第五十七話 集結
物音で目が覚めた。何の音だろう、硝子が割れる音のように聞こえた。
クライドはまだぼんやりしている頭をさすりながら、そっとあたりを見回す。月明かりだけが差し込む薄暗い部屋だ。最初は見覚えがないと思ったが、少し考えてからここがカフェ・ロジェッタの従業員スペースであることに気がついた。
立ち上がろうとしたとき、ポケットに重みを感じる。手を入れて探ってみると、中から封筒が出てきた。
封筒は、昨日ハビが渡してくれた給料の封筒と同じものだった。開けてみると、中には昨日よりも随分と大きい金額の紙幣と、何故かハビの物であるはずの壊れた時計が入っていた。
どうして、こんなものを? 胸騒ぎがした。ハビがアンティークの壊れた時計で何を伝えようとしているのか、知ってはいけないような気がする。
男女が言い争うような声が聞こえる。言い争うというか、一方的に女のほうが責めている調子だ。身を起こすと、ドアが少し開いているのに気づいた。物音を立てないように立ち上がり、ドアの隙間からカウンター側を覗く。
まずハビが見えた。そして、ハビに向かって叫び散らしているレイチェルを見た。何故ふたりが喧嘩しているのだろう。相当深刻な様子で、二人はお互い視線を外さずににらみ合っている。
「嫌よ。渡さないわ、絶対に渡さない。私が命をかけてあの人を守るんだから!」
「どうかな。僕に預けたほうが安全だよ、少なくとも殺さないから」
「嘘つかないで。搾り取るだけ搾り取ったら、跡形もなく消すんでしょ。あなたたちの手口なんて、見え透いてるわ」
事態がうまく飲み込めない。あの穏やかなハビの口から、最上級に物騒なワードが飛び出している。
ここで出て行ってはいけないと直感で思った。二人の口論に巻き込まれるのは、貧血がしっかり治りきっていない今危険である。何かあっても身を守る術が限られているではないか。
レイチェルは泣きそうな顔をしたが、大きく息を吸い込んで右手をまっすぐ前に突き出した時には真顔に戻っていた。
その手に握られた銀色の物体に、クライドの思考は停止した。鈍く光るそれは、銀色の拳銃だった。彼女はそっと左手も拳銃に添えると、真っ直ぐにハビを見つめる。
「貴方を殺すのは勿体無いけど、仕方ないわ」
いつもどおりの声だった。別段上ずってもいないし、映画の犯人役か何かのように物騒に低くなっているわけでもない。レイチェルは、胸の正面辺りの高さで銃を構えている。そのぶれない姿勢に、一見して持ち慣れていると分かった。
銃を向けられているのに、ハビはいつもと別段変わらない穏やかな態度でレイチェルを見下ろしていた。
「残念だね。上手だったよ、無害そうな普通の女の子の演技」
優しい声だ。父親的な包容力を持った、穏やかなハビらしい声である。
普通の女の子の演技とは、どういうことだろう。彼女は普通ではないと、ハビはそういいたいのだろうか。目の前で平然とフェイクには見えない銃を構えているレイチェルを見ても、クライドは素直に事態を飲み込めない。身体は張り付いたように床から動かないのに、目だけは二人の様子に釘付けになっていた。
「ありがと。でも、さようなら」
乾いた音が響く。クライドは思わず目をそむけたが、直後にハビが喉で笑う声が深く響いたので目を開ける。銃を胸元に引き寄せて弾倉を確認し、舌打ちをするレイチェルが見えた。
「銃弾が入ってないみたいだけど、脅しかな? 君はやっぱり演技が上手だね。昼間の映画に出たらよかったのに」
そうか、今のは脅しだったのかもしれない。クライドは安堵し、座り込みそうになった。しかし、音を立ててはいけないと思いなおして立ったままでいた。
