第九話 思わぬ出逢い
真っ暗な奈落の底で、クライドは痛みに呻く。深く積もった落ち葉の上に着地したので怪我はないが、かなりの高さを落ちてきたので落下の衝撃はかなりのものだった。巻き上げられた腐葉土が体中にかかって不快だが、柔らかい落ち葉の存在に感謝する。
グレンが隣でむせていた。よかった、彼も生きている。
「平気かクライド? どこも折ってないな」
「ああ。グレンは」
「俺は大丈夫。さて、一体どうするか……」
はるか上の方に光が見える。二人でがっくりと肩を落とすが、お互いの姿も確認できない。手探りでグレンの腕を触る。彼はその手を掴み、引っ張り上げて立たせてくれた。数歩歩くと落ち葉が少ない場所に出て、クライドは手探りで足元から石を拾った。その小石を、闇に向かって投げる。十メートルくらい先で落ち葉の中に落ちる音がしたので、そちらに向って少しずつ慎重に歩き出す。とにかく壁のようなものに触れれば、それを元に登ることができるだろうと思ってのことだ。
「お、いい考えだな。ちょっと待てよクライド、俺の手を使おう」
「その手があったな」
「手だけに」
笑いあいながら、真っ暗な洞窟の中をよろよろと歩く。グレンが足元を触って確かめてくれるので、問題なく歩ける。
上からクライドを呼ぶアンソニーの声が聞こえる。だがその姿は思い描けなかった。こんな状況下では、何かを想像することなど自殺行為だろう。だから、クライドは想像することを制御していた。何も考えないようにしているのだ。頭痛が治まるように頑張っていたら、自然と魔法の制御の仕方を覚えてしまった。
確かに、町長の言うとおりクライドはいずれ強くなるだろう。クライドは、自分でそう思った。こんなに短期間で自分の力を制御できるようになってしまうなんて思っていなかった。魔法はそれそのものが特別な力だということは間違いないが、クライドの力はその中でもさらに特別なものだ。確証は無いがそんな風に感じる。
クライドは二度ほど、ひどい眩暈で腐葉土の上に倒れた。グレンがそのたび手を貸してくれて、何とか起き上がる。
「ノエル、こっち!」
不意にアンソニーの声が聞こえた。驚いて耳を澄ますと、落ち葉の上を走る音も聞こえる。目眩で何度か倒れている間に、あの二人は降りてきてしまったらしい。上にいればロープで引き上げてもらう戦法が使えたかもしれないのに。
落胆したが、ふと我に帰る。こんな暗闇の中を、どうして走れるのだろう? どう聞いてもあれは歩いている速度ではない。
しばらくして、落ち葉と腐葉土の上に誰かが倒れる音がした。大方、無鉄砲に暗闇を走り回ったアンソニーが木の根に躓いたとか、柔らかい地面に足を取られたとかそういうことなのだろうとクライドは納得しかけていた。もちろん、その光景を想像しないようにしながら。
「おい大丈夫か? そんなにふらついて」
一瞬、耳がおかしくなったのかと思った。聞こえたのは明らかに仲間の声ではない。同年代と思われる、少女の声だったのだ。口調は男っぽいのだが、可愛らしい少女の声だ。きっと、アンソニーかノエルのどちらかが少女にぶつかったのだろう。ノエルが謝っている声が聞こえるということは、ぶつかったのはノエルだ。
この少女は一体どこから来たのだろう。自分たちと同じように、穴に落ちたのだろうか?
