第六十話 明日を生きる力
次の日、クライドは一日中船室に寝ていた。自分の荷物はジャスパーかジェイコブ、もしくはあの監督が気を利かせて持ってきてくれたようでちゃんとあったのに、着替えもせずにそこにいた。
昨日イノセントたちに出会ってから丸一日、殆ど何も口にしていない。クライドは虚ろな目で虚空を眺め、ため息をついていた。
考えるのは勿論、レイチェルやハビのことばかりだ。結局誰も助けられず、何も手に出来ず、全てがこの手の中から零れ落ちていくのだ。足掻けば足掻くほど、引きずり降ろされていく。
これ以上、クライドに何を失えというのだろう。これから帝王のもとで親友の三人を失えというのなら、今すぐにでもこの命を失ったほうがまだましだ。
「らしくないわよー」
ふわり、声と同時に髪がかき乱される。驚いてちゃんと目の焦点をあわせると、何も無かったはずの空中にレイチェルがいた。クライドを上から覗き込んでいる。
クライドの髪を掻き乱したのは、目の前のレイチェルの手だったようだ。
「レイチェル」
気の抜けた声が出た。幻だと思ったが、一瞬では消えなかった。彼女はレイチェルに間違いなかった。生きていたときの姿で、生きていたときの声で喋っているが彼女はもう幽霊なのだろう。
クライドは起き上がり、レイチェルをまじまじと見つめた。レイチェルは目を伏せて、申し訳なさそうに唇を噛んだ。
「クライド。ごめんなさい、私」
「あやまるなよレイチェル」
どうして謝るのだろう。謝るのはこちらのほうだ。助けてやれなかった。最後に会えもしなかった。おまけに逃げた。あの島から、カフェ・ロジェッタから、嫌な記憶から、逃げた。
「だって、生きてあなたに会えなかった…… やっと見つけたと思えば泣いてるし」
レイチェルは少ししんみりした声でそういったが、次の瞬間悪戯っぽく笑った。クライドは頬が高潮するのを感じた。
泣き顔なんて誰にも見られたくない。少しのことですぐ泣くような弱虫だと思われたくなかったからだ。それでも、誰かが死んだときくらいはクライドだって泣きたくもなる。ましてや、彼女は殺されたのだ。最後に別れも言ってやれなかったのだ。
「見てたのかよ」
「見えちゃったの。仕方ないでしょ?」
表面上はレイチェルにあわせて、いつものように明るい声でクライドは言った。しかし、内心ではひどく動揺していた。死んだはずの、もう会えないはずの彼女が目の前にいる。
くすくすと笑いながら、レイチェルは風も音も立てずにそこらを歩き回った。もともと音を立てずに歩く彼女だったが、軽やかに踊るようなステップで不安定な甲板を歩いても全く音がしないので、さすがに幽霊であることを認めざるを得なかった。
せっかく会えたのに、彼女はもう生きている人間ではない。しかし普通は死んだらそれきり会えないのだから、幽霊になって会いに来てもらえたクライドの場合は喜ぶべきなのだろう。
「よかったわクライド、もう泣いてない」
「そんなにいつまでも泣いてねえよ」
レイチェルに笑顔でそういわれ、思わず普通に反論してしまう。するとレイチェルはふと柔らかい笑みを漏らし、クライドに抱きついた。
背中に回された彼女の腕はとても空疎で、触れていてとても奇妙だった。この体勢だったらレイチェルの体重のおそらく半分くらいはクライドにかかっているはずだと思うのに、重さは少しも感じられない。
クライドは、それでもレイチェルを抱きしめようとした。彼女の頭に片手を乗せると、まるで空気の塊でも抱きしめているような気分になる。
力をかけようとしたら、この手は彼女の頭をすりぬけて自分の胸に当たるのだろう。そう思って、クライドは少し悲しくなった。
「好きよ、クライド。本当は出会う前から知ってたの。どうせ任務のために貴方を裏切るならしっかり嫌われようと思ったのに、そうできなくて…… ごめんなさい。貴方だったら、私を受け入れてくれるんじゃないかって、夢を見てしまった」
クライドの腕の中で、レイチェルは言った。その声を聞きながらまた涙が溢れてきそうになり、クライドは黙って頷いた。頷いて、下ろしていた方の手も彼女の背中に回す。
「そんなに哀しい顔しないで、クライド。私だって哀しいわよ、何で死んでから告白しなきゃならないのよ」
