普通の失恋
◆
文化祭終了。
日曜日の夕方に閉会式が行われ、二日間に渡る文化祭は大盛況で幕を下ろした。
各教室を大まかに片付けたあとに後夜祭が行われ、それでこのお祭り騒ぎは本当に終わりになる。
そんな夕暮れ時――すでに薄暗くなり、紫色に空が変わっていく中、彼女は一人、美術室の中でぼうっと立っていた。
それを見つけてしまった僕、武沢夏樹は、声をかけるべきか迷う。
彼女のことはよく知っている。美術部部長、雀部美菜先輩。そして僕はその美術部に今年入った一年生だ。
美術室の片付けは終わっていて、あとは後夜祭の会場であるグラウンドに向かうだけだった。
僕はもう一度だけ、自分たちが描いた絵、その中でも一番気に入っている絵を見てから行こうと思って、ふらりと美術室に立ち寄ったのだ。そうしたら彼女、先客がいた。
美術部の文化祭の展示は、天使の絵。部員全員がそれぞれ天使の絵を描いて、それを飾った。
絵はしばらく美術室の後ろに並べて飾られることになっていて、美術部の片付けは絵を動かすだけであっさり終わってしまった。
部屋にそれぞれ配置され置かれるのもいいが、こうやって十三枚に及ぶ天使の絵が、横一列にずらりと並ぶのはちょっと壮観だ。
部長の雀部先輩が、僕と同じ事を考えて美術室に残っていたとしても、おかしなことではないんだから、普通に話しかければいい。
だけど僕は、話しかけることができなかった。
前に、それで一度失敗をしているから。いや、したのかもしれないから。
どうして曖昧な言い方になるのかと言うと、実際それが失敗だったのかどうか、わからない、確認しようがないからだ。
数日前、先輩ともう一人二年の女の先輩が、二人で話しているところに声をかけてしまい、二人の会話を邪魔してしまった気がして。
あの時一瞬見えた雀部先輩の顔が、忘れられない。
「……武沢君?」
「……あ」
見つかった。いつの間に振り返ったのだろう、雀部先輩はこっちを向いていて、僅かに首を傾げている。
「すいません。ちょっと、後夜祭の前にもう一度絵が見たくなって。部長もですか?」
「そうね……そんなところよ」
「邪魔しちゃいましたか」
「そんなことないわ。……暗くなってきたわね」
そう言うと部長はツカツカとこっちに向かって歩き出し、僕の後ろ、美術室の入口脇にあるスイッチを押して明かりを点けた。
そしてすぐに、部屋の後ろに戻っていくので、僕もそのちょっと離れた隣りで、絵を眺める。
「みんな、上手いですよね。僕なんかまだまだだ」
「そう? 武沢君、一年の中では筋がいいと思うけど」
「マジですか? 雀部先輩にそう言われると、自信が付きますよ。でもやっぱり、二、三年生はすごいな。いや、特に二年生は三人ともすごいですよ」
「三年生は、受験を控えているから。二年生が目立つのは当然よ。……それでも、室木君は別格だけど」
室木先輩は、三人いる二年生の先輩のうち、男の先輩で、おそらく部内で一番絵が上手い。
今回の天使の絵も、確かに素晴らしかった。
「……彼女の絵もね」
真ん中に並ぶ、二枚の絵。雀部部長が言う彼女とは、同じく二年生の白坂先輩のことだ。
僕も文化祭中、何度か交代で店番というか、受付をしていたからわかる。
部屋の中央に飾られていたあの二枚は、美術室に入った人の足を止め、それなりに評判にもなっていたようだ。
「でも僕は、雀部先輩の絵も綺麗だと思います」
「……ありがとう。でも、あの二人の絵には及ばないわ」
「そうですかねー?」
正直、僕はそんなことはないと思っている。彼女は少し自分の絵を過小評価していないだろうか。
と、そこまで考えて、部長である雀部先輩が、そんな弱音まではいかないまでも弱気なことをこぼすなんて、珍しいことだと気付いた。
いつも落ち着いていて、冷静で、毅然としている。この美術部は、彼女のおかげでまとまっていると思っている。
今回だって、受験があるから早めに仕上げて引退した三年生を除けば、一番早く絵を描き上げた。それ以外でも、彼女は率先して部活動に取り組み、後輩である僕らに行動で示しを付けようとしているのを、僕は気付いている。他の部員がどう思っているかは、わからないけど。
先輩のこの天使の絵だって、一番最初に描き上げたからって、時間がかかっていないわけではない。むしろ人一番時間をかけている。休みの日にも登校して、努力をして描き上げたのがこの絵なのだ。
そうまでして描き上げたのに、どうして今になって、そんな弱気なことを言い出したのだろう。
「先輩。なにか、あったんですか?」
だから僕は思わずそう聞いていた。
「――――! なにも、ないわ」
そう言いながらも絵をじっと見つめていたが、僕は彼女の顔が一瞬強ばるのを見てしまった。
いつも冷静であまり顔に出さない彼女の表情が、感情によって歪められるのを。
それは、先日邪魔をしてしまった時に見た顔と同じだった。
「そうですか。なにもないなら、いいんですけど」
なにもないわけがない。わかっていても、僕はそう返事するしかなかった。
◇
「それじゃ、僕は先に後夜祭に行きますね。お疲れ様でした」
「ええ。お疲れ様」
一年生の武沢夏樹君が美術室から出て行くの待ってから、私は大きくため息を吐いた。
さっきは少し、失敗をしてしまった。
『先輩。なにか、あったんですか?』
まさか彼に、あんな風に心配されてしまうとは。
