第六十六話 輸血
ぼんやりと天井が見える。激痛と共にクライドは目覚めた。再び目を開けられたことに感動して少し泣きそうになった。生きている。アンシェントに帰ることができる。クライドの頭のすぐ近くには、必死に追ってきたあの古びた鐘もちゃんとある。ほっとした。
王の間はもうめちゃくちゃで、硝子の窓は残らず吹き飛んでぼろぼろになっている。絨毯は変色して、高級感溢れる鮮烈な赤から薄めた血のような冴えない色になっていた。あの眩しすぎる光で焼けてしまったようだ。
クライドは身体を起こす。床にはぼろぼろになった友達がそれぞれ倒れている。起こさなくては。
クライドは、まずは一番近いところにいたグレンに近寄って彼を揺さぶった。彼はうっすらと目を開け、よく見なければ笑みに見えないような弱弱しい笑みを浮かべてくれる。よかった、生きている。ノエルは眼鏡を失っていたが目をあけてくれて、アンソニーも随分ボロボロになってはいたがちゃんと空色の目でこちらを見て笑った。
少しはなれたところにいたシェリーに歩み寄る。彼女はこちらに背を向けて丸まった状態で床に転がっている。
「シェリー?」
肩をつかんであお向けてみても、シェリーは目を閉じたままぴくりとも動かなかった。その顔の白さに戦慄する。まさか、こんなことがあって良いはずが無い。
「おい、シェリー? どうした?」
シェリーは微動だにしない。何度揺すっても、何度声をかけても目を開けない。気のせいだと思いたいが、身体が冷たい。嘘だ。そんなことがあっていいはずがない。
クライドは半狂乱になりながら、シェリーを揺すり続けた。鮮やかな赤毛がさらさらと揺れて、砂埃で汚れた彼女の顔にかかる。
髪だけが鮮やかだった。頬にも唇にも、血の気がない。
「クライド、やめろ」
冷静な声が傍らで聞こえた。さっとそちらを振り返ると、ウルフガングがいた。彼はただ、シェリーを見下ろしているだけだった。
クライドは首を横にふって、シェリーを抱き起こして揺すり続けた。すると、誰かの手に割り込まれた。その手を視線でたどると、グレンがいた。グレンは、明らかに動揺した目でシェリーを見つめて、揺すっていた。
「おい? シェリー。気を失ってんのか、大丈夫かよ」
がくがくと力なく揺すられるシェリーは、彼の問いに答えない。だんだんと血相を変えてシェリーの名を叫び始めるグレンの肩に、ウルフガングがそっと手を置いた。
「無駄な抵抗だ。シェリーはもう、すべてを使い果たした」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、シェリーの指先が淡く光を帯びて透け始める。消えてしまう、そう直感したクライドはシェリーの冷たい手をとった。
「俺が血を分ける、そしたらきっと大丈夫だ」
クライドは彼女の冷えた手を握って、血を移す。それでも血色の引いた真っ白な頬に赤みが戻らない。
焦ったクライドはシェリーを見つめて想像する。彼女の目が開いて、グレンに微笑みかけるところを。だが、無駄だった。頭が痛み、吐き気がしてくる。ふらついて思わず床に手をついた。シェリーの指先は完全に空気に溶けていた。髪や耳の先も、透明になり始めている。
「シェリー!」
グレンがシェリーを強く抱きしめ、名前を叫びながら彼女を揺する。頬を軽くたたいたり、手を握ったり、必死に彼女を起こそうとするグレンの肩にウルフガングがそっと手を置く。
「止めんな! シェリーが死んじまう」
「落ち着け、グレン。クライドが血を分けた今だったら、方法はなくもない。だが」
ウルフガングはそういって、斜め下を見やる。グレンは助けるという言葉にだけ反応したようで、ウルフガングに向かって早口にまくし立てた。
「じゃあ早く助けろよ! シェリーっ、何で起きねえんだよ」
「助けられるが、この方法だとシェリーも、そしてもう一人も危険になる」
「危険だろうがなんだろうが、俺がこいつを助ける」
必死にそういうグレンを見て、ウルフガングはそっとシェリーの頭に手をやった。そして、グレンを見て静かな声で言う。
「グレン、そこに寝ろ。お前らの命を使う魔法について説明する」