レイチェルはクライドを見上げながらそんなことを言った。クライドは確かにそれもそうだと思い、少し笑った。
束の間、レイチェルが幽霊だということを忘れてしまったというのもある。だがやはり、それはレイチェルの存在がクライドに笑う元気を与えてくれたからだということに尽きる。
「確かにそうだな」
そう答えると、レイチェルは頬を微かに上気させて微笑んだ。そして彼女は、軽く背伸びしてクライドに口付ける。驚いた。目を閉じている余裕なんて無かった。
好きな女の子とキスしたのなんて、別にこれが初めてだというわけではない。だが、幽霊になった彼女が想いを伝えてくれるなんて全く考えていなかったのだ。不意打ちすぎて、目を丸くしたままレイチェルを見るしかない。
普通に触れ合えば感じるはずの、柔らかな唇の感触はなかった。それでもクライドにとってそれは、確実に意味のあるキスだった。レイチェルを見ると、どうしてこんなにも胸が苦しくなるのだろう。どうして先に死なれてしまったのだろう。
好きだったのかもしれなかった。クライドも、レイチェルを好きになりかけていた。この思いに彼女が死んでから気づくなんて、これはあまりにも皮肉なことだった。
確かに、出逢った頃は苦手だった。しかし一日一緒にいて、彼女の明るさに素直に感心した。そんなことなど少しも思っていないような素振りを見せて冷たくしておいて、彼女に嫌ってもらおうと頑張っていた。
それが、レイチェルはクライドを嫌うどころかますます優しくなった。そして、極めつけはあのマフィン。腕に結んでくれたリボン。ハビに殴られた後の、弱弱しくクライドを求める声。彼女の存在は大きくなりつつあった。本当に、あともう少し一緒にいれば、クライドもレイチェルに恋心を抱いていたかもしれなかったのだ。
「あと一日生きていれば、クライドは私にキスしてくれた?」
レイチェルは泣きそうな目でクライドを見上げていた。クライドは頷きたかったが、ふと思いなおす。恋に発展することが確実だったとしても、クライドはレイチェルを無理に嫌いになろうとしただろう。
グレンとシェリーのように、自分たちも別れてしまう運命にある。二人は今でも想い合っているだろうが、自分の場合はどうだろう。恐らく、クライドのほうが耐えられなくなる。
帝王と戦うことになったとき、レイチェルのことを思い出して尻込みするのは嫌だった。レイチェルにもう一度会いたいから死にたくないとか、ぎりぎりになってそんなことを考えるのは嫌だった。だから自然と、心にセーブをかけていたのかもしれない。
「何かのはずみで不本意に…… っていうのならありえたかもな」
「何よそれ、もっとロマンチックな返事を期待してたのに」
そんなことを言われても。クライドは笑って、レイチェルの髪をくしゃくしゃと撫でた。指の間でさらさら揺れる髪はやはり空疎で、触れていて悲しくなる。クライドは、思わず強くレイチェルを抱きしめていた。
空疎ではあるが彼女の存在はしっかりしていて、クライドの腕がレイチェルの身体を通り抜けてしまうことは無かった。
「ごめんレイチェル。助けてやれなかった。俺があの時もっと早く出て来ていたら、レイチェルは死ななくて済んだ。きっとそうしたら、二人の望むとおりに未来が運んでた」
泣きそうになりながら、クライドはレイチェルを抱きしめた。罪悪感と後悔、そして悲しみが押し寄せてきて、それが涙にかわりそうになるのを必死にこらえた。
「どうせ死んだわよ、自分を責めないで。私が弱かったからいけないの。ハビはクライドみたいな華奢な人が勝てる相手じゃないもの、たとえ魔法を使ったとしてもね。ハビには仲間がいっぱいいるわ。相手にするなら、クライドも仲間を連れて行かなきゃ」
「でも、俺」
言いたいことがたくさんあった。自分を責めないでという言葉に、また泣きそうになる。どうして自分は今日、こんなに泣きそうになってばかりなのだろう。
全て赦してくれるレイチェルの優しさに触れた今は、どうも涙腺が弱くなったようだ。どうしてそんなに優しいのだろう。自分は、そんな優しさを向けてもらえるほど立派な人間ではない。
「ハビは良い人よ。だから私も、ちょっぴり躊躇ってしまったの。本当は、従業員をワインボトルで殴りつけて笑っていられる人じゃないわ。あの人すごい二重人格で…… 貴方の手で、目を覚まさせてあげて」
