最終話 本当の終り
町長に呼ばれているということを忘れかけていた。ようやくそれを思い出して、役場に向かったのは午後の五時のことだ。窓の外では、山に向かって夕陽が沈みかけている。
アンシェント学園の生徒は、ちらほらとだが下校している。このあと部活があったりするので、本格的に生徒たちが下校をしはじめるのは午後の六時ごろになるだろう。
クライドは、明日からまた学校に通えるということをとても嬉しく思っていた。帝王との戦いで制服の前面は大きく切り裂かれたが、予備の制服でしばらく持ちこたえようと思う。
町役場まで、グレンもノエルもアンソニーもついてきてくれた。シェリーは祖母や父に引き止められてエルフの村のことを語り続けていたので、しぶしぶといった感じだがクライドの家に残ったのである。
役場に入って、クライドは受付で町長への面会を求めた。二ヶ月前に応対してくれたあの女性は、かなり疲れた様子だった。化粧は崩れ、服もよれていて、彼女も結界を張る魔道士の一人なのだと確信する。クライドはあの時と同じように、町長に会いたいと言う旨を伝える。
「町長は死ぬほど疲れているの、坊や。何の用?」
言葉にあからさまに棘があって笑ってしまう。それもそうだ、きっとこの人達はろくに家にも帰れない状態で町長の補佐をして結界を張っていたのだ。表向きは役場の事務員として勤務しているのだから、魔法の使えない人に対しては素性を隠しながら役場としての雑事もこなさなければいけないだろう。大変な仕事だと思う。
「さっき帝王を封印した鐘を、届けた者ですが。町長に呼ばれています」
そう言うと、女性は疲れた顔にやっと笑みを浮かべた。
「ああ、あなた、あの時の子ね…… ご苦労さま、よくやってくれたわ」
「お姉さんも。後ろの皆さんも。ありがとうございました」
その言葉に、彼女の後ろで仕事をしていた疲れた職員たちも顔を上げる。ニヒルに笑みを浮かべて片手をあげて答えてくれる人も、肩をすくめる人もいた。
「すごい町役場でしょ、ここ。あなたも将来、ここで働いたら? 歓迎するわ」
「考えておきます」
「階段を上がって町長に会いに行って。私たち、まだ持ち場を離れられないから」
執務室には、町長がいた。鐘はもうないので、恐らくもう町長が付け直してくれたあとなのだろう。町長は窓の外を眺めて、物思いにふけっている様子だった。しかしその顔は憂いを帯びているときのような物寂しげなそれではなく、どことなく楽しげでもあった。
「町長さん、クライドです」
声をかけると、町長は口の端に軽く笑みを浮かべながらこちらに歩み寄ってきた。そして、クライドを見下ろしてこういった。
「結界が薄いうちに公共事業を進めるなんて考えも、帝王が消えたからこそだ。飛行場の滑走路も、管制塔も、劣化した橋桁も、焼却炉の不調も魔道課の職員たちが直してきたよ」
「すごい! 飛行機、頼もうと思っていたんです。山越えは二度としたくありません」
「ははは、ごめんね。あの時は君たちのためにヘリをチャーターしている余裕すらなかった」
これからは、アンシェントを出るのに徒歩で無理やり山を超えなくてもよい。飛行機が飛ぶようになれば、この町は陸の孤島ではなくなるだろう。クライドはほっとした。
「行政に魔法を使うのはご法度だが、今年度くらいは許してもらおう。小さな町だ、国にもそうは睨まれまい」
「どうしてダメなんですか?」
「表向きには魔法は存在しないことになっている世界だからね。もし魔法を乱発して公共事業を行えば、財政のパワーバランスも崩れてしまう。魔法を使えない人々の職業がなくなってしまうしね」
その通りだった。あまり無闇には魔法を使えないが、それでいい。限られた人だけに扱える夢のような力なんて、表沙汰になったら争いか金儲けの種にしかならないように思う。
町長は微笑むと、ドアの方を指し示す。
「さて、そろそろ本題といこうか。まずは移動しよう」
どこに移動するのだろう? クライドは疑問に思ったが、とりあえず町長の後について執務室を出た。
執務室を出て、役場の長い廊下をゆっくり歩く。町長は無言だが、楽しそうだった。クライドは何か質問しようと思ったが、何を質問していいのか唐突に解らなくなって口を閉ざす。
「ウルフガングを連れて帰ってきたときには目を疑ったよ。ずっと会ってみたかったんだ」
「会ったこと、なかったんですか」