グレンは焦った様子で、床に乱暴に身を横たえた。こうしている間にもシェリーの血色がどんどん悪くなっているように見えてクライドは怖くなる。
「今からやるのは、簡単に言えば輸血だ。成功の確率は低いし、失敗したら二度とほかの蘇生系の魔法が効かなくなる呪いも付加される。お前はB型だから、相性の問題もある」
ウルフガングの説明を聞いて、グレンは不可解そうに首をひねった。クライドも不可解だった。エルフのシェリーは血が魔力で出来ているはずだ。人間の血を入れてもおそらく合わないだろうし、ウルフガングが危惧している通り血液型が違うと拒絶反応が起こってしまうものではないのだろうか。
「何でBじゃダメなんだよ、っていうかシェリーって血液型何なんだよ?」
グレンは焦ったようにウルフガングに言い、起き上がろうとする。だがウルフガングは、グレンをそっともとどおりに床に寝かせた。グレンはしぶしぶウルフガングの手に従い、隣に寝ているシェリーを見た。
「エルフまたはハーフの血を血液検査で調べると、必ずA型になるようになっている。クライドもそうだろう?」
「え? ああ」
唐突に話を振られ、クライドは反射的に頷いた。確かにクライドもA型だ。とすると、シェリーはA型なのだろうか? そんな、それじゃあ輸血が出来ないじゃないか。
「エルフの血を魔道士に分ける場合は基本的にすべての血液型に対応できるようになっているはずだが、純粋な人間の血を混ぜた時にエルフはエルフではなくなる。エルフとしての能力を、一切喪失するんだ」
よかった、できないわけではないのか。クライドは安堵したが、すぐにまた緊張感を取り戻す。エルフではなくなるなんて、生半可なことではない。
クライドが思ったことを、そのままグレンが声に出していた。
「それって、シェリーにとって負担なんだな」
「当然そうだ。だから、失敗すればお前も、そしてシェリーも死ぬ。成功してもシェリーには、全身の細胞を作り替えるための想像を絶する痛みを与えることになるだろう。生き返っても、その痛みでショック死する可能性だってある。それでもいいのか、グレン。シェリーはよく頑張ってくれた。幸いあまり痛い気の失い方ではなかったんだ、このまま眠らせてやったほうが無駄に苦しめずに済むんじゃないのか」
凍りついた。クライドだけでなく、この場の雰囲気そのものが凍りついた。
グレンもシェリーも死ぬなんて絶対に避けたい事態だ。だがこのまま、シェリーだけを見殺しにしたくない。
「成功の確率はどれくらいなんだ?」
「三割、いや二割くらいだろうか。何せ本来の手順を大幅に無視して、保護の呪文を唱える前にエルフの混血が輸血を行っているからな」
「えっ、そんな、俺のせいってこと」
「あの時点でクライドがシェリーに血を与えていなかったら、もう手遅れだっただろう。ゼロの確立を二割まで上げたんだ、失敗したとしてもお前は気に病まなくていい。あと少しだけ、コップ一杯分ぐらいでいい、シェリーに血を分けてやれ。それで下準備が整う」
あまりに冷静なウルフガングに衝撃を受けるが、それもそうかもしれない。彼は千年ものあいだ、幾人ものひとたちの生死を見届けていたのだ。彼に従って魔法をかけることで少しでも生き返る確立が増えるのなら、いくらでも手を貸したい。クライドは目を閉じ、シェリーに血を分け与える想像をした。めまいと共に倒れこみ、絨毯から舞い上がったほこりでむせる。
「っ、クライド、大丈夫か」
「平気だよ、お前までいなくなったら困るからさ…… 俺がこのまま、もう少し血をあげることにする」
「だめだ。この魔法では中和の下準備としてエルフのハーフを使うが、人間化のための血は純粋な人間から取らなければならないんだ。この中で一番体力の残っていそうなグレンでやれば、一番成功する確率が高くなる。起き上がれないそこの二人では、血液型がたとえAだろうとほぼ失敗するだろう」
「でも、じゃあ、グレンが死ぬことだって」
ウルフガングに訴えかけるが、寝ているグレンからすごい剣幕で怒られる。
「じゃあクライドは、シェリーが起きないままでもいいのかよ!」
「それは困るけど!」
