第六十八話 守るべき者たち
最初に来てくれたのはアンソニーだった。彼は大きな箱と小さな白いビニール袋を手に持って、満面の笑みを浮かべている。クライドはアンソニーを家に招きいれて、ダイニングのテーブルに箱を置いてもらった。
「母さんがね、特大のやつ持ってけって! たくさん褒められたけど、遅いって怒られちゃった。でも、僕、絶対強くなったよ」
はしゃいだ様子で彼は言い、白いビニール袋もテーブルに置いた。中には、紅茶の茶葉が入っているという。クライドも大ニュースがあるので、アンソニーに向かって嬉々として言った。
「父さんが帰ってきたんだ、今風呂にいる」
「ええ! クライドのお父さんって見たことない」
「そりゃそうだろ、失踪してたんだから」
二人で笑いあっていると、ドアチャイムがまた鳴った。クライドはアンソニーを待たせて玄関に出向く。
ドアを開けると、グレンが笑顔で立っていた。彼も何か持ってきてくれたようで、手にナイロン製の大きなバッグを提げていた。中には箱のようなものが入っているようだ。
「もう誰かいるか?」
「トニーがいる。グレンも上がれ」
問いに答えながらグレンを招き入れて、クライドは笑った。そして、彼にも父が帰ってきたことを告げた。グレンは一瞬目を見開いて、それから嬉しそうに笑ってくれた。彼が心から喜んでくれていることに、クライドも嬉しさを隠せない。
「グレン! 見て、ケーキだよ。今日はチョコレート! 特上ショコラの特大サイズ!」
「うわあ、また凄いもの持ってきたな。よし、クライドの家族にも食べてもらおう」
グレンとアンソニーはそういいつつ、テーブルの上の箱を開けた。中からは、装飾が豪華でとてもおいしそうなチョコレートケーキが出てくる。大きいので、家族が一緒にに食べたとしても食べきれないかもしれない。
ドアチャイムが鳴った。クライドは玄関に駆けていき、ドアを開けた。ドアを開けると、祖母がいた。驚いて、互いに数秒固まった。
「クライド、かい?」
「そうだよばあちゃん、俺だよ、忘れてない?」
祖母がよたよたと歩み寄ってくる。クライドはそれを支えるようにして、抱きしめた。久しぶりに感じる、祖母のぬくもり。長いこと忘れていた、小さな身体の骨ばった感触。
「二ヶ月そこらで忘れるほど老いちゃあいないよ。クライドや、おかえり……」
「ばあちゃんもおかえり」
しばらくしてクライドは祖母を離して、祖母を支えて居間に来た。そして、祖母がいつも腰掛けている揺り椅子を持ってきて座らせた。
祖母はグレンとアンソニーを見て、にっこりと銀色の目を細めて笑った。
「いらっしゃい、クライドの友達だね」
「おじゃましてます」
「ばあちゃん元気だったか?」
グレンの態度に思わず苦笑するが、祖母は気にした様子もなかった。いつもこうなのだ。
「ああ、元気だよ。町内会の集まりにだって、毎週歩いて行っているさ」
祖母は笑みを浮かべて、揺り椅子に深くかけなおした。クライドはキッチンでお湯を沸かそうとしたが、それは母がやってくれた。
「おかえりなさい、おかあさん。どうでしたか? 今日は」
「久しぶりに発言したよ。わたしの声が町を変えていくきっかけになることを祈るよ」
「それは楽しみですね」
水を張ったケトルを火にかけながら、母は穏やかに祖母と会話した。いつもこんな感じで、母と祖母はただ穏やかに会話をするのだ。
ふと、母がいることに思い至った。察するに、今日は休みなのか。もしかすると、祝日だろうかと思う。そうだ、そろそろ初夏の感謝祭が行われる。初夏の感謝祭は、ルクルス教の行事である。多分、うろ覚えだが今日なのだろう。
ドアチャイムが鳴る。残りの二人が来てくれたようだ。クライドは玄関に向かっていき、ドアを開けた。ノエルとシェリーが立っている。ノエルは手に小さな包みを持っていて、シェリーは何も持っていなかった。
帝王との戦いで破損したノエルの眼鏡は、今はもうない。代わりにノエルは、フレームのないシャープな感じの眼鏡をしていた。いつもの野暮ったい眼鏡よりも断然こちらが似合っていると思う。
クライドはシェリーを見て少なからず驚いた。ノエルの妹が持っている服なのだろうが、随分と大人っぽい。白いシャツに黒のタイトスカートという服装だったが、シャツは元から胸元が少し開くように設計されたものだし、スカートは膝上十センチくらいでやや短い。黒のパンプスで身長も増されているので、なんだか突然彼女がお姉さんになったような気がした。
「妹が、是非シェリーに着せたいって言ったんだ。似合ってるよね」
「ああ。グレン驚くぞ」
ノエルとそんな会話を交わして、二人を居間に案内した。すると、グレンがシェリーの格好を見て数秒固まり、数秒後に徐々に頬を赤く染めた。クライドは思わず忍び笑いし、アンソニーは全く気を遣うことなくグレンを笑い飛ばした。
「僕からの手土産はこれ」
