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第五十八話 憂い

 店から逃げたが、誰も追ってこない。おそらくイノセントの計略か何かで、ハビたちは追って来ることができないのだろう。

 逃げながら、クライドは無言だった。なおかつ真顔で全速力で走り回っているので、通行人が驚いたのかこちらを振り返っている。

「クライド! 船に乗り込もう」

「ああ」

 グレンが追いついてきて、隣に並んだ。そして、船を隠してある場所まで一緒に走った。何が何だか解らなかった。あの優しいハビはどこへ行ってしまったのだろう。ポケットの中で揺れる時計の重みが、少し苦しく感じた。

 やがて船にたどりついた。甲板には、アンソニーもノエルもいなかった。船室に入ってみると、虚ろな表情のノエルがいた。アンソニーは床に丸まってぐったりとしている。一体、何が起こったのだろう。

「……ごめん、クライド」

 グレンが謝ってきた。胸騒ぎを覚え、後ろにいるグレンを振り返る。グレンは何か悪いことをしたときのように斜めの方向へ目をそらし、不味そうな顔をしている。

「何があったんだ?」

「ううっ…… げほっ、げほっ」

 後ろのグレンに問いかけていると、目の前のアンソニーが咽ながら起き上がった。クライドはアンソニーが起き上がるのを助けながら、グレンを見つめる。

「グレン、酷いじゃないかっ! いきなり殴るなんっ、げほっ」

 アンソニーは怒りのこもった目でグレンを見上げ、咽ながらクライドに寄りかかってくる。クライドは何があったのかを察し、グレンを軽くにらみつけた。グレンはしょげたように肩を落とし、アンソニーを見下ろして謝る。

「トニー、本当にごめん」

「どうしてっ、僕が行っちゃダメなの?」

 グレンとアンソニーの二人は、喧嘩を始めた。といっても、アンソニーが一方的にグレンを責めるだけなのだが。その間ノエルはずっと虚ろな目で斜め下を見つめていた。

「と、とりあえず船出すから」

 嫌な事態になってしまった。とりあえず出航して逃げておいて、五十キロ先の小さな島まで燃料を買いに行こう。そう思ってクライドは船を出した。意外と燃料が残っている、次の島までは何とか持ちそうだ。

 船を出したクライドの横にぼんやり立って、グレンが言い訳のようにアンソニーを殴った経緯について話してくれた。イノセントからの火急の連絡で初めての応援要請があり、危険な目にあわせたくなくてアンソニーを置いて行こうとしたところ口論になったのだという。ヒートアップした結果、手が出た。そこまでは推察できたが、問題はその後のノエルの行動にあった。あの冷静なノエルが、アンソニーを殴ったグレンを見て立ち上がると、かなり強烈な平手打ちをしたのだという。

「早くクライドを連れて戻って来い。僕はアンソニーを介抱する」

 そうしてグレンは、完全に堪忍袋の緒が切れたノエルを、後ろ髪が引かれる思いで置いてきたのだった。頭を抱えたくなる話だ、船上の空気は険悪どころではない。

 クライドはとにかく、船を操舵する以外に出来ることはないと思ってひとり操舵室に篭った。問題が山積み過ぎて胃が痛い。

 出航してから何時間か経って、島が遥かに遠く小さく見えるあたりまで来た。もう空は明るくなりかけている。アンソニーとグレンは既に喧嘩をやめて、二人とも背を向け合って寝入っていた。仲直りはまだらしい。

 寝る前のグレンに聞いたところによると、ノエルとアンソニーが二人で給料を出し合って、燃料を早めに少し入手したらしかった。それで思ったより燃料があったのだ。少し安心した。

 ノエルは眠れないのか、ずっと手紙を書きなぐっている。彼の周りには、乱暴にペンを叩きつけたような筆跡で書かれた手紙がそこらじゅうに散乱していた。

 サラに宛てたものらしく、ノエルは乱暴な筆跡で旅先で出会ったものについて思いをつづっていた。しかしそのうち手紙など書くのを放棄したのか、ノエルは書いた手紙を全てぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に放った。そしてクライドにちらりと視線を投げかけて、それきり顔も見ずに『おやすみ』とだけ言ってノエルも寝入った。