思い返せば、確かに少し気弱な発言だったかもしれない。部長として毅然とした態度でいたからこそ、ちょっとしたことでわかってしまうのだろう。気を付けなければいけない。
「けど……」
小さく呟き、ずらりと並んだ天使の絵の、その真ん中の二枚を見、そして一番端の自分の描いた天使の絵を見る。
「仕方ないじゃない?」
私は、失恋したばかりなのだから。
中学一年の頃から好きだった相手に、先日はっきりと振られてしまった。
理由は明言しなかったけど、言わなくても私にはわかっていた。
彼が「彼女」に惹かれていることくらい、ずっと見てきた私にわからないわけがない。
言葉の端々からそれが伝わってきていたから。
どんなに仲良く話をしていても、ちょっとした瞬間に意識がそっちに逸れる。話の線が引き寄せられる。そんな些細なことに、私は敏感に気付いていながら、だけど私は諦めることなく彼に接し、そして告白して……振られてしまった。
絵は、小学生の頃に市のコンクールで佳作を取って、それ以来私も絵を描くのが楽しくなり、中学に上がったらすぐに美術部に入った。
そこで出会ったのが彼で、後にその彼が同じコンクールで最優秀賞を取っていたことを知った。
私は彼の絵に惚れ込み、少しでも近づけるように努力した。技術を磨いた。
しかし絵を本格的に学び始めるとすぐに、自分には彼のようなセンスは無いかもしれないと、気付いてしまった。だからこそ、その分技術を学び、離されないように努力をし、絵を描き続けた。
絵を描くのが苦しいと感じる時期もあった。どれだけ描いても彼に近付くことはできず、そしてすぐ側に限界があるような気がして、筆を持つと吐き気がすることもあった。
努力の「努」という字は、「怒」に似ている。努力して力を付けても心は怒ってしまう、なんてよくわからないことを考えたりもした。
他人に相談したことはなかったが、もし相談していたら、間違いなくスランプだと言われていたと思う。
だけど、私自身はその言葉を言い訳にするのが嫌いだった。その言葉を使っていいのは、一人前になり、プロになった人たちだけだと思っている。技術を磨き努力している段階では、それは言い訳だと思う。
そう、自分に言い聞かせ、どんなに苦しくても絵を描き続けた。
そうした甲斐もあり、中学を卒業する頃には、自分の絵にもそれなりに自信が付いた。彼の絵の隣りに並べられるくらいの実力は付いたと思った。
しかし高校に入り、同じ新入部員として入ったもう一人の絵を見た時、私は思わず目を逸らしてしまった。
絵は上手いとは言えない。だけどどこか、見る人の心を惹き付けるなにかがあると思った。
直接心に訴えるなにかがある。力が、ある。
私はその絵に揺さぶられる自分の心に気付き、そして目を逸らしてしまったことの意味に気付き、その気持ちは今でもずっと心の隅に残ったままだった。
私はこの時、彼女の絵に負けたと、思ってしまったのだ。
技術は私より劣るのに、それでも私の絵の方が劣っていると。
敗北感は、ずっと付きまとっていた。私の目標は、彼女の絵に勝つこと、越えることに変わっていった。
今回の天使の絵は、彼女に挑戦する最後のチャンスだと思った。
美術部はそこまで積極的な活動を行うわけではなく、個人でコンクールなどに出す人はいるが、部員全員で応募しようということはなかった。だから文化祭の展示というのは、一緒に絵を並べるチャンスであり、しかし三年生になると受験もあり十分に力を注ぐことができないから、二年生の今が最後のチャンスというわけだ。
天使の絵というテーマは、三年生を考慮し、一学期の内から決まっていた。
私はその頃からすでに天使の絵に取りかかっていて、実はこれは三回ほど描き直している。下書きの段階で破り捨てたのを入れれば、十枚単位だろう。
絶対に負けるわけにはいかない。そして彼の絵の隣りに、私の絵を飾ろう。
そうすることでようやく、私はこの敗北感を拭い去ることができる。そう、思っていた。
結局。私は、彼の隣りにも、彼女の隣にも、絵を並べることはできなかった。
とてもじゃないけど、この二枚の横に私の絵は置けなかった。
だから入口に飾るという名目で、二人の絵から離したのだ。
気怠い敗北感を全身に感じ、私は後夜祭が始まってもしばらく、立ちつくしたままだった。
◆
土日の文化祭が終わり、僕らの学校は月曜日が振り替えで休みとなる。火曜日は一、二時限目を利用して校内の片付けと清掃、三時限目から普通に授業が再開した。
この日、美術部は休みの予定だった。
普段からそこまで出欠席に厳しくない美術部だけど、文化祭も終わったし今日は活動を完全に休むことにしようと、雀部先輩は言っていた。
打ち上げはないのだろうか、と思ったけど、後夜祭で顧問の先生がジュースを奢ってくれて、それで少し盛り上がったから、みんな打ち上げをした気分になっていた。雀部先輩も遅れてだけど来てくれたから、少しホッとした。
だけど……一日経って、やはりどうしても気になる。
僕は放課後、美術室の鍵を借りようと職員室に寄ってみる。
しかし思った通り、すでに貸し出し中。僕は急ぎ足で美術室へと向かった。
「部長……雀部先輩」
「ん? ……なんだ、武沢君か」
美術室にいたのは、もちろん雀部先輩。彼女はまたも、後ろに飾られた天使の絵を眺めていた。
「美術室の鍵、貸し出し中だったんで。もしかしてと思ったんですよ」