ノエルがそういってテーブルの上に包みを置いたとき、バスルームの方から父が歩いてきた。クライドが用意した服を着て、濡れた髪をタオルで拭いている。もつれていた髪は、彼がクライドが持っていた写真に写っていたときのように真っ直ぐに、緩やかに伸びている。
ただ違うのは、その長さと色だった。だが白髪の混じった髪は、ともすればファッションで染めているようにも見える。こんな髪色も悪くない。
クライドはにこりと笑い、父を手招いた。すると祖母の表情が変わった。
「ハーヴェイ! あんたハーヴェイかい! 今までどこに」
「母さん! あいたかった」
祖母の言葉をさえぎって父はそう言い、祖母をぎゅっと抱きしめる。それからすぐに離して、父は祖母の髪を撫でた。それからキッチンで湯を沸かしている母のところに歩み寄り、その額に口付けた。何だか、新婚の家庭みたいだとクライドは思う。
シェリーの頬が赤く染まった。おそらく、こういった光景を見慣れていないのだろう。
「父さん、俺の友達。シェリーはほんの何時間か前までエルフだったんだ」
そういって、シェリーを示すと、父はシェリーに自己紹介した。流れで他のメンバーが自己紹介に移ろうとすると、父は笑って先に発言する。
「君は、エクルストンさんちのグレンか。で、そっちがハルフォードさんとこのノエルだろ? 君は…… そうそう、お菓子屋のアンソニー。いやあ、成長したな」
父は快活に笑い、テーブルにすえられた椅子に座る。母が気を利かせて予備の椅子を持ってきてくれたおかげで、とりあえず全員座れる。
クライドも席について、それから父を尊敬の眼差しで見た。
「凄い、何で解るんだよ」
「近所づきあいはそれなりにいいほうだったからな。それぞれ皆、小さい頃クライドと一緒に公園で遊んだことがあるぞ。シェリー、君はもしかすると苗字が無いのかな?」
父は得意げに笑って、それからシェリーを見た。
「ええ。人間として暮らしたいのに、苗字がなくて困ってます」
「そうか、じゃあ君は姉さんたちの苗字を借りれば良い。ブリジットやブライアンも許可してくれるだろ」
俯くシェリーに、父はそんな提案をした。シェリーは一瞬驚いたように目を見開いて、それからにこりと笑った。彼女のことだ、直接会ったことはなくてもクライドたちの過去を見てブリジットのことを把握しているに違いない。
「ブリジットってわかるかい? イノセントの恋人だよ」
「わかるよ。イノセントはずっとあの人のことを思っていたから。だからあたし、咄嗟にイノセントをあの人のところへ送れたんだ」
ノエルの言葉にシェリーは頷き、そしてにこりと笑った。クライドはアンソニーと目を合わせてにやにやした。グレンが、なんだか自分がからかわれたかのように頬を染めているのが面白い。
「今はもう、魔法は使えないの?」
「ああ、そうなんだ。もう、あたしは魔法なんて使えない。ただの人間なんだ、これで」
疑問を送るアンソニーに、頷いて寂しそうに答えるシェリー。するとグレンは笑顔でシェリーの肩に手を乗せて、励ますように言った。グレンは今、シェリーの隣に座っているのだ。
「そう気を落とすなよ、普通ただの人間ってのは魔法使えないものだから」
「解ってる。やっと、あたしもグレンたちの仲間になれたんだ」
「元から仲間だろ! 人間だろうとエルフだろうと、俺にはそんなの問題じゃない」
グレンとシェリーのやり取りにクライドは笑った。グレンも、シェリーも、そしてアンソニーもノエルも。両親と祖母も笑った。そして、実に二ヶ月ぶりにこの家いっぱいに快活な笑い声がこだまする。
やがて楽しい雰囲気の中で、クライドの父は、沸いた湯とアンソニーが持参してくれた茶葉を使って紅茶を淹れてくれた。アンソニーが持ってきたケーキは、母が切り分けてくれる。ノエルの持参品は、なんと丸ごと一羽のローストチキンだった。グレンの持参品は、大量のクッキー。何だか、にぎやかなパーティーになりそうである。
「そうだ、クライドや。後で町長さんのところへいきなさい」
祖母にそういわれ、とりあえず頷いた。何故町長に呼ばれるのだろう? もしかすると、鐘の取り付けに不備があるのだろうか。
時刻は午後の一時。まだアンシェント学園では就学中で、下校時間はたいてい四時ごろになる。クライドは四時をすぎてから町長のところへ行くことにして、今は騒ぐことにした。
「ああ腹減った、魔力使いすぎたぜ。鐘の光でなんか回復した気がしたけど、やっぱ死にかけたからそれなりに疲れたよなあ」
グレンはそういって、持参したクッキーをかじる。クライドも頷いて、グレンのクッキーを一枚貰った。
クライドの母は嬉しそうに笑いながら、キッチンに向かって何か作業をしている。ノエルは大切そうにブレスレットをなでていた。漁師町を出た頃からずっと、肌身離さずつけているものだ。そういえば、腕の方は完治したのだろうか?
