鈍色
梅雨も終わって段々と空気が乾燥し出す頃。男は行きつけの煙草屋にある小さなベンチで、煙を噴かしながら、静かに目を閉じていた。雨が止んだばかりで所々濡れている歩道を前に、男は良い具合の日光をその身に浴びて。身体を揺らす度に茶色の椅子が音を鳴らし、それに呼応するかのように、季節外れの風鈴が控えめに音を奏でていた。
店は歩道に面した壁がガラス張りとなっており、すぐ脇に展示されている煙草のケースが全て見えるようになっていた。そこにベンチが置いてあるので、当然男が座っているとその陰に隠れたものは外から見ることが出来ないが、それに文句を言う客はない。何故なら、客は男一人であるからだ。ここはいつ来ても、客もいないし店番もいない。店主さえもいない。ただただ男に挨拶してくれるのは、年中常に入り口にぶら下げてある、鈍色の風鈴だけである。
時は平成。男は時代の幕開けに出遅れた者の一人であった。社会が大幅に変わった訳ではない。人間の考え方が百八十度方向転換した訳でもない。彼が一人、異常に走ってしまっただけなのだ。職場から追放された男は、宛てもなく今も彷徨い続けていた。記憶も、残っているのは滓のように朽ち果てたもののみである。
「なぁ」
風鈴に話しかける。と、ちりんと音を鳴らして返事をしてくる。
「お前はどうしていつも、そこに吊られているんだ」
今度は何も返さなかった。風はあるのに、音はない。男は、誰もいない道を眺めて、咥えた煙草をぷっと噴き出した。綺麗とは言えない放物線を描きながら、薄い水溜りにそれは落ちた。
男はベンチから立ち上がり、ポケットから煙草をもう一本取り出した。
「どうしてだろうかね」
朽ち果てた椅子からは、悲鳴に近い軋みが聞こえた。
振り返って店の中を覗くと、相も変わらず静かなものである。閑散とし始めたのはいつ頃だったか、男はもう覚えていない。何も覚えていないから、何も言わないのだ。
するとそこへ、一人の若い女子が走り寄って来た。薄めのシルクで出来たワンピースを纏い、その足には安物の草履がある。軽快とは程遠い身のこなしで水を軽く跳び越しながら、彼女はやって来た。
「もう、またこんな所へ来て」
その声は、透き通る風鈴の音色のように、男の耳に届いた。
「駄目だといつも言っているでしょう」
何処か懐かしいなと、男は思った。しかし誰なのかが分からなかった。火をつけようとしていた煙草をポケットに戻し、男は問いかけた。
「一体君は誰だい」
「貴方の娘です。さ、帰りますよ」
女子はそれだけ言うと、男の手を引いて、来た道を戻り始めた。
男は首を後ろに向け、未だ尚揺れている風鈴に目をやった。
「なあ」
段々と視界から消えていくその店を、男はじっと眺めていた。
「どうしてあの風鈴は、あすこに吊られているんだ」
水溜りに足を突っ込もうと、小さな羽虫が髭にとまろうと、男は気にも留めなかった。ただ、ずっと、その煙草屋のある方向に目を向けていた。
「それは、貴方があそこに飾ったからでしょう」
曲がり角を曲がって、その建物は見えなくなった。けれども、男の顔は、その店に向けられていた。
「どうして僕は、風鈴なんか飾っていたんだい」
男の意識は、空虚に埋め尽くされていた。
「それは、貴方が初めて妻に貰ったものであると、喜んでいたからです」
娘の大きな瞳には、涙が溜まっていた。
「どうして、あの店に飾っていたんだろうか」
何時しか空は灰色の雲に覆われ、太陽が隠れるようになった。雨の臭いが立ち籠め始めたその空気は、まさしく梅雨であった。
「それは、…………」
小さな横断歩道に出る。そこへ来てようやっと、歩行者がちらほら見えるようになった。
すれ違う者が皆、彼等二人を見た。
「……貴方が、あの店の、店主だったからです」
その日以来、その煙草屋に来客はなくなった。
動物もいなければ、鳥も、虫さえもいないような、静かな街。
そこでは……入り口にかけられた鈍色の風鈴が、薄くなりゆく陽射しの中で、一人鳴いているだけだった。