「あんたら何者だ? あたしの声、聞こえてるんだろう」
気の強そうな少女の声が洞窟内に響き渡る。きっと背はクライドよりも高くて、たとえるなら女戦士のような人だろう。もしかすると彼女は地底王国の女王陛下かもしれない、というとんでもない想像をしてしまってクライドは苦笑した。すると、うっかり想像してしまったせいでかなり頭痛が酷くなった。一瞬、意識が薄れたように感じる。
「ああ」
隣からやや警戒を含んだ調子のグレンの声が聞こえた。勿論グレンも目が見えていないだろうから、彼女を視覚で認識してはいないだろう。
「ああ、聞こえてる」
必死で意識を保っている、クライドの声が洞窟内に響いた。自分自身の声だと認識するのに酷く時間がかかったように思う。例えるならそれは、今にも死にそうな声だった。
クライドの声を聞き、仲間達が口々に心配する声をかけてくれる。しかしクライドには、それに答えられるほどの体力など残されていなかった。
「聞こえない人いるの? 僕には、君の姿も見えているけど」
不思議そうに言っているのは、アンソニーの声だ。純粋な疑問を含んだ、子供っぽい声。意識が途切れそうになるたび、人の声も途切れていく。うっかりスルーしそうになったが、見えているとはどういうことなのだろう。アンソニーはあの大荷物の中に、暗視ゴーグルでも入れていたのだろうか。
「そっか。あんたら人間なんだな。人間で、ついでに魔道士だろ? 見えるようにする」
少女の声はそういうと、なにやら不思議な言葉を呟き始めた。心地よいリズムを持った、いうならば歌のような言語だった。
こんな乱暴な言葉遣いをする少女からは考えられないぐらい綺麗な言葉だ。これをこの国の文字で表記するのは不可能に思えた。少女はクライドたちと同じようにこの国の言葉を話しているのに、この言葉だけは違う世界のもののように思える。それにどうしてか、なぜかどこか懐かしいようにも思えた。
少し経ってからクライドは、焦点を結ぶのが困難になってきた視界がだんだん景色を捉えだしたのに気づいた。
最初に見えたのは、仲間達と一緒にいる見覚えのない痩せた赤い髪の少女だった。先ほど想像した女戦士のような風貌ではない。色白で女優のように整った顔立ちをしていて、背がとても小さい。この中で一番小さいアンソニーの、耳の高さぐらいまでしか身長が無い。可憐という言葉が良く似合うが、彼女の言葉遣いはその可憐さを封じていた。
ちらりと、彼女が銀色の瞳をクライドに向けた。それを見た瞬間、何故か唐突に頭痛が酷くなった。そのままクライドは倒れこみ、意識を失った。
意識のなかった時間は一瞬のようでもあったし、何時間も経っていたようでもあった。クライドはぼんやりした意識のなか、目を開ける。
「ううん……」
頭が激しく痛むし、眩暈も酷い。しかし、痛む頭は柔らかい布製の枕の上に乗っているようだ。ここは山中に開いた天然の落とし穴の中のはずだから、誰かが引っ張りあげた上でクライドを山小屋か何かまで連れてきてくれたということだろう。クライドは、よろめきながら上体を起こす。
身体を起こすとさらに頭痛が酷くなった。一瞬目の前が暗くなり、クライドは眉を顰める。
「まだ寝ていろ、あんたの身体からは大分血が抜けてるんだ。これ以上無理をすると死ぬぞ?」
起き上がるクライドを、さっきの痩せた少女が再び寝かせた。人がいるとしたら力持ちの男だろうと思っていたから、クライドは驚いた。目の前にいる少女はクライドと同じ銀の目をしていて、耳が長くとがっている。顔立ちも体型もまるっきり普通の女の子といってよかったが、髪の色は天然に思えない鮮やかな色だ。まるで南国の鳥の羽のような、鮮烈な赤い髪は艶を纏って美しい。彼女はゆったりした袖口の広いチュニックをきて、七分丈のズボンをはいていた。生成りの色にまとまった質素な格好だ。
麻布に似た硬そうな素材の服からのぞく腕や脚は、やせ細っている。華奢で女の子らしいといえば聞こえがいいが、もう少し肉がついていたほうが心配にならない。今の彼女は、小柄な体格も相まってとても貧弱に見えた。
質素な服装の中で、少女が飾っているのは髪だけだった。腰の辺りまで真っ直ぐに伸ばされた、焔のような赤い髪である。彼女はとがった耳の横あたりから流した髪を胸あたりでゆるくまとめて、球状の水晶のような不思議な髪飾りをつけている。なんだか神秘的な感じがする少女だ。
彼女のあの銀の瞳が、少し怒気を孕んだようにクライドを見つめていた。クライドの瞳によく似た、銀色の瞳。どうしてさっきの少女がこんなところにいるのか、クライドにはわからなかった。血が抜けているという言葉の意味も解らない。見える範囲で自分の全身を眺め回しても、外傷は殆どみられないのに。クライドは、黙って彼女を見つめ返す。
何を差し置いても、一番気になるのは彼女の目の色だった。同じ学校にも近所にも、クライドと同じ銀の瞳を持った者は一人もいない。家にいる祖母と、写真でしか見たことのない自分の父親だけが同じ銀の瞳をしていた。