 クライドは色々なことを考えていた。レイチェルは大丈夫なのだろうか。イノセントは撃たれていないだろうか。ハビは死んでいないだろうか。ハビの生死について考えたとき、ふとポケットの中にあるものを思い出した。

 自動巻きの時計。壊れて、時を刻まなくなってしまった時計。けれどもハビが愛用していた、大切な時計。

 時計のことを考えていると、そういえば自分がまだカフェ・ロジェッタの制服を着ていることにも思い至った。夢だったと思いたかった。

 クライドは船を自動操縦に切り替え、ポケットの中身を取り出した。給料袋だ。給料袋の中身を取り出してみると、小銭と一緒に時計がでてきた。そして昨夜は気づかなかったが、多額の紙幣の間に小さな紙切れが挟まっていた。

「ごめんね、クライド。もっと早くに君を逃がしておくべきだった。きっと君には二度と会えないと思うけど、時々辛くなったら昨日までの僕を思い出してね。君は一人じゃないんだ。弟みたいだって言ったのは、本当の気持ちだよ」

 付け加えられた名前は、何故か書き間違えられて一度Iから始まろうとしていた。そのあとでペンで塗りつぶされ、ちゃんとXから綴られるハビの名前になっている。苗字を書こうとしたのだろうか。クライドは紙切れを握り締め、うなだれた。

 どちらを信じれば良いのだろう。狂気的に笑みまでうかべながらレイチェルを殴り倒したハビと、いつでも穏やかにクライドを励ましてくれたハビ。じっと紙切れを眺めていると、涙が頬を伝うのを感じた。どうして、こんなことになってしまったのだろう。

 レイチェルが帝王の仲間ではなかったのなら、こんなに哀しい事件は起こらなかっただろうと思う。どうしてレイチェルは帝王なんかの仲間になってしまったのだろう。

 明るい笑顔でマフィンを差し出してきたときの彼女の顔が忘れられない。少し我侭で、それでも何かに向けて一生懸命な姿がとても印象的だった。はじけるような笑顔に、気まぐれに見えて以外と真っ直ぐな性格。悪くないな、そう思い始めた矢先にこんな事件が起きてしまった。

 どうして、ハビがレイチェルを殴る前に止められなかったのだろう。後悔ばかりが胸を満たす。

「レイチェル、ごめん」

 レイチェルのことを考えると涙が出てきた。あの華奢な体が吹っ飛んだところなんて、思い出すだけで痛々しい。ふと腕を見れば、レイチェルに貰ったリボンがまだ結んであった。いよいよ涙が止まらなくなった。クライドは狭い操舵室を出て、少しでも酸素のある場所へ行きたいと思って甲板にふらふらと歩いて行った。

 押し寄せてくるのは後悔と自責ばかりだ。自分のふがいない態度でハビをとめられなかったのだと思うと、レイチェルに申し訳ないと思う気持ちが心に圧し掛かってくる。

「なあ、俺これからどうすればいいのかな。教えてくれよレイチェル」

 勿論、こんな問いかけに誰が答えてくれるはずもない。クライドはじっと、まだほの暗い色をした海を眺めていた。じっと保護柵にもたれかかり、目を閉じる。このまま落ちてしまっても良い。そうすれば少しは頭が冷えて、どうにかまた思考できるようになるかもしれないから。

 船の揺れで体が傾ぐ。身を任せてそのまま海へと飛び込もうかと思ったとき、すごい力で右腕を引っ張られた。

「なにやってんだよクライド! お前死ぬ気かよ!」

 裏返るほどの叫び声と共に、肩をつかまれて揺さぶられた。グレンだ。

 後ろの方で息を荒げているのはノエルだ。どうやら、腕を掴んでくれたのはグレンではなくノエルらしい。アンソニーは相変わらず寝たままなのだろうか。クライドはグレンの手をそっと振り払い、甲板に寝転んで空を見上げた。

