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第五十九話 喪失

 それから二日間、同じようにして釣竿一本または二本で魚と格闘する日が続いた。しかし、最初の日ほどの大魚を吊り上げることはなかった。

 クライドは一人、甲板に座って考え事をしていた。履き古したジーンズのポケットには、ハビから貰ったアンティークの壊れた時計が入っている。ポケットに手を入れてそれを玩びながら、クライドはふと左腕に目をやった。左腕には、レイチェルから貰った黒いリボンをまだ結んである。一度シャワーを浴びている最中にするりとほどけてしまったことがあったが、また結びなおして今に至る。

 島を出たあの日の一件以来、仲間たちは互いの信頼をより深め合っているように思う。だが、自分はどうだろう? 信頼を裏切るようなことばかりしていないだろうか?

 レイチェルやハビが頭をよぎる。レイチェルの安否は最後までわからないままだった。イノセントに会う機会があったら聞いてみたいと思うが、彼は友達の兄である以前に敵なのだからうかつに話しかけたりはできない。

「クライドー」

「何だグレン」

 とりあえず、グレンに話しかけてもらえたからこれ以上マイナスの方向に考えを進めずにすんだ。心の中で彼に感謝をしつつ、クライドは太陽を背にして立っている背の高い少年の顔を見上げる。

「燃料やばい。夜間に流される分を考えるとやっぱ足りてなかった」

「うわあ、何だよそれ。勘弁してくれよ。潮流は?」

「このままだとアルカンザル・シエロ島の方に戻される」

 絶望的だ。振り出しにもどるのと同義だ。あの島ではもう仕事はできないし、どうすればいいのだろう。

「困ったな。この船もハイブリッドにすればいいのに」

「どう改造するんだよ。それに、電源はどこにあるんだ」

 自棄になって呟いた言葉に、グレンが真面目に反論してきた。クライドは大きなため息をつき、甲板に大の字になった。

 もう考えるのが辛くなってきた。これ以上考え事をしていられる余裕など、この頭には無い。

「そういえば、ノエルがお前に薬の材料を貰ってきてくれてたみたいだぜ。あまりにきつくなったら調合して飲めよ、エルフの薬」

「助かる。ノエルにありがとうって言っといて」

 薬があれば魔力を使った策を考えるということも出来るが、クライドは薬を調合しているような元気などなかった。今はとにかく寝てしまいたい。眠って、起きて、また頑張れば良い。太陽は天頂から少し傾き始めていた。

「俺、寝るよ。夕方頃になったら起こしてくれ」

「解った。おやすみ」

 クライドは目を閉じた。暫くは意識があってまぶたを閉じた目で真っ黒な闇を見ていたが、やがて心地よい船の揺れに誘われるままに夢の世界へと足を踏み込んだ。

 夢の中でクライドは、大きな渦の真ん中にいた。周りを渦巻いているのは海水なので、足を踏み出せば流れに巻き込まれてしまうだろう。冷静に考えれば、そもそも水の上に立っているということ自体がおかしいので越えようと思えば越えられたのかもしれないが、クライドの心の中にそんな悠長なことを考えている余裕などなかった。

 渦を臆し、一歩も動けなくなって立ちすくむ。するとそこに誰かがやってきて、クライドを助けてくれた。右の手首を暖かい手で掴まれて、しっかりした胸で受け止められる。誰だろうと思って彼の顔を見ると、ハビだった。どうやったのかは知らないが、ハビは渦に触れずにクライドを救出してくれたのだ。

「大丈夫、クライド」

 屈託の無い笑みでいうハビに、どんな顔で何を答えたら良いのか解らなかった。

「レイチェルは無事だよ。僕は影の男に操られていたんだ。酷い想いをさせてしまったね」

 そういうハビの優しい笑みが、クライドにとって偽物に見えた。しかし、そんな偽物が現実であれば良いという強い願望もあった。

 しかし所詮それは叶わぬ望みで、ハビがクライドにそんな優しい言葉をかけてくれることはおそらく二度とない。一生会うこともないだろう。再会することがあったとしても、敵同士としての再会だ。久しぶりに、哀しい夢を見た気がした。

 こんな子供だましの嘘に騙されるほど、クライドは単純ではない。ハビはレイチェルをかなりの勢いで殴りつけたからきっとまだ傷は完治などしていないだろうし、影の男はハビをあやつってなどいなかった。ハビは親しげに、彼のことをマーティンと名前で呼んでいた。

 少なくとも、クライドが知っている優しいハビはもう戻ってこない。止まってしまった時計のように、いずれは捨て去られてしまうのだ。きっと彼は二つの顔をもっていて、今までは仮面である方の優しい顔を活用していたのだ。だからきっと、これからは狂気に満ちた顔がハビのいつもの顔になる。