クライドにとって、この目の色は悩みでもあった。瞳の色自体は嫌いではないが、この瞳のせいで疎外感を味わうのは嫌いだ。小さい頃に一時期だったがからかわれたこともあった。他の誰にもない身体的特徴が、簡単にチャームポイントだと言い切れるほど子供の社会は甘くなかった。
少女は、自分をじっくり見つめているクライドに向かって少し不思議そうな顔をしてみせる。そして次の瞬間、衝撃的な言葉を放った。
「あんた、エルフの血が流れてるんだな。その眼の色は、エルフの色だ。あんたの連れは全然気づいてなかったけど、たまに『運動神経が良すぎる』とか言われないか? そりゃそうだ、人間じゃないんだから」
「え……?」
体中の血液を凍らされたように、嫌な寒気が全身を襲った。もう、ここが何処かなんてどうでもよくなった。幼い頃からずっと疑問だった目や運動神経のことが、同じ銀の目をした女の子にずばりと言い当てられたのだ。エルフという単語に耳を疑ったが、今まで家族以外では一度も出会わなかった同じ色の目の彼女がそう言うのだ。非科学的で嘘っぽいと思いたい気持ちもあったが、信用せざるを得なかった。
もしも両親のどちらかがエルフだというなら、それは間違いなく父の方だろう。銀色の目は彼からの遺伝だ。
信じられないことだが、体育の先生でさえ認めた良すぎる運動神経はこの血統のせいらしい。密かなコンプレックスであったこの眼の色も、この血統のせいだという。驚き、そして複雑な気持ちになった。エルフは別種族であり、人とは異なる。つまり、クライドは人ではない。しかも、エルフでもない。
人間ではないという響きが、どうしようもなく怖かった。人間でもエルフでもないという響きが、さらに怖かった。グレンやアンソニー、ノエルたちとこれからも仲間でいられる自信を喪失する。生物学的にまったく違う生き物だということが発覚したのだから、彼らもクライドをきっとどう扱うか悩むだろう。
「あんたは、魔法を使うときに血も一緒に使ってるんだ。だから、魔法を使いすぎると死ぬからな。人間でもエルフでもないって、そういうことなんだ。エルフの魔法と人間の魔法では根本的に使うものが違うから」
そういうと、少女は保冷材と思しきものをクライドの額に乗せた。頭が冷やされて、少しだけ気分が楽になる。汗でじっとり湿った身体が気持ち悪かった。頭を殴りつけられているかのような頭痛はまだ治まらないし、心の中の整理はまだついていなかった。自分が人間ではないなんて信じたくない。
「人間じゃない? 使うものって何? 町長さんがいってた魔力のこと? そういえば君、名前は? 俺、君が名乗る前に倒れたから何も解らないんだ」
質問したいことだらけだった。自分はまだ新米魔道士だし、魔法のことを全然知らない。人間でない種族のことについての知識も皆無だ。この機会にこの少女から聞いてもいいと思った。
「あたしの名はシェリー。この村で生きるエルフだ。人間に会うのは久しぶりだな。ちなみにあたしは今年で十四になるから、あんたの連れの一番小さい奴と同い年だ。ここはあたしの家。安心しろ、親とも兄弟とも別居してる。誰もあんたを追い出したりしない」
実に簡単にそう言うと、シェリーは長い髪を鬱陶しそうにかき上げた。人は見かけではわからないとクライドは思う。もしかすると自分より年上かもしれないと思った少女が、あのアンソニーと同い年だなんて。年の割には大人びて見える少女だ。背は極端に小さいのだが。
シェリーは、クライドが魔法について殆ど無知なのを知っているようだった。そして、それは魔法のせいらしい。シェリーは、クライドが知識を欲しているのも知っていたのだ。
エルフの中でも特殊な魔法を使うシェリーは、町長と同じように見るだけでその人が魔道士であると判断できる。そして町長が使えない、相手が使える魔法が何なのか判断する魔法も使える。更に、相手の過去を知ってしまう魔法も使えるのだという。相手の目を見るだけで無意識に使えると聞いて驚いた。これが、シェリーの使うエルフらしくない魔法だ。普通、エルフの使う魔法は強力すぎるので無意識には使えないものらしい。
シェリーの両親は雷の魔法を使えた。そして兄弟は、炎や氷の魔法を使えた。なのに、シェリーにはそんな攻撃の魔法は練習しても使えない。シェリーは、いうならば人間の魔道士めいたエルフだった。
「エルフは血だけが魔力でできているけど、人間の場合は生命力や体力も魔法の一部なんだ。簡単に言うと、魔力を持つ人間ってのは全身に満遍なく魔法を混ぜ込んである感じだ。だから人間は魔法を使いすぎると疲れて動けなくなって、集中できなくなってぼうっとするようになる。そりゃそうだよな、全身から魔力と体力、気力の殆どが抜けるんだから」
