしばし静養しました、岩だらけの島。
セントヘレナという島ですよ。
アーサーが、あそこがいいんじゃないかって、英国議会の議員の方々におススメしたんですよねえ。
いやほんとに、いい島でしたもの。
隔離具合がもう絶望レベル。
だって母国まで帰るのに、船でたっぷり二ヶ月かかりましたから。
アーサーは、一度そこにお見舞いに行ってやりましたよ。お忍びでね。
ナポレオンの顔をどうしても見てみたいと、奴を監視するお役目を負っていた歩兵連隊に紛れ込んで、会いにいったんです。
島の総督は囚われ人のために、島の真ん中に館を建ててやっておりました。
ナポレオンはほとんど、その館に篭りきりでした。
なにせ半径一キロ線、半径二キロ線と幾重にも、監視のための歩兵連隊が配置されておりましたから、自由に港にある街には行けなかったのですよ。
しかし確かにナポレオンという人は、只者ではありませんでした。
一見冴えない小太りのおじさんなのですが……
彼には、私の声が聞こえました。
「その資格のある者」だったのです。
もし我が主モレーが火あぶりにならず、私がずっとフランスにいたら……もしかしたら、彼が私の主人になったかもしれません。
しかし檻に閉じ込められた獣はすでにすっかり絶望しきっていて、随分顔色が悪かったですね。
毎日海を眺めて。ずうっと眺めて。
はるか北の、血にまみれたヨーロッパの大地を想って。
その背中は、燃え尽きた蝋燭の芯のように力なく。
小さく小さく見えました。
ナポレオンは、その島で生涯を閉じました。
英国は公式に病死としましたけど、だいぶ後世まで、毒殺されたんじゃないかとかいろいろ噂が耐えませんでしたね。
真実は一体どうだったのか。
それはアフリカの蒼い蒼い海に浮かぶ、小さな島しか知りません……。
『ねえ、アーサーって。もしかしてカリブルヌスの生前の名前と同じじゃない?』
フィオンが突然聞いてきましたので、私はびっくりしました。
ええ私も、人間だった頃は、そんな名前でしたが。
よく覚えてらっしゃいましたねえ。
『僕はレクと一身同体だからね。君がレクに喋ったことは僕にも聞こえてる。君の話、僕はちゃんと覚えてるよ』
うあああ。
なんてこそばゆいことを言ってくれるのでしょうこの人は。
私は夜通し、アーサーと私のことをもっと詳しくフィオンに語りました。
フィオンは私が語る数々の戦いの描写に、息を呑んで聞き入っておりました。
彼はおそらく、まだ十代ほどの少年の魂なのでしょう。
アーサーたちがどんな武器を使っていたか、どんな兵器を攻城戦で使ったか、どんな鎧を着込んでいたかと、次々と男の子らしい質問をしてきました。
私はえんえんと話しました。
なぜならたまらなく嬉しかったのです。
フィオンが感心して話を聞いてくれるのが。
そして夜空が白む頃には。
私は、こんな素晴らしい友人はいないと思うまでになりました。
『レクが起きそうだ。レクが寝たらまた話そう』
『はい、フィオンさん。楽しみにしておりますよ』
『またねカリブルヌス』
あ……私自分のことばかり夢中で話していて。
ついうっかり、聞きそびれてしまいました。
なぜフィオンさんが、トリオンて人を嫌がるのか。
今度ゆっくり聞いてみることにいたしましょう。
我が嫁が、また夢に落ちた時に。
*ウェルズリー家と聖堂騎士
フリーメーソンは、聖堂騎士団が起源という説があります。
アーサー・ウェルズリーの父は、フリーメーソンのアイルランドロッジの総長ででした。
ウェルズリー家はもともとはアイルランド人ではなく、1500年頃にイングランドのラトランド地方から移住してきた一族です。
*王国随一の名門校
イートン校のことです。
*半島での戦争(1809~1814)
ペニンシュラ戦役と呼ばれています。
英国はポルトガルを支援し、ナポレオンの弟が王となっていたスペインとフランスの同盟軍と戦いました。
*ウォータールー
ワーテルローの戦い(1815)のこと。
剣は英国紳士なので、英国人同様、ウォータールーと英語読みで発音します。




