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第五十六話 ロード・レンティーノ=リュヴェルド

 それからはハビが予想したとおり、いそがしい一日になった。映画が好きそうな男性や、噂話が好きそうな女性客が多く来る。

 クライドと同じくらいの年代の子供はいないので、おそらく今は授業中だ。察するにレイチェルは、学校に行っていないのだろう。

「いらっしゃいませ」

 何度目かに言った挨拶だった。ハビは接客中で、中年の女性と世間話をしている。クライドはすっかり客席への案内をしてオーダーをとる係に落ち着いていたから、バインダーを片手に常にドアの方に気を向けていた。

 入ってきたのは、淡く澄んだ琥珀色をした髪を肩の辺りまで優雅に伸ばした男性だ。つややかな髪は柔らかそうで、彼が動く度にほんのり花の香りを漂わせる。

 ハニーブラウンの理知的な目はあまり視力に恵まれなかったらしく、彼はクラシカルな真円の眼鏡をかけている。眼鏡越しの景色の歪み具合からして、度は強そうだ。

 見るからに優しそうな顔立ちの人だ。色白で髭の剃り跡も見当たらず、顔だけなら女性に間違えられてもおかしくないくらい綺麗な人である。身長がハビほどではないが高いし、かなり痩せているので骨っぽくて体型に女性らしさはない。

 顔立ちや髪色からしてこの国では滅多に見られないので、それだけでも彼はここからかなり浮いていた。だが、それよりも彼をこの場所から浮かせるものがあった。

 それは服装だ。彼は、茶色をベースにしたスーツを着ているのだ。ただスーツを着ているのならそこまで珍しくないが、高級品を見る目のないクライドにも分かるほど、上質さは伝わってきた。高級感の漂うスーツ姿の彼は、ただの会社員というよりは宝石や美術品の目利きのように見えるし、もし会社に属しているのであれば役員やそれ以上の経営陣だろう。

 彼はこの島国の人ではないだろうから、おそらくエフリッシュ語が下手だろう。クライドは勝手にそう思った。

「こんにちは。本日は随分、賑わっているのですね。カウンターにかけても構いませんか?」

 意外となんていったら失礼かもしれないが、流暢なエフリッシュ語で喋りかけられて焦った。それに、クライドよりも年上に見える彼がいきなり丁寧な言葉遣いで話しかけてきたので、それによって戸惑う。

「どうぞ、空いているお席に」

 男はにこりと笑みを漏らし、入口からから見て一番奥のカウンター席に座った。

「紅茶をいただけますか。銘柄は貴方にお任せしましょう」

「ヴェロッツァ・ティーが人気です」

 とりあえず、そう答えておいた。クライドはこのお茶をよく知らないのだが、香りは良かったので多分美味しいだろう。紅茶を注文する人は、大概がこのヴェロッツァ・ティーを注文している。

 男性客は微笑んで、丁寧な言葉遣いでヴェロッツァ・ティーを注文してくれた。ほかの従業員が全員塞がっていたので、クライドが茶を淹れる。なんだか普段から高級な茶を嗜んでいそうな人だから、紅茶の味には一家言ありそうだ。

 茶葉の量やお湯の量に気をつけて丁寧に茶を淹れて、カップをソーサーに乗せて男性の前にそっと置いた。小さなティースプーンと、少量の砂糖と切ったレモンも一緒にだ。

 彼は終始微笑んでいるが、紅茶の香りを嗅いでその笑みをさらに深めた。

「一人で暮らしていると、こうして頻繁に外でお茶をすることになるのです。いえ、正確には一人と一匹で暮らしているのですが」

「ペットを飼っているんですか?」

 訊ねてみると、男は頷いた。そして、ティースプーンでカップの中身をかき混ぜながら答えてくれる。クライドが渡したレモンを入れたようだ。砂糖は使っていない。

「ええ、猫を一匹。気まぐれな猫ですよ」

「猫ですか……」

 猫と聞いて、レイチェルの顔が浮かんできた。慌ててそれを振り払い、男性客を見る。

 彼はどこかの財閥か何かの令息なのだろうか。きままな一人暮らしに猫を追加できるということは、彼の留守中に猫を見てくれるお付きの者がいそうではないか。

「貴方のご出身はどちらですか? その美しい御髪おぐしは、エフリッシュの色ではありませんね」

 突然質問されて、クライドは焦った。そして『おぐし』の意味が分からなくて少し悩んだ挙句、それが髪のことなのだと気づいた。

「ラジェルナの小さな町で暮らしていました。今は旅の途中で、ちょっとバイトしてるんです」

 中途半端な敬語でクライドがそういうと、男は上品な仕草で頷いて、紅茶を一口飲んだ。そして、顔を上げてそっと微笑む。

「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました。この島の人たちは皆、暖かくて良い人たちですよ」