言いあいになり、寝たままの姿勢でグレンに制服の胸元をつかまれる。ウルフガングがため息をついて、グレンの手をクライドの制服から離させた。二人ともへとへとなので、幽霊の仲裁でもあっさりつかみ合う体制を解除する。クライドは片手をついて起き上がり、足を崩して座った。
「俺の魔力を少し分けよう。この後の作業に支障が出るからほんの少ししか与えられないが、それでいいな」
「……ありがとう、ウォル。ごめん」
クライドは座り込んだ姿勢のまま下を向いて、ぽつりと呟いた。ウルフガングは今度はグレンのほうを向いて、忠告するように言った。
「お前の気持ちは魔力に影響を与える。だから拒絶反応は、おそらく起こらないだろう。だが、エルフの血液はB型との相性がかなり悪い。それを頭にいれておけ」
グレンは頷いた。もう、何かも覚悟したような顔だった。
二人が無事でいるように、クライドは必死に祈った。もしも失敗してしまったら、大切な仲間を二人も失うことになる。そんなことにだけはなってほしくない。
「もしも輸血に成功したら、シェリーは人間になるのか? 見た目も変わる?」
「ああ。輸血に成功した直後には、身体の組織が作りかえられるだろう。そしてシェリーは、丸い耳とA型の血液を持った人間になる」
グレンの疑問に、ウルフガングは丁寧に答える。そして、にこりと微笑んでグレンを安心させるかのように彼の額に手を乗せた。グレンは少しだけ目を閉じて、それから怪訝そうに目を開けてウルフガングを見上げた。
「俺、B型なのに」
クライドも、それは疑問に思っていた。グレンはB型なのに、何故シェリーはA型になるのだろう。
エルフの身体には、まだまだ解らないことがたくさんある。よく知っておかなければ、将来的にクライド自身が困ることになるだろう。聞いておかなければ。
「そうだ、シェリーの体内にお前の情報は全く残らないんだ。だがお前の血は、確実にシェリーに変化を与える。化学反応を起こすようなものだ」
ウルフガングはそういって、グレンの髪をさらさらと撫でている。グレンは目を閉じたまま、シェリーの方に手を伸ばして彼女の手をそっと握った。ちゃんと生き返れよ、そういうグレンの心の声が聞こえた気がした。
「輸血を始める。呪文を唱え終わるまで、邪魔が入らないようにしてくれ」
急に緊張感が戻ってくる。クライドがこくりと頷くと、ウルフガングはそっと目を閉じてグレンとシェリーを見下ろす姿勢のまま右手を前に差し出した。そのまま呪文を宙に書きながら、落ち着いたバリトンボイスでゆっくりと呪文をつむぎだす。
やがてグレンが眉間に皺をよせて、シェリーの手をきつく握った。痛むのだろうか。苦しいのだろうか。このままではグレンまで失ってしまう。シェリーも生き返らない。
クライドは膝立ちになって祈った。両手を組み合わせて、それを額にくっつけて祈った。神様と呼ばれる者がもしいるのだとしたら、どうか二人を無事にこの世に帰して欲しい。
「頑張って、二人とも……」
かすれるような声が後ろから聞こえた。ノエルの声だ。続いて、アンソニーも弱い声で彼らに頑張れと声援を送っている。クライドも、精一杯グレンたちを応援した。
やがてウルフガングはそっと腕を下ろし、横たわったままの二人を見下ろした。そして、クライドに向き直って微笑んだ。
「呪文は終わった」
後は、運次第だ。ウルフガングはそう付け足して、そっと鐘の方へと歩み寄っていった。クライドは目を閉じたままのグレンとシェリーを見て、また祈った。祈って、想像する。二人が目をあけて、ちゃんと起き上がるところを。
それでも、二人は起きなかった。グレンもシェリーも、息をしていないように見える。
「お、おい、グレン? シェリー」
……クライドも、思ったより弱っている。貧血で立てないのだ。
這うようにしてグレンに近寄って、頬を軽く叩いてみる。それでも彼は起きずに、固く目を閉ざしている。どうすればいいのだろう。クライドはグレンの頬に手を触れた。そのまま真っ直ぐ彼を見て、話しかける。
「グレン、俺達帰らなきゃ。起きろ」
そういうと、突然隣で誰かが動く気配があった。驚いてグレンから手を離すと、なんとシェリーが半身を起こして胸を押さえている。半身を起こしていても、彼女はグレンの手を握ったままだ。