「結界に気をつけていなければならないから、私は生まれてからずっとこの町を出たことは無いよ。私は、実はウルフガングの子孫にあたる」
「そうだったんですか?」
「千年前から伝わる情報だから、信憑性には欠けるがね。クライド君、今回は本当にありがとう」
町長は言って、それからクライドを振り返る。クライドは町長を見上げ、深く頷いた。廊下を抜けて階段を降りると、受付の女性に外出することを告げて役場の外に出た。
少し涼しくなってきた風がするりと頬を撫でる。夕刻のアンシェントタウンは、山際がとても美しい。沈みかけた太陽に照らされて、山の稜線の一本一本がくっきりと鮮やかに照らし出される瞬間が、言いようもなく見事である。今は丁度、そんな美しい景色が見られる時間帯だった。
「クライド!」
声がして、駆け寄ってくるのはグレンとアンソニー。ノエルは怪我をした腕を気遣いながらか、ゆっくりと歩み寄ってくる。三人は、クライドが出てくるまで役場の外で待っていてくれたらしい。
「皆を連れて鐘楼塔においで。私は先に行っているよ」
町長の言葉に頷いて、クライドは仲間たちを振り返った。そして、ゆっくりと茜色に染まっていく空を傍目に捉えながら、歩き始めた。
歩く途中、何人かの生徒に声をかけられた。彼らは皆一様に、クライドたちが今まで何処に行っていたのかしきりに聞き出そうとした。しかしクライドは、頑として内緒を徹底した。
どうせ話しても信じてもらえないだろう。クライドにだって、最初は信じられなかった。魔法の存在、それから鐘楼の破魔の結界。魔幻の鐘の歴史。太古の幽霊について。それから邪神や帝王のこと。どれも実在するものだった。おとぎ話のような本当の出来事だった。
町を出た頃に比べたらクライドも大分見識が広がったから、今では大抵の超常現象なら何の抵抗もなく受け入れられるようになったと思う。それでも、ここにいる同年代の少年たちは魔法や幽霊なんてまだ見たことがないだろうし、これからも見ることなどないだろう。
それが一番いいとクライドは思った。この町で平和に暮らしている限り、そういうものとは無縁でいられる。ウルフガングが造った魔幻の鐘があるかぎり、この町は平和だ。逆に、一般の人々が魔法や超常現象をすんなりと受け入れることができるようになったなら、それは平和が崩れ始めた証拠となってしまう。
「なあクライド、俺達って変わったよな」
何の前触れもなく、グレンが唐突にそういった。クライドは一瞬迷ったが、すぐに頷いた。色々な意味で変わった。というか、変わることができた。
アンシェントタウンは良い町で、町から出る必要も無いほどに全てが満たされていた。だが、今では様々なことを学んだ。海のある町、民族衣装を来た人達が未だに多い島。宗教対立に翻弄される国。絶海の孤島。世界には、これらのほかにまだまだたくさん国がある。その全てに行って、全てを見てくることは無理だろう。しかしいずれはたくさんの国に行って、もっとたくさんの物や人を見てみたい。
ちっぽけな町にずっといたクライドにとって、世界は途方もなく広い。だからクライドは、そんな広い世界に惹かれたのだ。
「今度旅に出るときには、何をして帰ってくればいいの?」
アンソニーがそういってクライドを見た。クライドは少し考えて、頭の中を整理した。具体的には何をすべきだろう。とりあえず、帰る場所はある。ここに帰ってこられるなら、何をしてもいい。
「まずはハビさんを助けること。そうしたらきっとマーティンにも関わることになるだろうから、マーティンの人工魔力を作った場所にも行くことになると思う。それから、レイチェルの墓参りにも行きたいな。イノセントに場所を聞こう。そうだ、帝王の孤島がどうなったのかも気になるな」
よく考えると、まだやりたいことはたくさんあった。クライドは思わず笑ってしまいながら、仲間を見る。するとノエルは、いつもどおりの穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「リヴェリナに何泊かしていきたいな。あの町にはいろいろと思い出があるからね」
ノエルのその提案に、クライドも頷いた。行きも帰りも何泊かしていったらどうだろう? クライドがそう提案すると、ノエルは頷いてくれた。すると今度は、グレンが口を開く。