「あなた、私が目を離した隙に弾を抜いたわね? ぬかった。こんな時に感傷的になるなんて」
吐き捨てるようにそういいつつ、レイチェルは左手に隠し持っていた何かでハビを殴りつけるようにした。よく見るとレイチェルが隠し持っていたのは、手のひらに収まるくらいの小さなナイフだったことに気づく。彼女の動きには本当に音が無い。ハイヒールの女の子がこんな大きな動きをしたら普通は足音がするだろうが、彼女が立ち回っても音がしない。まるで猫のようだ。信じたくないが、彼女はやはりこういう場面に慣れすぎている。
ハビが着ている黒いベストの腹から胸にかけてが切り裂かれ、下に着ていたシャツが見えた。シャツが見えたのもその一瞬だけで、次の瞬間白かったシャツは赤に染まり始める。息を呑むクライドだが、ハビはほとんど動じなかった。ほんの少しだけ痛そうに眉を顰めたが、次の瞬間の彼はやはり穏やかに笑みを浮かべていたのだ。
「演技だってことにしてくれていれば、よかったのにな」
ハビは、後ろに伸ばしていた手を勢いよく引いた。ハビの左手には、カウンターに置いてあったワインボトルが握られている。一体何をするのだろうと思う間もなく、ハビはそれを力いっぱいレイチェルの頭に叩き付けた。
真っ赤な液体が飛び散ってレイチェルの体が横に吹っ飛ぶのと、硝子が割れる音がしたのが同時だった。ハビの手に残ったワインボトルは、十センチ足らずの飲み口だけだった。ハビはボトルの飲み口をそのあたりに放り捨て、レイチェルの服を乱暴に掴んで床から引きずり上げる。
信じられない光景だった。ハビは今、一体何をしたのだろう。クライドは一切の思考を断ってドアを開け放っていた。思ったより大きな音がして、ハビがこちらを向いた。その目には狂気的な色が浮かんでいる。
「ああ、起きたんだねクライド。調子は?」
あまりに場にそぐわないその発言に、クライドはしばし言葉を忘れて固まった。
ハビに肩の辺りをつかまれて、レイチェルはぐったりとしている。だが、レイチェルはまだちゃんと生きているようで、クライドを見て何か言おうとした。
「ハビさん、何で」
自分のものではないと思えるほど、声が震える。クライドはレイチェルを凝視していた。小刻みに震える彼女は、来るなと言うように首を横に振る。
レイチェルは力なく手をあげて、肩の辺りを掴んでいるハビの手首に触れた。今のレイチェルには、それが精一杯の抵抗なのだろう。ハビはそんなレイチェルの手を振り払い、くすくすと笑った。
「前々からむかつく子だとは思ってたけど、いざやってみると爽快だね。見た? すごい距離吹っ飛んだよ」
「お前、誰だ。お前は俺が知ってるハビさんじゃない」
これはハビではない。影の男だ。クライドはそう思いたかった。そう思いこんでいた。そして、ハビを睨みつける。レイチェルは力なくハビに掴まれたままでいるが、クライドから目をそらして痛そうに顔をしかめている。
ハビはにやりと笑った。そのあまりに下劣な笑みに、クライドは全ての動作を忘れて固まった。
「はっ。ハビねえ? クライド=カルヴァート、お前は何処に目をつけてんだ? チッ」
声はいつものハビの声だったが、喋り方は完璧に影の男だった。よかった、この人はハビじゃない。クライドは少し安堵して、ハビを見た。
しかし次の瞬間ハビは大声で笑い始めた。さもおかしそうに、腹を抱える勢いで笑い始めた。
「はははっ! 今の、我ながら似てた!」
笑いながら、ハビはこちらをちらりと見る。いつもの穏やかな微笑とはかけ離れた、嫌悪感を掻き立てる笑みだった。あんなに優しかった彼が、こんな下劣な笑みを浮かべることも出来るのだ。
「クライド…… 逃げて」