「そう。君もまたこの絵を見に来たの?」
「……まぁそんなところです」
本当は、あなたのことが気になったんですよ、とは言えなかった。
僕は美術室の中に入り、一番端の雀部先輩の絵を眺める。
「やっぱり先輩の絵、綺麗ですよ」
「……ありがとう。だけど」
「お世辞なんかじゃないですよ。本当にそう思うから、言ってるんです」
「……そう」
しばらく黙って、お互い絵を眺める。
今の言葉、先輩にはどう伝わっただろうか。僕はもう少し、話を続けてみることにする。
「確かに、真ん中の二枚の天使の絵はすごいです。あれが大したことない、先輩の絵の方がすごいですよ! って言うのは、さすがにお世辞になります」
「はっきり言うのね」
「誤解しないでください。僕が言っているのは、あの二枚の絵もすごいけど、先輩の絵も同じくらい綺麗だってことです」
「言いたいことはわかるわ。……それでも私には、お世辞に聞こえてしまう」
「だから、お世辞じゃないですってば! あぁ、なんて言えばいいんだろう。あの二枚の絵とは違うなにかが、先輩の絵にはあるように思うっていうか」
「違う、なにか……?」
ずっと絵を見ながら話していた先輩が、ピクリと反応して僕の方を向く。
「それがなんなのか、上手く説明できないんですよ。うーん……」
腕を組み先輩の絵を見続ける僕に、先輩はふっと笑う。
「私が教えてあげる。いい? あの二人はそれぞれ天使に特別なテーマを付けて描いた。それは知ってるでしょう?」
「ええ……まぁ。タイトルにしてますよね」
「私の絵はね、そうね……普通の天使なのよ」
「普通の、ですか?」
「そう。何のテーマも無い。ただの天使。普通の天使。それが私の絵。武沢君が感じている違いは、たぶんそこよ。同じ天使の絵でも、描いているものは全然違う。だから、それが違和感になっているのよ」
「違和感、ですか。そうなのかなー?」
僕は納得できず、その先輩の答えにこそ、違和感を覚える。
「だから私の絵は、この一番端がお似合い。……ごめんなさい。ちょっと、変なことを言ったわね」
先輩は顔を背け、窓の方へと歩いていく。
やはりおかしい。この間の先輩の態度、そしてまた気弱な発言。
なにかあったとしか思えない。あったはずだ。
おそらくそれは、きっと――。
「でも雀部先輩って、室木先輩と付き合ってるんじゃないんですか?」
驚き、振り返り。悲しみに歪んだ先輩の顔を、僕は一生忘れられないかもしれない。いや、忘れないと心に強く思った。
僕はまた、やってしまったらしい、から。
◇
「でも雀部先輩って、室木先輩と付き合ってるんじゃないんですか?」
失念していた――。
一年生の間で、そういう噂があることは、なんとなく耳にしていた。
だけど特に否定することもなく、そのままにしていた。私はそう噂をされることが、嫌じゃなかったから。例えそれが、間違った情報だったとしても、それでも。
しかし今となっては、その噂はただの害でしかない。私にとっても、周りにとっても。
失礼なことを言う後輩に、私は怒ってみせるべきなのに、驚きが勝り、自分のミスを強く呪った。
「……付き合ってなんか、いないわよ」
掠れた声でそう答えるのが精一杯だった。
それでも落ち着いて、冷静に対処できた方だと思う。
ただ、次の一言は、そうはいかなかった。
「でも先輩! 雀部先輩は、室木先輩が好きなんですよね?」
「どうしてそんなこと、あなたにわかるのよ!!」
怒鳴り返す。さすがにその言葉は、黙って流すことはできなかった。
「私の気持ちなんて、あなたにわかるわけがないでしょう?!」
違う。心の冷静な部分が、私の言葉を否定する。
違う、違う。これは、後輩の武沢君に叩き付けるべき言葉じゃない。
彼への言葉じゃない。わかっていても、感情が堰を切ったかのように溢れ出し、自分を止めることができなかった。
「ここまで努力してきた私の気持ちなんて、誰にもわからない。私だけが知っているのよ! そうでしょう? 私の気持ちだもの。他の誰かに、わかるはずがないじゃない。誰にも言ってないし、喋ったところでわかるわけがない。わかるもんか!」
叫び、息を切らせ、机に両手をつく。
みっともない。情けない。こんな姿を、私は――。
「……あの、失礼なこと聞いたのは、謝ります。ごめんなさい。けど……どうですかね? 僕、一つ上、先輩と同じ学年に姉ちゃんがいるんですけど、恋愛事で悩んでるってのは、すぐわかりましたよ。話を聞いたわけじゃないのに、見てるだけでわかりました。ぼうっと何かを考えることが多くなって、心あらずで。最近なんかは特に顕著で、もう世の終わりだとばかりに落ち込んでいたと思ったら、すべて吹っ切れたかのように明るくなって。見ているだけでも、色々なことがわかるものですよ」
「あ……あなたのお姉さんのことは、知らないけど」
別のクラスに武沢って子はいたと思うけど、今は関係ない。
「だいたい、本当にそれが恋愛事の悩みだなんて、わからないでしょう?」
「わかりますよ。特に相談とかはしない人だけど、わかりやすい姉ですから」
「……でも、そうだとしても、私には当てはまらないでしょう?」
「そんなことないです。僕、入部してから雀部先輩のこと、よく見てましたから」
「私のことを?」
「はい。だって、僕は雀部先輩のこと、好きですから」
――パシンッ!!