「ノエル、そういえば腕どうなった?」
訊ねてみると、ノエルは困ったように微笑した。そして、左腕の丁度ひじの辺りを摩る。やはり折れているのかとクライドは思い、彼の腕を見る。よく見ると、妙な感じに関節が突き出ていた。
「治ったと思って油断していたよ、痛みはなかったから。でも、帝王戦であっさり折れてしまった」
「あー、安静にしとけよ。ウォルにはもう会えないから」
ノエルは頷いた。しかし、ふと怪訝そうな顔をする。
「この町を出れば、結界は効かないんじゃないのかい」
「ウォルは最後に、魔幻の鐘と一体化したんだ。これからは、この町を守り続けることに専念してくれる」
クライドの言葉で、一同の空気がしんみりとした。あの快活な人間臭い幽霊はもう、二度と話しかけてはくれない。誰に対しても深い慈愛の心を持った父性的なあの男は、鐘に自らを封印した。そして、二度と出てくることはないのだ。
「そっか、寂しくなっちゃうね」
アンソニーが呟いた。彼は泣くと思ったから、少し以外だった。すると、暗い空気を吹っ飛ばすようにして、グレンが笑った。
「大丈夫だろ、ほら、俺達が皆そろってれば」
頷いた。何度も頷いた。クライドは頷いて、グレンにあわせて笑った。
そうだ、ウルフガングに守ってもらわなくても仲間たちがいる。幽霊のウルフガングに世話を焼かせなくても、支えあって生きていける。
「ウォル、最後に俺のところに来てくれてもよかったのにな」
父のいう一言が何だか悔しそうで、クライドはどう声をかけるか迷った挙句に、父を見て笑った。
「あのさ、父さん…… ウォル、ほんとうは会いに来たがってたんだ。事情があって、魔力が足りなくなって。ごめん、言い出せなくて。消える間際に、お前の父さんによろしくって言ってた」
クライドが言うと、父は笑顔で頷いた。そして、長くなった髪を後ろでまとめて母から借りたヘアゴムで結わえた。切るまでの間はこうしているらしい。
「あいつらしい。俺は友人として、あいつを誇りに思うよ」
しんみりしてしまう前に、父はひょうきんな顔でローストチキンを大きめにざっくり切って自分の皿に載せた。それに呼応するようにグレンも似たような量をとる。
「とにかく今日は盛り上がろう! 旅の思い出なんて話しながらさ」
グレンはそういって、細かく切ったローストチキンを口に放り込む。クライドも頷いて、父や母、祖母に旅立ちの日のことを話した。
アンソニーのワイヤーを使って、川を越えたこと。川を越えるとすぐに山が立ちはだかっているので、そこを登るのに苦労したこと。魔法の加減がわからなくて貧血になり、倒れたところを助けられたこと。
「クライドってば、無理しすぎなんだよ」
そう言う膨れっ面のアンソニーは、あの頃に比べると凛々しくなったように思う。グレンはまた少し日に焼けて、そして少しシリアスになったような気がする。そしてノエルは多分、また一段と賢くなっただろう。
クライドは何か成長できたのだろうか。自分では解らない。だが、仲間を大切に思う気持ちや責任感の部分が強くなったのは実感できる。二ヶ月間、学校で学べない色々なことを学んだおかげだ。
「辛かったし怪我もいっぱいしたけど、俺、旅に出てよかったよ」
クライドは、自分の旅をこんな言葉で締めくくった。町の外に出てみれば、かなり世界が拓けていることを知ったのだ。将来は、このアンシェントタウンからでて色々な場所を旅するのもいいのかもしれない。
「ビルの崩落に巻き込まれたり、変な野郎に命狙われたり、犯罪者に絡まれたり。無免許で船を動かしもしたし、不法就労もした…… 思い返すと散々だったな」
グレンが過去の思い出をたどりながらそう言うと、クライドの母の顔色が見る見る青ざめた。確かに、こんなショッキングなことをいきなり無造作にべらべらと喋られたら驚きもする。
「それでも、僕らは目的を達成してちゃんと帰ってきた。色んな人の力を借りながら、色んな方法を考えて」
ノエルはそういって、ケーキに手をつけた。クライドも頷きながら、ローストチキンを食べる。クライドの母は紅茶を飲みながら、クライドに悲しそうな目を向けた。