「俺は首都に行ってみたい。将来的には都会に住むだろうし、下見だな。世界的歌手がこんな辺鄙な山奥にはずっといられないだろ?」
「応援するよ。じゃあ首都にも行ってみよう」
彼の願いを聞き入れて、クライドは笑顔になった。グレンには、歌手になりたいというその夢を絶対にかなえて欲しい。クライドには将来の目標がまだないから、夢が無いクライドの分まで頑張って欲しいと思う。グレンなら絶対に歌手になれると、クライドは信じている。
「僕、ジュノアに行ってみたい」
「ジュノアか、いいな。それじゃ全部片付いたら、帰りに寄ってこう」
楽しそうに言うアンソニーに向かって頷いて、クライドはそう返した。また、旅を終えて帰ってくるまでの楽しみがひとつ増えた。
とりあえず今は、町長が待つ塔に向かおうか。クライドは三人を促して、塔まで歩き続けた。
塔に着くと、町長はクライドを呼んだ。町長がいるのは、鐘楼へ続く階段の入り口だ。
「君達はそこにいるといい。今からやることは、ここにいるよりそっちにいたほうが面白いからね」
町長はそういうとグレンたちに向かって適当な方向を指差して、クライドだけを手招く。クライドは仲間たちに一旦手を振って、塔の階段を登った。
町長は楽しそうに歩きながら、時々立ち止まってクライドを待っていてくれる。薄暗い石造りの螺旋階段を登りながら、クライドはこれから何が起きるのかよく解らずにいた。急で長い階段は町長の足に徐々に疲労をためていき、いつしか町長がクライドを待つのではなくクライドが町長を待っていた。
二人で黙々と階段を登り、塔の最上部に出る。塔の最上部にあたる鐘楼は、四面から鐘がしっかりと見えるように設計されていた。白い四本の柱で屋根を支えているが、さすがに千年前の建材なので風雨にさらされて角が取れて丸くなっている部分が多々ある。
クロニクルで見た景色が頭をよぎった。美しく悲しい、青い花の舞う景色。この場に立ってそれを思い出すと、古代の魔導士の悲痛な祈りや後世への責任を思って鼻の奥がつんとした。
あの時この鐘楼から見えたのは、帝王に蹂躙されて荒廃した街の景色だった。それが今では美しい建物が立ち並び、通りを人々が行き交って楽しげな声がこだましている。ウルフガングの求めた平和な景色は、まさしくこの眼下に広がっている。
クライドは、ゆっくり階段を上ってきた町長を振り返る。ようやく町長が口を開いたのは、丁度このときだった。
「これから結界を張るよ。君たちはまた、魔力を持たない人間と同じ状態になる。通常に戻るんだ」
そういって町長は、鐘楼の屋根に向かって手を伸ばした。音もなく、重力さえ感じさせずに、鐘楼の屋根から鐘を打ち鳴らすための撞木が降りてくる。町長が手を下ろすと、ぴんと張った鎖につるされた撞木は、微かな風に少しだけ揺られた。
「君にやってもらおう。何度鳴らすかは、君に任せよう」
町長の声に後押しされ、クライドはおずおずと鐘に歩み寄った。そして、撞木から下がった引き手の鎖をそっと手繰り寄せる。町長が重力を感じさせない動きをしていたせいか、撞木が予想外に重く感じた。クライドはしっかりと両腕に力を入れて、鎖を握りしめる。それから、帝王戦の時のように頭の中で無意識のうちにウルフガングに話しかけていた。
「何回くらいが良いんだろうな」
この問いに答えなど帰ってくるはずがないのに、ふと耳元であのバリトンボイスを捕らえた気がした。
「十七回にしよう。来年、十七歳だろ?」
勢いよく顔を上げてあたりを見回す。懐かしい灰色の髪の幽霊の姿はどこを探しても見当たらず、あたりには夕暮れ時の涼しい風が吹いているだけだ。その風が潮の香りを運んでくることはないし、目を閉じると唐突に海辺の小屋が浮かんでくるわけでもない。もう、ウルフガングは現れない。
ただの幻聴だったのだろうか。いいや、きっと違う。クライドは、ウルフガングの存在を確かめるように、真っ直ぐに鐘を見つめた。
「ウォルの言うとおりにする。十七回、だな」
クライドは大きく腕を後ろにそらせて、撞木を振り下ろした。思ったより大きな音がして、クライドは一瞬飛び上がってしまった。
間近で聞くと、こんなに迫力のある音なのだ。
こんな体験は、もう二度とできないだろう。高揚したクライドは、もう一度鐘をついた。すると、唐突に身体の感覚がしびれて、聴覚も触覚も何もなくなった。あんなに迫力のあった音も、聞こえなくなっている。辛うじて解るのは、視覚から取り入れられた情報だけだ。何が起こったのかわからず、クライドは混乱した。