 するとノエルがクライドの頭の横にしゃがみこんで、クライドを見下ろしながら言った。

「そんなに思いつめて。目を腫らして。君にのしかかった問題は、君だけの問題じゃない。ちゃんと僕にも分けてよ、クライド」

 クライドの前髪をかきわけ、ノエルは唇を噛む。それはとても、痛ましい表情だった。いつになく饒舌なノエルは、クライドの額に張り付いた金髪を骨ばった指で撫で、優しい声で続ける。

「昨日のことは本当に反省しているよ。ごめんね。僕の配慮が足りないせいで君を傷つけてしまった。君を助けるための最善策を、僕は見誤った」

 そう言う彼の微笑が物凄く儚げに、そして苦しげに見えて、クライドは胸の奥を締め付けられたように感じる。首を横に振った。ゆっくり、それでもとめずに何度も。また泣けてくる。どうして自分はこんなに他人を苦しめてばかりなのだろう。少しは安息の場所がほしい。

「思いつめてんの、そっちだろ…… お前は何も悪くなんかないよ。ごめんな、俺わがままで」

 そこから先に言葉は要らなかった。ノエルはクライドをそっと抱き寄せてくれた。失くしたくないと思ってもらえていることが、その確かな体温を通じて解った。彼のこんな親愛の表現は初めてだが、あの聡明な彼でも言葉に出来ない想いがあるということを、クライドは嬉しく思った。

 やがてクライドを離し、にこりと微笑んでからノエルはグレンのほうを向いた。その微笑は、先ほどの苦しそうな微笑とは違って穏やかで、いつもどおりのノエルの微笑だった。

「グレン、君にも謝らなきゃならないね。君が何の理由もなくあんなことをするような人じゃないって解ってる。だけど僕も、一時の感情に流されたんだ。手を上げるなんて、僕も自分が何をやったか最初わからなかった」

 この位置からでは、ノエルの表情が見えない。しかし声からは、深い後悔が窺えた。グレンは心から安堵したように笑い、ノエルに向かって謝った。

「ごめん、ノエル。クライドがやばいかもって思ったら、つい…… お前らまで怪我させるわけに、いかないからさ」

 ノエルはそれに苦笑しながら頷いた。そして、こちらを軽く振り返る。穏やかないつものノエルの表情に安心する。

「もう俺のことでこんな風にならないでくれ、本当に頼む」

 二人は、答える代わりに満面の笑みを浮かべてくれた。クライドは安堵して、甲板の上に仰向けになった。まだ一睡もしていない、眠いのだ。


 目を覚ますと、空がほんのりと茜色に染まっていた。クライドは寝すぎたと思い、腹筋の力で手を使わずに起き上がった。単に眠気を吹き飛ばしたかっただけなのだが、となりからわあと声が上がった。

「クライド、寝起きでそんなことできるんだね」

 昨日までグレンと喧嘩していたのに、いつもどおりに話しかけてきたアンソニーに少しおどろいた。もう解決したのだろうか、グレンとの間のことは。

「いや別に、グレンとか普通にやってるだろうし」

「そうだね」

 どうやら解決したらしい。アンソニーはグレンの名を聞いても不快そうな顔をしなかった。とりあえず、親友たちは全員元のように戻ったので安心した。安心すると体の力が抜けてきて、クライドはまた空を仰ぐようにして仰向けの姿勢で甲板に倒れこんだ。

「さっきノエルたちが補給してくれたけど、お金は殆ど燃料に使うことになっちゃったよ。ご飯、どうしよっか。ちょっとパンだけ買ってある」

 見れば、まだ見える距離に小島があった。目標にしていた隣の島だろう。クライドは少し考えて、目の前に広がる海を見つめた。

「しょうがない、晩飯釣ろうか」

「うん」

 アンソニーに声をかけたし返事も貰えたが、クライドは釣竿がないことに思い至って想像する。なるべく負担が軽くなるように、船の手すりの金属が二本の長い釣り竿になるところを想像した。目を閉じて情景を思い描き、すぐ下の足元を見て目を開ける。ちゃんと二本の釣竿が、クライドの足元にあった。