咄嗟だった。私は彼に近寄って、その頬に平手を打っていた。
「――――っ」
「……これ以上、私を馬鹿にしないで」
彼はまるで叩かれることをわかっていたのか、驚いた顔一つせず、歯を食いしばってそれを受け止めた。
そのことが、私をますます苛立たせる。
「先輩、僕は」
「叩いてごめんなさい。でももう、聞きたくないわ」
私は鍵を机に置いて、彼を残して美術室を後にした。
足早に廊下を進む。一刻も早くこの場を去りたい。
私のことが、好き?
「アハハッ!」
笑いがこみ上げる。本当に、馬鹿にするにもほどがある。
そんな言葉、今の私には――。
だけど、それは。
生まれて初めて、言われた言葉だった。
◆
「ああ、やっちゃったな……」
美術室の机に突っ伏して、僕はさっきの自分の言葉を思い返す。
『はい。だって、僕は雀部先輩のこと、好きですから』
勢いで告白してしまったが、決してそれは嘘ではない。紛れもない本心。
だけど今の彼女にとっては、必要の無い言葉に聞こえてしまっただろう。
きっとおそらく、同情されたと思われただろう。
馬鹿にするなというのは、そういう意味だと思う。
雀部美菜先輩。
美術部に入部したての頃は、厳しそうな先輩だな、くらいにしか思ってなかった。
他の二人の二年の先輩は優しそうと言うか、マイペースなのに、この人だけちょっと雰囲気が違うな、と思ったのだ。
どうして一人だけ厳しい雰囲気なんだろうと最初は不思議だったが、一緒に部活動をしていく内に、だんだんその理由がわかってくる。
雀部先輩は、とてもストイックだった。周りに厳しいというよりも、どちらかというと自分に厳しいのだ。自分に厳しく、それを行動で示し、周りに見習わせようとする。
他の一年生がどう思っているかはわからないが、それに気付いてから僕は、彼女の見方が少し変わった。実はこの人は、とてもすごい人なんじゃないか、と。
それが更に大きく変わったのは、一学期が終わり夏休みに入ってからだ。
たまたま駅前をブラブラしていたら、制服姿の雀部先輩を見つけた。
ちょっと距離があったし、先輩は早足でどこかへ行ってしまったから声をかけられなかったが、その歩いていった方向と服装から、学校に行くんだとすぐにわかった。
それが一回だけなら、特になんとも思わなかった。
僕はそれから何度も、先輩が学校に向かう姿を目にすることになる。
もっとも、三回目からは偶然ではなく、ひょっとしたら今日も行くかもしれないと思い、見に行くようになったからだ。
先輩は決まった時間に、駅前に現れて学校へ向かう。ほぼ毎日。
さすがに、夏休みなのになんでこんなに毎日学校に行くのだろうと、気になった。
補習を受けるような人ではないし、なにか委員をやっているという話も聞かない。
となると……理由は一つだけだが、それでも腑に落ちなかった。
結局僕は、自分も制服に身を包み、先輩が登校する時間に合わせて学校に行ってみることにした。
雀部先輩はいつもの時間に現れ、学校に向かう。後をつけるのは気が引けたが、見つかったらちょっと学校に用事があると誤魔化せばいい。
しかしそんな心配は杞憂に終わり、見つかることなく学校に到着する。
先輩は一度職員室に寄ると、美術室へと向かった。
ああ、やっぱり。部活動、美術室に絵を描きに来ていたのだ。
それでも、おかしいな、と思う。
確かに文化祭のテーマは天使の絵と、一学期の内から決まっていた。
受験で忙しい三年生が、夏休みを利用して描きにくることはあると聞いていたが、比較的時間のある一、二年生は夏休み明けから取りかかればいいと言われていた。というより、次期部長に決まった当の雀部先輩が、そう言ったのだ。
何度か駅前で先輩を見つけ、何度か学校まで見に行った、そのある日。
僕は三年の先輩に見つかり、逆に尋ねてみることにした。
「雀部? ああ、あいつも真面目だよな。こないだ俺が描きに来た時に聞いたけど、なんでも他の一、二年より早く仕上げて、示しを付けるんだってさ。新部長、張り切ってるよ」
やっぱり、やっぱりそうなのか!