かすれた声でレイチェルが言った。ハビはぴたりと笑うのをやめ、虫の息になりかけているレイチェルを見下ろして軽蔑したように鼻を鳴らした。
「うるさい猫」
そういい、ハビは長い足でレイチェルの腹を蹴った。どすっと嫌な音がした。レイチェルは大きくせき込み、腹を抱えて丸くなる。その瞬間、クライドの中で何かが壊れた。
クライドはカウンターを乗り越え、ハビの手からもぎ取るようにしてレイチェルを奪い取った。そして、レイチェルを軽く抱きしめる。自力で立てないようで、レイチェルはクライドの身体に力なくもたれかかった。
「大丈夫、大丈夫、なんとかなるから」
レイチェルの耳元で、そっと呟く。レイチェルは弱弱しい動作で右手をあげて、クライドの頬に触れる。クライドはそんなレイチェルの手を両手で包み込むようにして握り締めた。冷たい手だった。
ぐったりしたレイチェルを床に下ろし、クライドはハビを睨み上げた。ハビは機嫌の良さそうな笑みを浮かべて、クライドを見下ろしている。
「ハビさん。何があったか解らないけど、俺は今からハビさんの敵だ」
ゆらりと立ち上がり、クライドは言う。レイチェルは相変わらず腹を抱えたまま、時折激しくむせている。何があったか知らないが、レイチェルが死に掛けている。
先にハビに手を出したのはレイチェルだが、ハビは加減を知らなすぎる。そんな巨体で渾身の力を振るったら、クライドだって死にかねないではないか。それなのにハビは、クライドよりも細くて今にも折れそうなレイチェルを渾身の力で殴り、蹴った。
信じられない。信じたくも無い。それでもハビがレイチェルを半殺しにしたことは事実であり、紛れもなく目の前にある現実だった。
「敵も味方もないよ、クライド。僕は君を傷つけない。君を狙う犯罪者は、こうして処分するけどね」
そんなことはクライドの知ったことではない。目の前で従業員を暴行したくせに、全く訳の解らない御託を並べられても今のクライドの頭には全く響かないのだ。
クライドはただ単純に怒っていた。あんなに良い人だと思っていたハビが、実はこんな悪魔のような男だったなんて。
「許さない!」
言い終わるか終わらないかのうちに、ハビに突っ込む。間近で腹部に蹴りを食らわせ、よろけたハビに足を引っ掛けて転ばせる。
うつぶせに倒れたハビを見下ろし、クライドは息を荒げた。怒りで頭がいっぱいになり、とにかくこの男を立ち上がらせてはいけないと思った。起き上がろうとした彼を再びうつぶせにし、背中から乗って腕を拘束する。背中にクライドの膝が変な入り方をしたのか、ハビは苦しそうな声をあげてむせる。
緩みそうな手を、震えるぐらいに力を込めて抑えた。優しいハビはいない。仲間もいない。全部ひとりで片付けなければならない。だから早くこの男を動けなくして、レイチェルを病院に連れて行くのが正解だ。
ふと、背後に気配を感じた。ハビはうつぶせのまま首を捻って、意外そうな顔でクライドの後方を見やる。
「クライド=カルヴァート。やめな」
後ろから手をつかまれ、クライドは暴れた。この男とも女ともつかない声は、間違いなく影の男だ。
彼がどうしてこんな場所にいるのかということよりも先に、また怒りが湧いてきた。きっとこの男が何かしたからハビがレイチェルに暴力を振るったのだ。そうに違いない。
「うるさい、離せっ! お前がハビさんを操ったんだな、畜生っ」
わめきながら暴れ、クライドは影の男の手から逃れた。振り返ると、影の男は嫌な笑みを浮かべてこちらを見ていた。おそらく本来の姿であろうと思われる、青い髪の男の姿をしている。
「いいや? ちがうねえ。こいつは自分の意思でこの小娘を殺した」