 一本をアンソニーにわたし、クライドは自分の釣竿をもって甲板を囲う手すりのところに来た。しかし、今度は餌がないことに気づいた。

「トニー、餌とってくる。何かあるかもしれないし」

「ルアーで釣るってどうだ?」

 船室に行こうかと思ってアンソニーに告げたとたんに、グレンの声がしたので振り返った。するとグレンは、手に妙な色をしたゴム製らしい何かを持っていた。先には針が着いている。

「そのルアー、主にシリコンでできているんだ。針はアルミじゃ弱そうだから、鋼を使っているよ。グレンがデザインしてくれたものを忠実に再現してみたんだけど、どうだい?」

 確かに、グレンらしいデザインだと思った。それは虫などではなく小魚の形をしていて、ひらひらした背びれには全部で五本もトゲがあった。獲物を逃がす気か。

 少しひれと体がアンバランスだが、なかなか愛嬌のある魚だと思う。すぐに背びれで仲間の魚を刺して回りそうな短気っぽい所はグレンにそっくりだ。

「ナイス、だけど……」

 しかし正直、その色はどうかと思う。デザイン的にはグレンに似ている魚だが、風に靡く彼の美しい髪の色や澄んだ眼の色とは程遠い澱んだ紫色をしている。

「あんまり派手だと毒もってると思われるだろ?」

 屈託の無い笑顔でいうグレンだが、クライドはグレンのその言葉を決定的な言葉で切り返した。

「いや、トゲついてる時点で既に毒もってそう」

「あっ」

 そうか、本人はファッション的感覚でトゲをつけたのだ。たった今、そう思い至った。クライドが妙なところに感心していると、グレンはクライドの釣糸についている針の先に妙な魚の形をしたルアーを取り付けた。

「とにかくやってみろよ、一か八かだ!」

 言いながら、グレンはクライドの肩を軽く叩いた。クライドはこんなもので魚がつれるのかといぶかりつつ、後ろのグレンに当たらないように気をつけながら釣り竿を大きく振った。海面にルアーが落ちたところをちゃんと確認する。

 それから十分くらい、何事もなく時がすぎていった。しかし、クライドがまどろみかけたその瞬間に糸を強く引かれた。

 クライドは思わず身を乗り出して海に転落しかけたが、即座に反応したグレンが掴んでくれたおかげで助かった。

 釣竿を握り締め、クライドはリールを巻いた。しかし、すぐに強い力で引っ張られる。グレンが後ろから、リールを巻くクライドの手に自分の両手を添えてくれた。クライドは彼を振り返って目線で礼をいい、釣竿を持っていかれないようにしっかりと両腕で竿を引いた。

「いいか、クライド。これから何が起こっても手を離すんじゃねえよ」

 後ろからそんな低い声が聞こえ、何があったか解らないままグレンの手が冷たくなる。そして、その直後に彼の左手の甲に大きな傷が出来た。傷からは見る見るうちに血があふれ出してくる。クライドの手にも生暖かい血がかかった。

 思わず釣竿を放しそうになったが、グレンの言葉を思い出してぎゅっと釣竿を握り締めた。おそらくグレンは、見えない手で巨大魚と格闘しているのだろう。グレンの手には、どんどん傷が増え続けている。

 クライドは目を閉じて、グレンのいつもの手を想像した。すらりと伸びた長い指に、クライドに比べると少し平たい爪。左手の中指にはペンだこが出来ているせいで皮が少し硬くなっているから、それもちゃんと思い描く。

 やがて目を開けると、傷など全く無いグレンの手があった。グレンは未だ魚を押さえ込むのに必死らしかったが、一瞬だけ魚が糸を引く力が弱くなった。そのタイミングを見切り、クライドは即座にリールを巻いた。徐々に大魚の影が近づいてくる。隣でノエルとアンソニーが、タモのようなものを使って援護してくれる。

 ついに大きな水しぶきを上げて、魚が甲板に飛び上がってきた。クライドはしばらくあっけに取られていた。魚の頭から尾びれまでの長さは、クライドの腰から下の長さと同じくらいなのである。驚くのも無理無いことだ。

「朝飯も大丈夫だろうな。おい、今日はおかわり自由だぜ!」

 晴れやかに笑って、グレンが言った。

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