その時僕は、自分の雀部先輩の見方が正しかったことを知り、そしてすごい人ではなく、とても素晴らしい女性なんだと考えを改めた。
その日から、僕は駅前で学校へ向かう先輩を確認し、そして家に帰り自分の天使の絵を描くというのが、夏休みの日課になった。
一緒に美術室で描けばいいのかもしれないが、なんとなく、先輩は見られたくないんじゃないだろうかと思ったのだ。
なにより先輩の行動は、僕たち一年生のためのもの。そしてその結果がわかるのは、夏休み明けなのだ。だったら、その途中経過を見てはいけない。かと言ってじっとしていることもできないから、自分の部屋で絵を進めることにしたのだ。
雀部美菜先輩。気が付けば彼女は、僕の憧れの人で、そして好きな人になっていた。
そんな、ずっと見てきた先輩だから。
先輩が見ている人物が誰なのかよくわかっていたし、そしてその人に近づこうと頑張っているんだということも、わかってしまった。
付き合っているという噂まであったし、他の誰が見てもわかるくらいには分かり易い態度だった。
辛かったけど、でも、僕は先輩がどれだけ努力しているのかを知っている。
先輩のことは好きだけど、好きだから、上手くいって欲しかった。
僕の方を見て欲しいという気持ちと同じくらいに、本気でそう思っていた。
だけど文化祭の前後で、なにかあったようだ。それは些細な変化で、みんな気付いていないようだったけど、それでも僕はすぐに気付けた。
きっと、ダメだったんだろう。
確証は無いけど、でも、おそらく。
嫌なことに、僕はそこでホッとしてしまった。
更に嫌なことに、僕はどこかで、きっと上手くいかない、と思っていたことに気付いてしまった。だから上手くいって欲しいなんて思えたんだ。
上手くいって欲しいけど、でもきっと上手くいかないと思っていたのだ。
いや、努力が報われて欲しいと思ったのは嘘じゃない。矛盾しているけど、本気でそう思っていた。
もし本当に上手くいったとしても、納得できたと思う。
それでも上手くいかないと思ったのには理由がある。
先輩の思い人が、先輩のことをあまり見ていない気がしてしまったから。
そしてそのことを、雀部先輩自身も気付いているんじゃないかと、思ったから。
そう考えてしまった自分が、酷く嫌だった。
全部推論。まったく、押しつけがましい。
雀部先輩に叩かれた頬が痛い。
叩かれて当然だなと、思う。僕は最低な人間だから。
だけど……僕には、あの時他に伝えるべき言葉が見つからなかったのだ。
◇
翌日から部活は再開し、私は普通に参加した。
しかし、美術室に武沢君の姿は無かった。
あまり強制力の無い部活動だから、別に休むのは構わない。だけど……昨日のことがある。私は彼に普通に接し、禍根を残さないようにしたかったのに。
私はため息を吐き、真っ白な画用紙に下絵の線を入れようとする。
文化祭も終わり、特に自由に絵を描いて構わない。私は花瓶でも描こうか、と思っていた。
鉛筆で下絵をさっと描き、早く色を塗る段階に移ろう。
そう思っているのに、手はまったく動かなかった。
私は思わず、じっと画用紙を睨み付けてしまう。
昨日の武沢君の件が頭に残っていて、絵に集中できないのだろうか。
……なにを馬鹿な。そう思いつつも、やっぱり手は動かせない。
困ったわね。やはり、彼が今日来ていないというのは痛い。
まさかこんなに気にしてしまうなんて。私としても驚きだった。
私は鉛筆を置き、椅子に深く座り直しため息を吐く。
(……本当に、それだけ?)
びくりと背もたれから背中を離し、目を見開いて画用紙を見る。
私が絵を描けないのは、本当にそれだけの理由だろうか?
私は今日、なにを描こうとした?
花瓶。普通の花瓶だ。しかもすでに何度か描いたものを、角度を変えただけ。
それだって立派な練習だと思うけど、それでもどこか、私は――
(花瓶『でも』? 『でも』だって?)
「そんな……」
私は、今日――手を抜いた?