嫌な笑みに嫌な声。クライドは鳥肌が立つのを感じながらそれを聞き、歯を強くかみ締めた。このままだと血が暴走しそうだ。冷静になろうとすればするほど、影の男の存在に苛立たされる破目になる。
影の男に魔法をかける算段をようやく考え始めたとき、かつん、と床を踏む足音がした。振り返ると、なんとレイチェルが腹を押さえながら立ち上がろうとしていた。
「死んでないわ。黙って。あなたの声、耳障りよ」
レイチェルはゆらりと起き上がり、壁に手をついた。そして、ドアから入ってきた男に再び座らされた。
店内が薄暗かったので最初はよく見えなかった。だがよく見ると、それは帝王の孤島へ単身で向かっていたはずのジェイコブだった。もう帰ってきたらしい。ジェイコブは前に見たときよりも少し痩せていて、心なしか白髪が増えているように見える。
「手を焼かせるな、レイチェル」
怒ったような、しかし少し安堵したような声でレイチェルにそういい、ジェイコブはこちらをちらりと見た。クライドはレイチェルに駆け寄ろうかと思ったが、ジェイコブがいるのでやめておくことにする。
それよりも何故、ジェイコブがレイチェルの名を知っているのだろう? そして、なぜジェイコブがエフリッシュ語を喋っているのだろう。
「ごめんなさい、ジェイク」
誠意のこもった謝り方をして、レイチェルはまたぐったりとうなだれた。クライドは後ろにいる影の男や体勢を立てなおして咽ているハビのその様子を見つめる。
「これ以上喋らなくて良い。お前は何もするな」
黙って頷いたレイチェルを見て、ジェイコブはじろりとこちらを睨みつけた。クライドは思わず身を退き、ジェイコブをまじまじと見返す。
「小僧、そこをどけ。あとは俺がやる」
ジェイコブは興味をなくしたようにクライドから視線を外し、歩み寄る。後ろで銃を構える音がした。振り返ると影の男が、両手に銃を構えて不敵に笑っている。ハビはカウンターにその長身を凭れさせ、退屈そうな表情で脇腹に手をやっていた。
「どういうことだよ? 影の男、お前、ハビさんに何をしたんだよ、ていうか、みんな、どういう関係で……」
クライドは呆然として、ハビと影の男を交互に見比べた。すると影の男は、にやりと嫌な笑みを浮かべて、
「マーティン=パストンだ、名前で呼びな。てめえにはもう、名前を知られても問題ない。どうせもう姿は見られてるんだ、クソみたいなあだ名で呼ばせるほど親しくはねえ」
敵に自己紹介される筋合いなどない。クライドはレイチェルを振り返り、浅く息をしている彼女のそばに歩み寄ろうとしたが、ジェイコブに睨まれたのでその場に留まる。
ハビはくすくす笑って、影の男から目をそらしてこちらを見た。
「こうなっちゃったら、ネタばらしかな。僕、マーティンの友達なんだ。意外かな? かなり気が合うんだ」
カウンターに手をかけた姿勢のまま、ハビは笑っている。クライドが突っ込んだことよりも、自身の体の重さが災いしたのだろう。ハビは骨太な上に長身で、なおかつ筋肉質だから、きっと体重は結構あると思う。だから自分自身が床に叩きつけられたことのダメージで、余裕そうな顔をしながらも実は痛みをこらえているに違いない。
「嘘だ! 何が目的なんだよ! 俺に何かしたいなら、直接俺に手を出せよ!」
行き場のない怒りを押し殺し、クライドはわめいた。何語で叫んだのだかもう解らない。多分、母国語であるディアダ語で叫んでしまっただろう。
「何も知らないのか、お前は」
ディアダ語で割り込まれて思わずそちらを見やると、イノセントがいた。その隣には、グレンもいる。何故かグレンだけだ。
「グレン、お前」
思わず声を上げると、グレンはドアから身を乗り出して外を確認した。誰かが来ないか心配しているらしい。……まさか、アンソニーとノエルを振り切ってきたのだろうか?
