表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/69

第八話 無事でいて

 ヘリコプターや飛行機がなかったころは、街を出て行くためにこの山を越えていたという。今も物好きな人間は歩いて山を越えることがあるというが、クライドの知る限り実在するレアケースは近所の気難しい登山家ただひとりだ。

 山には遥か昔から歩かれ続けて踏み固められた獣道のような登山道があった。その道は、蛇行しながら山の中腹に向かって続いていた。これに沿っていけばきっと分岐点に出て、山頂を目指すのではなく反対側に降りるルートに出られる。どれぐらいの時間がかかるのかは解らないが、とにかく登らなければ。

そうして歩き出してから、数十分後。早くもアンソニーが音を上げた。

「ねえ、休もう? 疲れたー!」

 そう言うとアンソニーはその場にどっかりと座り込み、肩や腰をさすっている。疲れなど微塵も感じていない様子のグレンは、呆れたようにそれを見下ろした。そして、どうしたものかと首を捻っている。呆れ果てるグレンの隣で、ノエルはアンソニーを励ました。

「ほら、まだちょっとしか来てないでしょ。頑張って、アンソニー」

 ノエルの穏やかな声を聞きながら、クライドは辺りを見回す。丁度、すぐそこに湧き水が流れていた。ここで少し休むのもいいかもしれない。

 アンソニーがこの状態では先に進めない。隣で必死にアンソニーを励ますノエルにも疲労の色が見えたし、クライドは頭痛に悩まされていた。歩くたびに激しく揺れる視界。眩暈もなかなかのもので、木や岩肌に触りながら出ないと真っ直ぐ歩けない。

「休もう、俺も頭痛がひどいし」

 休憩を取るということを肯定したクライドを見て、ノエルはアンソニーに『よかったね』と言った。早く山越えをしたいという意見のグレンは、渋々だが納得してくれる。

 クライドは、そばに流れていた湧き水を一口飲んでみる。冷たくておいしい水だ。もう一口飲もうと屈んだ時、首からあのお守りがするりと出てきた。不思議な石に不思議な文字、中心がほんのり陽炎のように揺らめいて見える。雫型のデザインは、クライドの好みに良く合っていた。ひと目見たときから気に入った石だ。それを眺めているうちにふとあることに思い当たり、クライドはそれを外してノエルのところにもっていった。

「ノエル、ここになんて書いてあるか解るか?」

 五ヶ国語を理解するノエルならば、きっとこの文字を読んでくれるだろう。一体どういう意味なのか知りたい。父が自分に遺してくれた唯一のものなのだ。どんなメッセージが込められているのか気になる。

 受取ったノエルは知的な緑色の瞳で真っ直ぐに石を見下ろして、斜めにしたり逆さにしたりして暫く考えていたがやがて首を横に振った。

「僕が知る限り、こんな文字を使う国はないよ。象形文字の一種なのは間違いないと思うけど、どちらかというと文字というより記号だね」

 がっくりした。父からの言葉を受取れるかもしれないという、淡い希望は消えた。クライドの落胆具合をノエルは不思議に思っているようだが、それもそうだろう。ノエルには父のことを話していないし、この石が何なのかまだ誰にも教えていない。

 実は、クライドの父について話してあるのはグレンだけなのだ。本当はグレンにだって言うつもりはなかったが、流れで話さざるを得なくなったので全て伝えてある。彼は自分の父親と不仲だから、複雑そうな顔でクライドの話を聞いていた。

「グレン、これは父さんから貰ったんだ。父さんがばあちゃんに預けていたらしくて」

 父からの初めてのプレゼントだ。この中で唯一父のことを打ち明けたグレンになら、見せる価値があるだろう。そう思って彼に声をかけたが、グレンはどんな顔をしていいか解らないようだった。気まずそうにクライドを見つめ、彼は哀しげに眉を下げる。

「余計寂しくならないのか? お前の父さん、それ以外何も残さなかったんだろ」

「この先で会えるかもしれない。母さんは死んだっていうことにしてるけど、俺は諦めていないから」

 明るく笑うクライドを見て、アンソニーがノエルに目配せをする。ノエルは視線で、わからないと言いたげな反応を返していた。すると、アンソニーは当たり前のように疑問を投げかけてくる。

「クライドのパパってどんな人なの? ずっと聞いちゃいけないと思ってたんだけど」

 ここで切り込んでくるアンソニーの素直さが好きだとクライドは思う。まどろっこしく『聞きたいけど聞きません』とでも言うような雰囲気を出し、話してほしそうにしている相手が一番苦手だ。

「父さんは旅に出て、ずっと帰ってきてないんだ。小さい俺と母さんを置いて、一人で行っちゃったらしい。でも母さん、父さんを責めるようなことは言わないんだ。だからいい父さんだったんだと思う。うちの中じゃ、父さんの話題はタブーだから細かいことは全然知らないけど」