「っ、げほっ、げほっ」
シェリーは咽ながら、クライドを見た。彼女の目は、銀ではなく灰色になっていた。クライドは驚いて、とりあえずシェリーの背中を軽くたたいてやった。シェリーはしばらくして落ち着いて、やっと咽るのをやめた。しかし、その目には大粒の涙が見えた。クライドの腕にすがりつくようにして、彼女は浅く弱い呼吸をする胸を抑える。痛むのだろうか。
「あ、あたし」
シェリーが何か言いかけたのをさえぎり、クライドは彼女を軽く抱きしめた。痛みを堪えるために呻く声が辛そうで、クライドまで泣きたくなってくる。震えながら痛みに耐えるシェリーは、クライドの胸に体を預けたままだ。彼女は浅く息をしながら、指が白くなるほどに強くクライドの腕を握り締めている。消えてしまっていた指先が戻っていることに気づき、内心で高揚した。痛かったが、クライドもじっと耐えた。
「シェリー、よかった」
弱弱しいノエルの声が、背後から聞こえる。シェリーは答える余裕もないようで、声を殺しながらクライドの腕に爪を立てて泣いている。きっとのた打ち回りたいに違いないのに、彼女ときたらそれに耐えようとしているのだ。なんて強い子なのだろう、我慢せずに泣き叫んだって誰も彼女を責めないのに。
思わず想像した。きっと痛いだろう、クライドと同じように全身の至る所に打撲や火傷があり、血は止まっているものの擦り傷だってあるだろう。それだけだ。クライドが今想像出来る痛みは、現在進行形で感じているこれらが全てだ。きっと想像を絶する痛みにのたうっていたのだろうシェリーの、痛みの程度はこれで下がるだろう。
魔法が効いたシェリーは驚いたようにクライドを見つめ、それから大粒の涙をこぼしながら弱弱しく笑う。視界が真っ白になり、呼吸が浅くなったことで予想より血を使ったことに気づく。自分で体を支えきれず、シェリーのほうに前のめりになってようやく体勢を保った。
「よく耐えたな。お前、本当にすごいよ」
そう言ってやると、照れたのかシェリーはクライドから目をそらした。そして、つないだままのグレンの手に気がついたようだ。その手をたどって、シェリーは持ち主のところに視線を移動する。
「グレン?」
シェリーは信じられないといった様子で呟き、グレンの手をそっと握り締めた。そしてクライドの胸を離れ、泣きそうな表情になりながら彼の胸に耳を当てた。二秒、四秒…… シェリーはグレンの胸に耳を当てたままでいた。
今になって気づいたが、シェリーが持っていたはずのエルフ特有の尖った耳は、本当に丸くなっていた。シェリーは、外見からすれば完全に普通の人間だった。ただ、髪の色が鮮やかすぎることを除けば。
「よかった、生きてる」
シェリーはそう呟いて、グレンの胸から顔を上げた。そして、ゆっくりとグレンの耳元に顔を近づけた。と、その瞬間グレンの腕がさっと伸びてきて、片腕でシェリーを抱きしめた。グレンはこれ以上ないくらいに疲れきっている様子で、しかし辛うじて生きていた。
よかった、全員無事だ。無事に皆で帰れるのだ。クライドは、いるのかいないのか解らないが神様に感謝した。
「わり…… 返事する、気力なかった」
「いいんだ、そんなこと」
シェリーとグレンは短く会話を交わしている。そしてその後、シェリーがグレンを助け起こしてやっていた。
クライドは立ち上がり、グレンの肩を抱いた。グレンも弱弱しくだが、ちゃんと抱き返してくれる。
そして、床に横たわったままのノエルに手を貸してやった。アンソニーは、グレンがひょいと持ち上げたので問題はなさそうだ。こんなに体力の低下しているときでも、グレンは仲間に対する姿勢を全く変えなかった。凄い男だと思う。
「クライド」
呼ばれたので振り返ると、ウルフガングが見えた。きらきらとした光に包まれた彼は、今は幽霊と言うより天使のように見える。
どうしたのだろう。漠然と不安を覚える。
「ウォル?」
「帰ろう。お前の故郷へ」
穏やかな声だった。その言葉を最後に、視界が白く染まる。まぶしい光の中でクライドは一所懸命に目を開けて、ウルフガングの姿を探した。だが、その甲斐も空しく意識がフェードアウトする。