「もう、どうしてこんな危ないことしてるのよ……」
「そりゃあ、クライドが俺の息子だからだろうな」
飄々とした態度で父は笑う。クライドは肩をすくめて、苦笑した。父はクライドを見て、見透かしたようにこう言った。
「まだやり残したことがあるんだろう? 鐘以外に、何か取り戻したいものがあるんだな。顔に書いてある」
……そうだ、父の言うとおりだ。まだ終わってはいない。ハビのことや、人工魔力を作っているという『本部』のこと。彼らの目的は帝王との戦いではなく、クライドの捕獲だったはずだ。黙っていても、きっとまた向こうからやってくる。
レイチェルの遺言にしたがって、クライドはハビを助けるために旅をしたい。だが、まだ皆の体調が万全ではない。それとも今回は、一人で行ってしまおうか。恐らく、また反論されるだろうが。
「俺、ハビさんを助けなきゃ。グレンはシェリーとこの町にいろよ、二人でさ。ノエルも腕の骨がまだ折れてるし。トニーだって、俺達に追いつくにはまだ二年勉強しなきゃならないだろ。次は俺一人でいくよ」
そういってみると、予想していた通り凄い勢いで反論された。
「嫌だよクライド、またぶっつけ本番のノープランで行く気かい? 次こそ参謀を頼って」
「あたしだって一緒に行く。他に誰が貧血の薬を調合するんだよ」
「俺も行く。言ったろ、お前を死なせるわけにいかないんだ。大事な友達だから」
「僕も行く! 僕の学力なんて心配してくれなくて良いよ、ノエル先生がいるもん」
ああ、いい仲間を持った。また長旅につき合わせることになるのだろうが、彼らは嫌がるどころかついてきたいと言う。嬉しくなった。
しかし、やはり良く思わない人物も中にはいた。母は当然反対なのだ。
「嫌よ、私は。生きて戻ってこられたことが奇跡なのよ、あんな、暗黙の闇の親玉みたいなのに喧嘩を売るなんて…… 進学だって町の外には出したくないわよ、ずっとここにいて」
すると父は、にこりと笑んで母の肩を抱き寄せた。母は不安そうな面持ちで父を見上げる。父はもう一度母を安心させるように笑みを浮かべてから、優しい声で言った。
「アリシアはもう独りで待たなくていいんだ。俺がいるだろ。クライドはちゃんと俺が守る、あのお守りがある限り」
それを聞いた瞬間、手に握りっぱなしにしているお守りを凝視してしまった。これがある限りは大丈夫なのだと父は言ったが、もう割れかけている。
「父さん、そのことなんだけど…… これ、中にひびが」
「直せるからちょっと貸せ。鐘の効力がまだ強くないうちにやっとかないと。あー、食事中にごめん。皆一旦あっち向いてろ」
父は適当な方向を指差して、テーブルの向かいからクライドに手を伸ばした。それから、クライドが渡したお守りを自身の手のひらに乗せた。テーブルにあったデザートナイフを無造作に掴んだ父は、掴んだ時と同じように無造作にそれを右手の親指に刺す。
クライドは思わず目を背けたが、またすぐに父のほうを見た。彼の指から、血が何滴も滴っていた。父は滴る血をお守りの上に数滴垂らして、何か呪文を唱えた。すると、お守りの上に垂れていた真っ赤な血がすうっとお守りの中に吸い込まれる。クライドは、それをじっと見ていた。
父は最後に愛しげに、封印を解除する呪文であるエルフ語の『クライド』を呟いて、それからクライドにお守りを返してくれる。
「これで大丈夫だ。持ってあと一回ぐらいだろうけど」
クライドはお守りを受け取った。すると父はナイフを持って席を立って、ナイフをキッチンの洗い場においてきた。そうしている間にテーブルに垂れた血はきらきらと淡い光を纏ってそのまま消えてしまった。そうだ、彼の血は普通の血液ではない。エルフの血だった。
「男は一人で生きていく生き物だ。皆を守っていかなきゃならない、強くなきゃならない生き物だ。いずれ夫になり、父親になっていくんだからな。でもな、クライド。人間は助け合える生き物だ。だから、誰かに頼ることを恥だと思わなくていい」
父はにこりと笑い、華奢で骨ばった長い指をテーブルの上で組んだ。クライドは頷いて、お守りを首にかける。
それからまた、皆で思い出話に花を咲かせた。