「え?」
てっきりレイチェルはハビに復讐してくれとでもいうのかと思った。拍子抜けして、間抜けな声を上げてしまう。レイチェルはちょっと笑って、クライドに穏やかな目を向ける。
「帝王様のことが片付いた後で良いわ。とにかく、ハビはあなたに対して凄い罪悪感を抱えてるはずなの。勿論、私に対してもね。だって嘆いてたわあの人。何度も何度もごめんって言ってた」
彼の笑顔が頭に浮かんできた。穏やかな優しさを持った心が広い人。皆に安らぎを与える、カフェ・ロジェッタのオーナー。
「ハビさん……」
声にならない声で呟いた。唇がわなわなと震えだし、頬を涙が伝う。必死でこらえても、涙は止まってくれなかった。レイチェルは困ったように笑いながら、空疎な指でクライドの頬をぬぐってくれた。
「私はいつもそばにいるわ。だから泣かないで、クライド。あなたの幸せをいつも願ってる」
「ん、ありがとうレイチェル」
「帝王様は私にとって至高の人だったけど、今はあなたの方が上だわ。もっと早く出会えていたら、私…… ううん。違うわね。帝王様に出会ったからあなたとの出会いもあったんだもの。間違ってなかったわ、この人生。きっとそうよ」
「倒しちゃうよ、俺。お前の『元』至高の人」
笑いながら涙をぬぐい、クライドはレイチェルの身体を離した。もとから存在していなかったはずのぬくもりが、なくなってしまったように思う。実際彼女が生きていたら、ぬくもりが離れていくのもちゃんと感じられるのだろう。
「大好きな貴方が世界に光をもたらしてくれるなら、それが本望よ。じゃあ、さよならクライド。天国でまた会いましょ!」
「レイチェル……」
「あ、でもまだ来ちゃだめよ。あなたはおじいちゃんになるまで、ちゃんと生き抜いて。大丈夫よ、おじいちゃんになった貴方もきっと、愛しくてたまらないから」
そういうとレイチェルはクライドの腕のリボンに軽く触れて嬉しそうに笑みを漏らし、少しだけ寂しそうに手を振った。
「あなたはどこまでも、あなたの道を歩むべきよ。出会えてよかった、クライド」
綺麗な笑みを浮かべて、レイチェルは空気に溶け込むようにして消えていった。クライドは、メイド服の少女が消えた虚空をいつまでも眺めていたが、やがて座り込んだ。
あなたはどこまでも、あなたの道を歩むべきよ。そういったレイチェルの言葉が、耳にずっと響いている。
「あれ、そういえば船が動いてないな?」
クライドは窓の外を眺め、呟いた。すると後ろから誰かがやってくる気配があったので、振り返った。後ろにいたのはイノセントで、隣を見るとジャスパーもいた。ジャスパーは色黒で若い男に姿を変えていて、両の目でどこか懐かしそうにあたりを見回していた。
「グレンたちは買い物に出かけた。皆、貴様を馬鹿らしいほど心配していた」
「馬鹿らしいって余計だろ」
イノセントの言葉に訂正をいれつつ、クライドは微笑んだ。大丈夫、まだ自分には仲間がいる。あの三人さえ一緒にいてくれれば、帝王だろうが誰だろうがきっと降伏させて、鐘を取り戻せると思う。
「レイチェルに会ったんだな」
無感動な声でイノセントが言った。まるで台本でも手渡されて、その内容を読みたくもないのに読まされている時のような口ぶりだ。彼なりに気を遣っているつもりなのかもしれないが、イノセントのことを知らない人がこの様子を見たら完全に逆効果だと思うに違いない。
「ああ。今もきっと、俺のそばにいてくれる」
感情が抜け落ちたようなイノセントに向かって明るい声で切り返しつつ、クライドは虚空を見上げて笑んだ。どこかにレイチェルがいてくれる。そう考えるだけで、気持ちが少し軽くなった。
彼女の言葉どおり、クライドは自分の道を歩もうと思う。自分のやるべきことを、最優先に考えたい。精一杯あがこう。怯んだりはしない。後悔も、もうしたくない。
グレンたちが帰ってきたのは、結局その日の夜中だった。脱走しないようにと、ジェイコブと監督もグレンたちについていったようだ。二人がいないことには、すぐに気づかなかった。
グレンたちが何をしていたのかと思えば、皆でクライドが好きな飲み物や食べ物、本などを買って来ていたのである。実に申し訳ない。
クライドは嬉しさに笑みを浮かべながら、三人に改めて礼を言った。そして、一日振りに食事にありついた。