 目が覚めると、頬に涙のあとがついていた。そしてクライドは、何故か見慣れない船室にいた。頬の涙をぬぐおうとして、クライドは異変に気づく。

 手足が縛られている。

 仰向けの姿勢から転がって体勢を変え、目に入るものを分析しようと試みる。ここはオレンジがかった色をした電球に照らされた船室で、クライドたちが載っていた漁船と同じようなつくりになっている。部屋の隅にはバッグやトランクなどの荷物と一緒に大きな帆布が丸めておいてあった。漁船に帆布など必要ないと思う。

 バッグやトランクなどは、どれも見覚えの無いものだった。見たところ、形態や大きさは様々だがそれらを合計してみると三人分から四人分あるようだ。

 もう一度あお向けになり、今度は先ほどとは逆の方向を向いてみる。目に入ったのは、やはり帆布の塊だった。しかもそれは何かを隠すためにかぶせてあるらしく、中心のあたりが異様に膨らんでいた。

 再び体の向きを変え、クライドは手首を縛る紐が切れるところを想像した。数秒で手首は楽になり、紐の残骸が床に散らばった。魔法の保護はかかっていない、ただの紐らしい。クライドは上半身を起こして、足首に縛られた縄は手で解いた。靴はちゃんと履いたままで、何処にも外傷は見当たらない。

 首を見れば父から譲り受けたお守りと漁師のお守りがちゃんとかかっていたし、手首にはレイチェルから貰ったリボンがちゃんとまいてあった。何も盗られていないということに安堵し、クライドはとりあえず船室のドアから見て左側にある壁まで歩いた。

 そして、その近くに丸めて放置されていた帆布を引っ張る。結構な重みを感じたが、少しためらった挙句もう一度帆布を引っ張ってみた。

 するり、軽い衣擦れの音を立てて帆布はクライドの手元に手繰り寄せられた。中から出てきたのは、身体を丸めるようにして横たわっているアンソニーだった。彼も両手と両脚を縛られている。

 クライドは急いでアンソニーを揺り起こし、手と足の紐を解いてやった。アンソニーは驚いたように辺りを見回し、それから不安そうに寄ってきた。

「クライド、どこなのここ…… ねえ、グレンとノエルどこ?」

「俺にもわかんない、でもこれがそうかも」

 不安げに言うアンソニーに向かって、クライドは向かいの壁沿いにおいてある帆布のかたまりを指差した。アンソニーは頷いて、クライドと一緒に向かいの壁際まできてくれる。そして、一緒に帆布を引っ張ってくれた。

 中からは、予想通り彼らが出てきた。ノエルはすぐに起きてクライドとアンソニーの姿を確認してくれたが、グレンは気を失っていてすぐには目を開けてくれなかった。クライドはグレンの頬を軽く叩いて、肩を揺すったりして起こしにかかった。

 グレンは暫くしてようやく目をあけて、最初に大きく咽た。何があったのかは大体察しがついた。恐らく、腹を殴られたりしたのだろう。グレンは少しの間言葉を発しなかったが、やがて口を開く。

「皆無事か? よかった、殴られたの俺だけか」

 やはり殴られたのか、ちっとも良くなんてないじゃないか。クライドはそういいたかったが、グレンが続きを話すようだったので黙ったまま彼を見下ろした。

「お前が寝たあと、ノエルもトニーも昼寝したんだよ。だから俺も自動操縦に切り替えて甲板に出たら、左舷の方に漁船が寄ってきてぴったりくっついてきたんだ。ロープ引っかけようとして何かやってるのが見えたから止めようとしたら、急に後頭部を誰かに殴られて、意識が飛ぶ寸前にもう一発腹にきて意識ぶっ飛んだ」

 クライドがそれを最後まで聞く間、グレンはうつ伏せだった自分の身体をどうにか仰向けにして息を荒げていた。

 クライドは彼の呼吸が正常になってくれるようにと願いながら、彼の手首を軽く握った。少しだけ魔力をわけてやったのだ。グレンは頭をかきながら起き上がり、クライドに礼を言う。

 クライドは帆布の近くにあるトランクが気になり、引き寄せて留め金に手をかけてみた。鍵などはかけられていないようで、簡単にトランクは開いてしまう。中に入っていたのは、手のひらに収まってしまうくらいの小さな瓶だった。

 それはかなり大切にされているようで、衝撃を吸収するクッション素材の材質に穴を開けた真ん中に収まっていた。クッション素材はトランクの中に隙間なくつめられていて、様々な衝撃からこの瓶を守っていた。

 瓶の中には薄い緑色をした液体が入ってる。その液体の色は、何となくノエルの目の色に似ていた。

「あっ」

 トランクが取り上げられた。取り上げた主を座ったまま睨み上げると、仏頂面のイノセントがこちらを睨み下ろしていた。こんなことをするのは帝王の一味かマーティン=パストンの一味かどちらかだろうと思っていたから、イノセントの登場にもクライドは驚かなかった。