絵が上手くなりたい。その一心で技術を磨いてきた、私が。
今日に限って、その手を抜いたのだ。
あれだけストイックに頑張っていたのに、無意識のうちに手を抜いていた。
やろうとしたことはちゃんとした絵の練習でも、問題はその心構え。
私は、いつだって――
(あぁ、そうか……そうだった)
ようやく、私は気付いてしまった。
私は、自分の絵の目標を失ってしまったことに。
絵に対する情熱が、冷め切ってしまったことに。
彼の絵に近付きたくて、彼女の絵に勝ちたいという気持ちが、もうどこにも無い。
愕然と、自分自身に絶望し――。
結局その日は、絵は真っ白のまま。活動終了時刻と共に、美術室を飛び出してしまった。
*
入れ違い、武沢夏樹は美術室に入り、周りの部員と少し話し、雀部美菜が使っていたイーゼルを覗き込み、そしてすぐに飛び出して行った。
◆
「雀部先輩っ!!」
「――! た、武沢君?」
校内を走り回った結果、屋上でようやく雀部先輩を見つけた。
一番、ここであって欲しくなかったけど、だけど……。
「はやま…………あ、そっか」
あまり屋上に出たことがなかったから忘れていたけど、この学校の屋上のフェンスはかなり高く、しかも上の方は内側に少し傾いている。とてもじゃないけど……想像してしまったようなことは、起きない。
「はやま……る? ……まさか武沢君、私が身投げでもすると思った?」
「い、いえいえ! とんでもない、です」
先輩はフェンスに手を当て、夕日を眺めているだけだった。
僕が動揺して慌てて首を振ると、彼女は振り返りふふっと笑う。
その顔を見て、僕はぞくりとする。悲しい、自嘲的な笑み。だけど、とても儚く美しい。
美しいと感じてしまうことに、背徳感を覚えつつ。僕はゆっくりと歩を進め雀部先輩に近寄る。
「でも、そうね。それもいいのかもしれない」
「先輩?!」
「冗談よ。私は、自ら死を選ぶなんてこと、絶対にしない」
先輩はさっきと同じ笑みを浮かべ、がしゃんとフェンスに寄りかかる。
「……雀部先輩らしい、ですね」
「私らしい? 今のが?」
「はい。先輩は、やっぱりとてもストイックだ」
「ストイック、ね。よく言われるわ」
先輩は空を仰ぎ、日が沈み紫色に変わっていく夕空を眺める。
「でもね、私はもう、そんなにストイックでいられないわ」
「どうして、ですか?」
「わからない? あなたは私のことを、ずっと見ていたんでしょう?」
「……目標が無くなったから、ですか?」
「なによ、わかってるんじゃない」
顔を下げ、僕のことを睨み付ける。
「もう、いいのよ。私は、疲れた。……武沢君。あなたが思っている通り、私はあの人が好きで、だけど振られた。失恋した。それだけのことなのよ」
「そんな、それだけのことってことは、ないでしょう」
「いいえ。だって、それで終わりじゃないでしょう? 部活動は続くし、私は部長だから辞めるわけにもいかない。少なくとも来年の夏休みくらいまでは、彼と顔を合わせ続けるのよ。だからこれは、それだけのことなのよ。そうでなくちゃいけないの」
「それはそうですけど……。って、辞めたいんですか?」
「そうね……。私、絵が上手くなりたくて、苦しくても描き続けてきたけど、でももう、絵に対する情熱がね、冷めちゃったのよ」
「だから今日、まったく絵を描いていなかったんですね」
「美術室、寄ったの? 活動中は来なかったのに」
「それは……すみません。その、なかなか踏ん切りが付かなくて」
雀部先輩と会った時、どういう顔をしたらいいかわからなくて、校内をウロウロしていたのだ。意を決した時には部活動が終わっていて、これでもし先輩がいなければ仕方がない、と思っていたのだから我ながら情けない。
「ふぅん……。まぁそれはいいわ」
「はい……。それで」
「ええ、あなたの言う通りよ。描けなかったのよ。手が動かなかった。手抜きしている自分が許せなかったし、かと言って本気にもなれなかった。私は……自分に絶望したわ」
「だから、もう筆を折るんですか?」
「武沢君。あなたはどう思う? 私は、ここらが潮時だと思ってる。はっきり言って、私は彼のような絵の才能は無いわ。それにね、ここまで頑張って来た動機が、不純でしょう? 彼に近付きたいから、なんて。本気で絵を描いている人に失礼でしょう」
「僕はそうは思いません。憧れの、目標にできる人物がいるというのは、大事なことです」
「そうかもしれない。けど、私は彼に片思いしてただけ。そんな理由でも、いいの?」
「それは……」
反論しようとして、言葉が詰まる。
返す言葉がない訳じゃない。言い返すことは可能だ。
先輩は絵が好きなはずだと言えばいい。
だけど、それは本当に正しいのだろうか?
雀部先輩は、絵に対する情熱が消えてしまったと言う。それに今日気付いて、絶望したと。そんな人に、絵が好きだという気持ちを思い出させたとして、今までのようにストイックになれるだろうか? 結局は目標を失ったままなんじゃないか?
なにも言わない僕に、雀部先輩は僅かに微笑んで、背を向けてフェンスの向こうの今にも見えなくなりそうな夕陽を眺める。
「ありがとう、武沢君。でも、もういいのよ。さっきも言ったけど、もう疲れたから。私には、どんなに頑張ったって、彼のような……いいえ、あの二人のような絵は、描けないから」
先輩は強くフェンスを握りしめ、呟く。
「私には、届かない」
(違う、そんなことない!)