だが、すぐに世界に変化が訪れた。鐘から青白い光が漏れ出し、塔を中心にして町を包み始めたのだ。はるか下のほうで、アンソニーが飛び跳ねているのが見える。神秘的な青白い光は、クライドをも包み込んだ。包み込まれた瞬間は少し息苦しかったが、またすぐに元に戻る。そして、それと同時に感覚も戻ってきた。クライドは悟った。今のはきっと、魔力が封じられた瞬間だったのだ。
クライドは、引き縄を引っ張って腕を力いっぱい振り下ろす。もうエルフの血を封じられた、普通の人間だ。この町で、魔法が使えてはならない。ウルフガングの優しい声を想いながら、帝王の最期を思い返しながら、クライドはまた鐘をつく。
四つ、五つ、六つ……
そして、十六回目を終えた。最後にもう一回ついて、終わろう。
クライドは、今まで出した音の中でも一番響くようにと願いを込めながら、最後に一つ、大きく鐘をついた。
町長と笑みを交わして、クライドは塔から降りる。塔から降りれば、仲間たちがクライドに駆け寄ってきて達成感に満ちた笑みを浮かべた。クライドも、笑みを返した。
空気の中にまだ残っていた、痺れるように響く鐘の余韻を感じた。古びた鐘の音が、クライドたちに平和を告げてくれた気がした。
そしてクライドは、赤銅色に染まり始めた大空に向かって大きく両腕を広げた。やりきった。終わったのだ。鐘はここに、戻った。
世界の恐慌を阻止し、帝王を食い止めた。大切な仲間たちとともに、平和を守ったのだ。
気分を落ち着けて、クライドは目をあけたまま想像する。平和な町、人々の笑い声、そして仲間に囲まれた自分の姿。それらを想像しながら、クライドは祈った。
美しいこの夕焼けの空と、大切な者たちの輝かしい笑顔が、ずっと失われませんように。
いつまでもずっと、この町に、この世界に、平和が続きますように――。
魔法が働いて想像をその通りに叶えてくれるわけではない。それに、まだ全てが終わった訳ではない。やり残したことがある。置いてきたものがある。しかし、それらを終えに行くのはもう少し先の話だ。
今はこうして、仲間と共に平和に浸っていられればいい。
今はこうして、仲間と共に幸福を感じていられればいい。
大好きな故郷の町にいるんだという幸福感が、身体中を巡って温めている気がした。
夕陽が沈まないうちに、そろそろ帰ろうか。家族の待つ安息の場所へと、クライドはゆっくりと歩き始めた。
日暮れの柔らかな残照に包まれたアンシェントタウンには、優しい風が吹いている。
あとがき
いかがお過ごしでしょうか、『魔幻の鐘』筆者の水島佳頼です。
二〇〇五年四月二十四日から、二〇〇六年四月二十四日までの丸一年間(ピッタリ!)で書き上げた小説です。
推敲やら改訂やらいろいろなことをやって、スローペースでここまできました。
やっと一章が完結ですね。
ここまでだと「ハビはどうなるんだ!」「影の男って結局なんだったの?」という声が聞こえるので
第二章も執筆中です。
二章は、クライドが十七歳になった年の夏休みから始まります。
では、ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。
この小説が皆様の心に少しでも残れば良いなと願いつつ、おいとまさせていただきます。
次の旅にもついてきて下さる方は、是非二章の方もよろしくお願いします!
――――――
上記コメントは完結したときのものをそのまま残しています。
2024年現在、文章の破綻が酷かったため大幅に手を加えて冗長な話数を13話分削った状態で公開しています。
改めて、長らくのお時間を費やして私の作品を完結まで追いかけていただきありがとうございました。
旅に出たい、大人になりたい、自由になりたい。そんな中学生がままならない現実から目を背けて一心に書いた小説でした。
粗の多い展開があまりに多く、どうにもできないプロットの部分からして破綻しているなど技巧の面で稚拙だった箇所が目についてしまい改稿に至りましたが、八十七話構成の当初の魔幻も私にとっては大切な物語だったと思います。
この物語に出会って下さった皆様に、多大なる感謝を申し上げます。
読了いただき、本当にありがとうございました。