なるほど、だから今物凄い疲労に駆られているのか。ジャスパーの目を焼いたときも、階段の踊り場で掃除用具にまぎれたときもかなり疲れた。走ったせいだと思っていたが、そうではなかったようだ。
それでは、貧血というのは一体どうしてだろう? そして、血が抜けるというおかしな表現が引っかかる。クライドの視線に気づき、シェリーは続きを語りだした。
「エルフの魔法では、血を使う。エルフの血は魔力で出来ているんだ。人間が体中で魔法を使うように、エルフも全身の血を魔力に置換して魔法を使う。血は物凄く強力だけど、あまり使うと死ぬからすぐに使えなくなるだろ? だからエルフは、魔法を使うより弓矢とか槍を使って敵を攻撃することの方が多いんだ」
「へえ、じゃあ人間は?」
「人間の魔法はエルフに比べると弱い。それでも強くなる魔道士もいるけど、到底エルフの血の底力には及ばない。だって人間には見えない力しかないのに、エルフは魔力に物理的な形があるんだから。千年位前に人間界で強い魔道士が束になって邪神を封じたって話を聞いたけど、あれも完全に封じられてるわけじゃない。人間の魔力なんて、そんなもんなんだ。突然変異に近い形で魔法が使えるってだけだからな」
ううん、とクライドは唸った。突然変異、その言葉に対してだ。確かに身近な魔導士のことを考えて、魔法が完全な遺伝ではないということに気づいてはいた。少なくともグレンの両親は魔道士ではないからだ。魔法が遺伝するものなら、彼の親も魔道士だということになる。
怪訝に思っていると、シェリーがクライドの様子に気づいて話の続きをしてくれる。
「あんたは人間でもエルフでもない。だから両方の利点を存分に使える代わりに、両方の欠点も引き受けなきゃいけない。血を使った強くて持続的な魔法も使えるけど、勿論弱い敵には形のない魔力を使って弱い一撃を加えることも出来る。その代わり、本当に強い魔法を使うなら血がなくなる。血を使わずにある程度強い魔法を使う事も出来るけど、コントロールが出来ていないうちは今みたいに熱やら頭痛やらに苦しめられる。人間が全力で魔法を使うと、今のあんたみたいに体調を崩すんだ。貧血にはならないだろうけど」
それで納得した。やはり、シェリーの話はためになる。町長ともう少し話をして魔法について学んでいたとしても、こんな知識は得られなかっただろう。エルフはきっと、物凄く知的な種族なのだ。そういう能力の高さでいうなら、ノエルもエルフに相応しいかもしれない。
「そっか、俺は魔法を使いすぎて倒れたんだ?」
エルフ特有の銀の瞳をシェリーに向け、クライドは微笑んで見せた。その笑顔に、シェリーが少したじろいだのが見て取れた。多分シェリーはあまり他のエルフと話をしないのだろう。
かつてノエルに助けてもらってお礼を言ったときにも、同じような顔をされたのが鮮明に思い出された。彼はとても孤独だったのだ。あの日、クライドと出逢うまでは。きっとシェリーもそうなのだろう。今まで人の笑顔を見たことがあまりなかったのかもしれない。
「そうだ。あんたはいま全身から強い魔力を使っている。倒れて当たり前だ、馬鹿。完全に魔法をコントロールできているわけじゃないから、それもまた然りだけど」
そうなのか。暫く、血を使わない魔法を練習してみる必要性がある。折角山を越えても貧血で倒れてばかりいるのではどうしようもない。早く治して出て行かなければ彼女も困るだろうが、せっかく魔法を使える人に出逢ったのだ。色々教えて欲しい。
ふと見ると、シェリーと目が合った。彼女は一瞬だけ何か考え込んだが、クライドを見下ろして口を開く。
「今日は歩けないだろうから、ここに泊まっていけ。どうせ今日は野宿でもするつもりだったんだろう? 無謀にもほどがあるぞ。もっとずっと遠くに行かなきゃならないんなら、一日出発を後らせたって計画を練るべきだったんじゃないのか?」
そこで話を一旦切って、シェリーは窓の外を眺めた。釣られてクライドも窓の外を見ると、未舗装だが街灯の灯った道をグレンたち三人が歩いてくるのが見える。目覚めたとたんに衝撃的な発言をされたせいで仲間たちの安否を気遣っている余裕はなかったが、彼らが無事そうで安心した。
遅いな、とシェリーは呟いた。苛立っているようでもあったが、彼らを見つけられたことに対しての少しの安心感も感じ取れる声だった。彼女の呟きを聞いてグレンたちが帰ってきたことに気づき、クライドが身体を起こそうとした。しかし、シェリーがそれを押しとどめる。
「しょうがないから、あたしがあんたたちを助けてやる。大丈夫だから、くれぐれも無茶はするな」
プライドが高そうで、冷たそうに感じていたシェリーがそう言った。今日はつくづく色々な人に助けられる日である。本当に、色々な人の手を借りて今日を乗り切ってきた。運がいいのだろうか、とクライドは思った。ふとシェリーを見ると、彼女は悲しそうな笑みを浮かべていた。クライドを見て、何を思ったのだろう。