叫びたいのに、叫ぶことができない。
自分の中で答えが出ていないのに、いい加減な言葉を投げかけたところで、先輩の心に届くとは思えない。
それでも、声に出せば慰めにはなるだろう。
だけど、でも。……僕の知っている雀部先輩は、それを望まない。
自分に厳しく、そしてそれを示し、後輩に伝えるその姿勢に、僕は――
(――そうか)
「先輩!」
「……なに?」
僕がなにかを言ってくるだろうと予想していたのか、そしてさっき叫ぼうとしたことを言おうとしていると思われたのか、振り返った雀部先輩は悲しそうな顔をしていた。
「雀部先輩の天使の絵は、あの二人とは違いますよ」
「……? そうね」
先輩の顔が、怪訝な表情に変わる。
「確かにあの二人の先輩は、どこか人とは違うセンスがある気がします。それはきっと、部員のみんな思ってることです。だから雀部先輩が、近付こうとしても近付けないのは、ある意味当然ですよ」
「なに? トドメを刺してくれるの?」
「違います! 雀部先輩。近付ける必要なんて無いんだ。だって先輩はあの二人より上手いし、天使の絵だって、僕は先輩の絵の方が綺麗だと思うし、とても好きです」
「……同情ならいらないわよ」
怒気を孕んだ声。だけど僕は、更に先輩に詰め寄った。
「同情じゃありません! 先輩の天使の絵が、あの二人の絵に劣っているわけがない」
「劣っているわよ!」
「いいえ!」
ガシャン!
僕は先輩を押さえ込むように、フェンスに両手を叩き付ける。
両腕の間、目の前に先輩の顔。
さすがに一瞬、先輩は脅えたような表情を見せるが、すぐにキッと僕を睨んでくる。
だけど僕はその視線を受け止めて叫ぶ。
「先輩があんなに時間をかけて描いた絵が、劣っているはずないんですよ!」
「な…………」
先輩の目が見開く。
「僕は知ってます。夏休みに入ってすぐ、毎日のように先輩が美術室に通ってたこと! そこで、描いてたんでしょう? 天使の絵を!」
「それは、そうだけど……どうして、知ってるのよ」
「たまたま駅前で見かけたんです。一度ならともかく、何度もですよ。だから、僕も学校に行って確かめてみたんです」
「……なるほど。特別隠していたわけじゃないから、見られててもおかしくないわね。でも、そう……。他の部員は、知ってるの?」
「わかりません。少なくとも僕は喋ってません」
「そう。……けど、私のことを見ていたというのは、どうやら本当のようね」
「はい。信じてもらえたようで、なによりですよ」
「けどね。だからって、私がどれだけ時間をかけたって、やっぱり駄目なのよ。私の絵は、全然届かないから」
まただ。またあのとても美しい、儚い笑みだ。
「先輩。……僕が言いたいのは、今回の天使の絵のことだけじゃありません」
「……どういうこと?」
「確かに、天使の絵に関しては、夏休みから描いていたんでしょう。でも、絵は……今までずっと、描き続けてきたんでしょう?」
「それは、そうよ」
「僕は、美術部に入ってからの半年間しか先輩のことを知りません。でも、先輩のことだ。ずっとストイックに、描き続けてきたんでしょう? ひたすら技術を磨いてきたはずだ」
「ストイックに……技術を」
「はい。僕はあの天使の絵を見て、思いました。これは、先輩の今まで磨いてきた技術の結晶だ。何枚も何枚も絵を描き続けてきて、その頂点に立つ絵なんだ。磨き上げられた作品なんだ。……とても、綺麗な天使だって、心から思いましたよ」
「あ…………」
先輩の瞳が、僕の目を見て揺れる。動揺、そして僕の言葉がゆっくりと心に溶け込んでいく様を、その心の動きすべてを映す表情を、間近で見ることができた。
「雀部先輩。……ずっと、頑張ってきたんですね」
「うっ…………」
つっと、涙が一筋流れる。
先輩はそれに気付くと袖で顔を隠してしまう。
「雀部先輩は、すごいです。あの天使の絵は、本当にとても綺麗でした。……後夜祭の直前、美術室に寄ったのは、先輩の絵をもう一度見たかったからですよ」
「……っ! 私は……!」
先輩はそれ以上なにも言えず、静かに泣き続ける。
僕は両手をフェンスから離し、もう完全に日が沈んでしまった空を見上げていた。
「……みっともないところを見られたわね」
「もう大丈夫ですか?」
「ええ。大丈夫よ」
僕は先輩の横に並び、フェンスに寄りかかる。
「私は、さっきのように認められることが、無かったかもしれないわ」
「そう、なんですか?」
「どれだけ頑張っても、天才的なセンスの持ち主には敵わない。褒められるのはいつもそんな彼らで、私はついで。……だからあんな風に言われて、つい、ね」
そんな、と思いつつも、どこかで納得してしまう。
世の中不公平だなと、思ってしまって。
「もちろん、色々あって私自身不安定だったのもある。……けど、武沢君」
先輩はフェンスから背を離し、僕に向かい合う。
「ありがとう。私の絵を認めてくれて」
「先輩……」
その時見せた、雀部先輩の笑顔。