 数秒にらみ合う。そして、クライドのほうから先に口を開いた。

「俺達を誘拐して何するつもりだよ」

「帝王に差し出す。貴様らは黙ってそこにいろ、逃げようなどと考えて妙なことをしたら容赦なく殺す」

 にらみ合ったままそんな会話を交わした。クライドはイノセントから目をそらし、ため息をついた。この男とにらみ合っていると、だんだんグレンとにらみ合っているような気になってくる。

「……グレン、どうする」

 イノセントにとてもよく似た、しかし全く似つかない雰囲気を持ったグレンに問う。グレンは少し考えたが、やがていたずらっぽく笑みを浮かべた。

 こんなグレンは久々に見る。近頃では、グレンがこんな少年らしい笑みを浮かべることもまれになって来ているのだ。

「いいんじゃねえ? 帝王の島まで乗せてってくれるんだろ」

 ああ、そうか。それでイノセントの魂胆が読めた。なんだ、これなら最初からイノセントたちに捕まっておくべきだった。どうせ殺されずに帝王のところまで送っていってもらえるのなら、最初から抵抗なんてしなければよかったのだ。

 クライドは少し自己嫌悪に浸ったが、仕方のないことだと思いなおす。普通、敵に望んで捕まりたいなどと思わないだろう。

「俺は逃げない。絶対逃げない。帝王なんて奴には負けない」

 呟いてみると、イノセントは喉の奥で低く笑った。嘲笑に聞こえないこともない。だがイノセントはうっすらと、邪気の無い微笑を浮かべていた。

「死んだら弔いくらいはしてやろう」

「ありがとう、じゃあ是非そうして」

 皮肉じみた答えを返し、クライドは前方を向いた。そしてふと思い当たることがあって座った姿勢のままイノセントを見上げた。

「なあ、レイチェルの具合は? 女の子だし、傷とか残らないといいよな」

 訊ねると、とたんにイノセントの表情が無表情に戻った。そしてイノセントは、クライドを見ないで斜め下を見やりながら、言いづらそうにこう言った。

「助からなかった」

 たった一言、そう告げられた。信じられなかった。助からなかった? どういう意味だろう。生きてはいるが植物状態になっているとか、そういうことなのだろうか。彼女が死んだはずは無い。

「死因は殴打が原因の脳出血だと言われた。一ヶ月ほど前に十六歳になったばかりだった」

「嘘、だろ? 何だよ死因って」

 思考回路が上手くつながってくれない。レイチェルは十六歳になったばかりだった。だった? 過去形になっている。

 それはもしかすると、もう十七歳にはなれないということになるのだろうか。そうだとしたらレイチェルは一体、どうしてしまったのだろう。

「レイチェルは死んだ。俺もまだ、受け止め切れていない」

 その言葉を聴いた瞬間、何かが壊れた。レイチェルは死んだ。イノセントは確かにそう言った。クライドはきっとイノセントを睨み上げる。

「嘘つくなよ! なんだよそんな冷静に! そんな何も思っていないみたいに! 趣味悪い冗談、」

 感情に任せて吐き散らしていたが、ふとクライドは言葉をとめた。イノセントは斜め下を見やったまま、限りなく無表情に近い悲しみを浮かべていた。はっとする。クライドは今、何度も彼を拒絶してしまった。

「表現できないだけで感情はある」

「ごめん……」

 イノセントは捨てられて傷ついて孤独に生きてきた男だった。誰よりも感情的だったからそういう人生を歩んだのだ。それを今まで忘れかけていた。

「法律の都合上、俺たちではレイチェルの遺体を島まで持ってくることすらかなわなかった」

「う、っ…… 遺体って……」

「あいつには身寄りがなかった。共同墓地に入ることになるだろう」

 涙が溢れてきた。あの明るい声と無邪気な笑み、揺れる黒髪に猫を思わすアーモンド形の目…… それらすべてが、もう二度とみられないのだ。結局何もしてやれないまま、レイチェルはクライドの手の届かないところへ行ってしまった。クライドを護るといって、ハビと戦って、クライドのために死んだ。

 どうして、と今まで何回思っただろうか。何故、クライドの大切なものはだんだん奪われていく運命にあるのだろう。

 平和も、平穏だった日常も、学校生活も、漁師の志と一緒に貰い受けた漁船も、やっとみつけた居心地の良い職場も、優しかったハビもレイチェルも。もう何も失くしたくなんてない。もう誰も失いたくなんてない。

「あと十日ほどで帝王の孤島にたどり着く。それまでに心を落ち着けておけ」

 そんなことを言われたが、クライドの頭の中には少しも響いてこなかった。

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