「そうだったんだ…… 会えるといいね」

「そうだな」

 アンソニーはシンプルな言葉で、明るくクライドの気持ちを(おもんぱか)った。年下の子供のように扱われがちな彼の、こういう些細な気遣いはその純粋さ故だ。何の含みも無い真心が伝わってくる。気持ちが凪ぐのを感じて、クライドは微笑んだ。

「港町に行けば、お父さんの情報を知っている人がきっといるよ。この町から出た人は、あの港町を絶対に通るはずだから」

 ノエルが具体的にそう言って笑った。彼は父との再会が実現可能であることを論理的に証明してくれようとして、それはそれで心強かった。空気が軽くなったところで、ノエルがふと森の方を見る。

「大分日が傾いてきたね」

 言葉に釣られてクライドも森を見る。木々の間から見える夕日が、西の空を茜色に染めていた。そろそろ日が落ちる。そうすれば、登山の続行が難しくなってくる。

 ノエルはクライドの頭痛をとても心配してくれているようだ。そして、今夜の宿などについても深く思案しているらしい。確かに、早く森から抜け出してテントを張らないと野宿も出来ない。

 様々な思考をめぐらすクライドの隣で、冷たい水を飲んで元気になったアンソニーがまた歩き出す気になったようだ。重い荷物を背負い、テントを抱えるアンソニー。

「こんな斜面じゃ、今夜テントを張るのは無理だろうな」

 グレンがそう言って、アンソニーが抱えたテントを見る。この年代の少年なら五人ぐらいは余裕で寝られそうな、とても大きなテントだ。広さなら何の問題も無いが、そんなものを張れるところはこの斜面には存在しない。もう少し上ったところに開けた場所がありそうだが、そこまではこの急な斜面が続いている。陽が落ちる前にそこまでいけるかどうか、微妙なところだ。あまり暗いとテントを張るのも一苦労だ。

 心配をかけたくないので皆には言えないのだが、クライドの頭痛はどんどん酷くなってきていた。どうにかたどり着けたとしても、手伝えないかもしれない。何だか、絶望的な気分だ。

「困ったなあ……」

 大きなため息をついて、クライドはすぐ傍に生えている樹木にもたれかかった。上を見上げると、天に届くかと思われるぐらいの木の高さを実感できる。目を凝らすと視界が揺れるので、慌てて目を伏せる。

 本当に、困ったことがたくさん増えすぎてしまった。こうしている間にも、頭がどんどん痛くなる。そして、どんどん西日が消えてゆく。あの消え行こうとしている茜色を、どうにかとどめる方法はないのか。そんなもの、あるはずがない。まずいことになった。

 痛さのため無意識に頭に手をやったクライドを見て、アンソニーが心配そうな顔をする。

「クライド、顔色悪いよ。大丈夫?」

 そういわれて、クライドは仲間を安心させるために微笑んだ。しかしその笑みは、仲間達に安心どころか不安を与えてしまったようだ。笑っては見たものの、自分で上手く笑えていないと思ったくらいなのだから。グレンもノエルも、心配そうにクライドを見ていた。

「大丈夫だ、心配すんな」

 大丈夫とは言ってみたものの、クライドの体調はかなり悪かった。大丈夫だと思いたいが、このまま歩き続けたらきっとクライドは倒れるだろう。それでも歩みを止めるわけには行かなかった。もう少しで開けたところに出る。そうすればテントで休める。だから頑張って歩かないと、皆が困る。

「嘘だ、絶対大丈夫じゃないだろ。ほら、腕よこせ」

 そう言うと、グレンはそっとクライドの腕を自分の肩に回してくれた。クライドは大人しくグレンの肩に凭れる。そして、二人三脚のように歩き出した。その後ろを、ノエルとアンソニーが歩いてついてくる。

 気を利かせて、ノエルはクライドの荷物を持ってくれる。彼は自分の荷物だけでも精一杯だという様子だったのに、自分の荷物と同じぐらい重みのある荷物を引き受けてくれた。クライドは遠慮して、ノエルに荷物をもたなくても良いと言いたかったが、酷い頭痛がそれを許さなかった。

「クライド、無理はしないで。歩けないなら休んだっていいんだよ」

 不安げな声でノエルは言った。頼りなげな顔で笑って答え、クライドは歩いた。皆に迷惑をかけたくない、その一心で足を動かす。

 と、そのとき。

 クライドは、足元に違和感を覚えた。右足を踏み出すと、左足もろとも大きく沈む。あっ、と思ったときには遅かった。落ち葉と腐葉土に埋もれて解らなかったが、そこは大きな穴だったのだ。樹海には天然の落とし穴が無数にあるという。この山道も例外ではなかったようだ。クライドと一緒に、肩を貸してくれていたグレンも落ちてゆく。

「ああっ!」

「うわあ!」

 真っ暗な奈落の底へ、引きずり込まれるようにクライドは消えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