どこか吹っ切れたような、嬉しそうな笑顔だった。
「さてと……。気に入ってくれたのは嬉しいけど、本当にこれからどうしようかな。今なら、本当に美術部を辞めてしまうのも、ありだと思えてしまうわね」
「え、ちょっと待ってください! それはダメですよ!」
「どうして? 私は今、結構晴れ晴れとした気持ちなのよ。あなたのおかげでね。これで、未練はなにもない」
なんてことだ! 僕は、雀部先輩をすっきりさせてしまった。
それ自体は良かったけど、辞めるなんてそんなの認められない。
「ダメですってば! 先輩の絵は、僕の目標なんだから!」
「……目標?」
「そうです! その目標がいなくなっちゃったら、僕はどうしたらいいんですか!」
「それは……」
驚いて、だけどふっとまた笑顔を見せる。
「随分、勝手なことを言うのね」
「勝手じゃないですよ。だって先輩はこの半年間、そうなるようにずっと仕向けてたじゃないですか」
「……そうなるように?」
「僕たち一年に、手本となるように自分に厳しく、示し続けた。だから目標になるのも当然です。それに、ここで辞めてしまって、それで示しが付くんですか?」
「あっはは! 言うわね。……確かに、それはそうかもしれないわね」
突然笑いだした先輩に、思わず驚いてしまう。こんな風に、声をあげて笑うのを初めて見たかもしれない。
「ここで投げ出すのは、私らしくないってわけね。……いいわ。美術部は続ける」
「よかった……」
「でも、そう。私の絵を目標にしているというのは、そういう理由なのね」
「……え?」
雀部先輩は少しだけイタズラっぽい笑みを浮かべる。
「この間告白されたから、私はてっきり……」
「なっ……! それは、今のはその、理由の一つで、もちろん、僕が先輩の絵を目標にする理由は……!」
ぴっと、僕の口に先輩の人差し指が当てられる。
「……ありがとう。武沢君。あなたの気持ちは……あんなこと言われたの初めてだったから、正直に言えば、嬉しかった。それに今日は、情けないところを見せてしまったけど、おかげで色々吹っ切ることができた。……絵も、頑張ろうと思えるようになった」
「…………」
指は口から離れていったが、それでも僕は声を出せなかった。
「でもね。ごめんなさい。私は、あなたの気持ちには、応えられない」
顔が歪んだのが、自分でもわかる。同じように胸が、心が歪んだから。
……けど、わかっていた。こんな結果、わかっていたことだ。
「もうどうにもならないって、わかってる。それでも……まだ、ね」
「………………」
わかっていた。人の心はそんな簡単に、切り替わらない。
ついこないだまで、好きな人がいて。その人に振られたからって、すぐに気持ちをリセットできるわけがない。
特にこの、雀部美菜先輩という人は、そういう人だ。
でも……だからこそ。先輩は、いつか自分の気持ちにきちんと区切りを付ける。
「武沢君?」
「あ……はい」
少しだけ心配そうな顔。大丈夫です、とは、声に出せなかった。
雀部先輩は、ため息を吐く。
「……そうね。武沢君、今日からあなたに、副部長になってもらいましょう」
「……はい?」
副部長? 確か例年通りなら、一年生の中から副部長が選ばれることになっていた。
でも今年は雀部先輩が、人数も少ない部だし自分一人で大丈夫と、副部長は特に決めず不在だった。
「よく考えれば、後進を育てるのは必要なことなのよね。それに、やっぱり一人で部をまとめるのは、疲れてしまうと思うから」
先輩のその言葉には、色々な意味が込められている気がして。
(そういえば、部長の彼女をいつもフォローしてたのは……)
「わかりました。やります、副部長」
先輩の側にいられるのなら。僕は喜んで引き受ける。
「そう。じゃあ……今日はもう、いいわね。明日から、よろしくね」
「はい、雀部部長!」
雀部先輩は微笑んで、屋上から出て行こうとする。僕もその後に従って、歩き出す。
前を歩く、先輩の背中。
今日僕は、雀部先輩に振られてしまった。失恋だ。
それはやっぱり悲しいし、心が苦しい。
だけど、いつか必ず。
雀部美菜先輩。あなたを振り向かせてみせます。
あなたが目を離せなくなるような、すごい絵を描き上げて見せます。
僕はこの時、彼女の背中を見ながら、心の中で誓った。
普通の恋愛シリーズ、四作品書かせていただきました。
どうしてもこの最後の作品は「天使の絵」と関連が強くなってしまい、できれば前三作を読んでから読んで欲しく、連載形式で投稿させていただきました。
それから「片想いメール」は、加筆修正させていただきました。
本当は投稿後にあまり手を加えたくないのですが……すみません。
さて、普通の恋愛シリーズはこれで締めとさせていただきます。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
また新たな話を投稿する時は、是非よろしくお願いします。