「兄貴に連れてきてもらった。怪我は無いか?」
グレンはそういいながらこちらに歩み寄ってくる。クライドもグレンに歩み寄って、戸口の方へ逃げた。
ハビと影の男、もといマーティンの標的は、もはやクライドではない。二人は、クライドではなくジェイコブを狙っているのだ。そして今は、きっとイノセントも標的にされている。
「俺は大丈夫だけどレイチェルが、レイチェル、かなり強く殴られて」
壁に背を預けて座り込んでいるレイチェルを見ながらグレンにそういうと、イノセントがハビたちを見つめたまま言った。
「ジャスパー、レイチェルを病院に連れていけ。出来うる限りの治癒魔法をかけながらな」
イノセントがそういうと、すらりとした長身の男が現れた。クライドはしばしあっけに取られる。これがジャスパーだなんて信じられない。
それに、この男にはちゃんと目があった。男はレイチェルにどことなく似ていて、猫を思わせるアーモンド形の目は澄んだ灰色をしていた。その目はちゃんと見えているらしく、すっかりこの国の人間らしく姿を変えたジャスパーはレイチェルを担ぎ上げて足早に店を出て行った。
ばたん、と扉の閉まる音が響いた。
「イノセント=エクルストンとグレン=エクルストンか。兄弟仲良く帝王とのペットになるとは、救いようのない馬鹿どもだな。あの変態野郎と何度寝た?」
演技的な動作で、マーティンはそういう。言いながらイノセントに銃を向けた。イノセントは微かに不機嫌そうな顔をし、その隣に居たグレンはあからさまに不機嫌そうな顔をした。
「その発想になるお前が変態野郎だろ。そもそもなんでクライドを付け狙ってるんだ? 気持ち悪いんだよストーカー」
グレンは喧嘩でも売っているような口調でマーティンに詰め寄る。マーティンはいつもどおりの嫌な笑みを浮かべたまま、今度はグレンに銃を向ける。クライドはさっとグレンの前にでて、マーティンをにらみつけた。
マーティンは苛立ったように舌打ちをし、銃を下ろした。そして、クライドの背後のグレンに向かって言った。
「ニートの帝王と同じ理由だ。こいつの持つ魔力には利用価値がある。俺らはそれを使って、目的を成す」
帝王の権力を全く恐れていない様子で、マーティンは笑う。皮肉な笑みだ。
「俺ら、って。お前らも何かの組織なのか?」
この問いには、マーティンではなくグレンが答えてくれる。
「どうやらそうらしいぜ、こいつらの機関では魔力を開発する研究とかもやってるらしい」
はっとする。魔力を人間の力で開発すること、そしてそれの意味することにクライドは気づいた。
「それって、人工魔力?」
ウルフガングの読みは当たったらしい。そしてこの人工魔力の成功例が、マーティンなのだろう。
作りつけた魔法を持った、本来は魔力を持たないはずの青年。彼はひねくれた笑みを浮かべて、こちらを見ている。
「人工でも何でも、何の魔力も持ってないイノセント=エクルストンよりはマシだね」
吐き捨てるように言って、マーティンは再び銃を構えてこちらに向けた。そして、引き金をひく。
銃声が鳴る前にクライドは思わず身を翻し、グレンをかばって床に伏せた。伏せようとした直後に響いた銃声に焦り、クライドは必死にグレンを床に押さえつけた。弾は先ほどまでグレンがいた場所を貫通し、後ろの壁に弾痕を残す。弾をそらすのに多少想像を使ってしまったようで、目の前がくらりとした。
「ありがとう」
グレンは立ち上がり、クライドを引っ張り起こしてくれながらそう呟いた。呟きながら、弾痕の残る壁をまじまじと凝視している。
ふと、耳元にさらさらした髪が触ったのを感じた。振り向くとイノセントが音もなく至近距離にいたので、思わず身をのけぞらせてしまう。
見れば、ハビとマーティンはドアから入ってきたもう一人の人物に注目していた。昼に見た映画の監督だ、世界平和と書いたセンスの悪いTシャツには見覚えがある。グレンがあっと声を上げ、監督に注目していた。きっとグレンもこの監督の作品に出ていたのだろう。
どうやら監督は、レイチェルが死に掛けたことを知っているようだった。それで怒っているということは、レイチェルの仲間なのだ。
「貴様らは邪魔だ、去れ」
イノセントはクライドの耳元でそういい、するりと後ろに回ってくる。そして、クライドを抱きすくめるようにして手に隠し持っていたナイフを首筋につきつけてくる。
「武器を下ろせ、こいつを殺す。俺たちはこいつの血さえ手に入ればいい」
そういった後イノセントは『俺を振り払って逃げろ』と小声で言う。どうしたらいいかわからなかった。グレンは驚いて監督から目を外し、こちらに駆け寄ってくる。
「寄るな」
「兄貴!」
二人の声が同時に聞こえて、一瞬イノセントが腕を緩めた。これが合図だったらしい。クライドはイノセントの腕を強く振り払って、彼を突き飛ばして逃げた。小声でありがとうと呟いておいたが、気づいてくれたかどうかは解らない。
後ろからグレンが追ってくる。クライドは豪奢なドアを蹴るようにして開けて逃げ出した。