 驚いたことに歓迎されてしまった。クライドは少し大げさだと思いつつも、嬉しさも感じて頷いた。

「そうですね、皆とても親しみやすいです」

 そう答えると、ハビが女性客と話を終えてこちらに向かってくるのに気づいた。そしてハビは男に歩み寄り、背中を軽く叩いて彼の注意を向けた。

「レンティーノ、久しぶり」

「おや、久しぶりだなんて。三日前にお会いしたばかりですよ。相変わらず忙しそうですね、ハビ」

「一時期は毎日来ていたじゃないか」

「仕事が忙しくなったのですよ」

 そんな会話を交わし、笑いあう二人。どうやら、ハビとこのレンティーノという男は仲がよさそうだ。常連客なのか友人なのかそのあたりは分からないが、少なくとも毎日通い詰められるこの店は相当気に入られている。

 レンティーノは顔を上げ、ハビと話していた時の楽しそうな笑顔のままクライドを見る。

「自己紹介がまだでしたね。私は、レジュストゥルフェルナディアンティーノ=バルコリュッテンヴェルツハイヤドと申します」

「え?」

 一瞬、反応に困った。いきなりこんなに長い名前を告げられたことなど、十六年の人生の中で一度としてなかったからだ。

 クライドは記憶力を総動員して今告げられたばかりの名前を思い出そうとした。しかし、こんな名前を一度で覚えられるわけが無い。

 どうやらハビは、レジュなんとかという名前を縮めてレンティーノと呼んでいるらしい。クライドも出来ればそう呼ばせてもらいたい。

「長すぎるので、覚えて頂かなくて構いません。新しいウェイターさん、貴方のお名前をお伺いしても?」

 彼の言葉に安堵した。あの長い名前を覚えろといわれたら、彼の名前を書いた紙を一日中何度も読み返していなければならなくなりそうだ。

「クライド=カルヴァートです。えっと、お客さんのことはレンティーノさんって呼ばせてもらっていいですか?」

「ええ、勿論ですよ。きっとまたお会いすることでしょう」

 優しい笑顔を浮かべたレンティーノは、ヴェロッツァティーを飲み終えて席を立った。そして、ハビにヴェロッツァ・ティーの代金を渡している。指先まで優雅な人だ、柔らかく弧を描いてハビの手のひらへとコインを載せるその動作だけでつい見入ってしまう。

「それでは、また来ますね。さようなら、ハビ、クライド」

 優雅な仕草でハビとクライドに手を振り、レンティーノは店から出て行った。彼が姿勢よく歩いてステンドグラスのドアから出て行くところまで見送って、クライドは彼が飲んだ後の食器を下げた。

 それから午後になって、少しだけ暇が出来た。今日は忙しい一日になったが、これからはまた平穏な日々が戻ってくるのだろう。


 しばらくすると、ハビが紅茶を入れて持ってきてくれた。クライドは礼を言って受け取って、カウンターの内側に椅子を引き込んできてそこで紅茶を飲んだ。隣でハビも同じように椅子を持ってきて、紅茶にレモン汁を入れている。ハビも砂糖は入れないようだ。

「今日は大繁盛だったね、カルヴァート君」

「ええ」

 穏やかなときが流れる。クライドはそっとハビの横顔を覗き込んだ。その目に微かな不安が浮かんでいるような気がしたのだ。

「どうしたの、カルヴァート君」

 ハビはクライドの視線に気づいてこちらを向いた。クライドはどう言おうかと少し逡巡したが、ハビを見つめて首を傾げてみせる。

「ハビさん、疲れていませんか?」

 訊ねてみると、ハビは一瞬だけ表情を消した。何かを考え込んだ瞬間だったのかもしれない。クライドは心配に思ったが、ハビはすぐに笑みを浮かべた。いつもと何一つ変わらない、良心的な笑み。

「少しね。でも、大丈夫」

 本当は納得いかなかったが、クライドは頷いた。そのまま、紅茶を飲む。紅茶といえばアンソニーの家の紅茶が一番口に合うのだが、この店の紅茶もさすが喫茶店というだけあって美味しかった。

 良質な茶葉を腕のいい店主が淹れてくれているのだから、異郷の茶でもすんなり受け入れられるのだろう。

「未来を見通すことが出来たら、どんなにいいだろうね。そんなに遠い未来じゃなくて良い、明日がどうなっているか知りたいんだよ」

 唐突にそういわれ、クライドは顔を上げた。ハビは相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべながら、前方を見つめていた。いつもと全く変わらないはずの笑みなのに、クライドにはそれがとても苦しげに見えた。

「でも、明日を知らないから人生が楽しいんじゃないかと思います」

「なるほど、それもそうだね」

 ゆっくりと頷いて、ハビは紅茶のカップに口をつけた。そしてまだ湯気を立てている紅茶を嚥下してから、ぽつりと呟く。

「楽しい人生、か。幸せな響きだ」

 やはり疲れているのだろうか。何がそんなに悪かったのだろう。クライドは自分の行動や言動を考え直して、たくさんの反省点を見出した。

 昨日も今日も、謝ってばかりだった。失敗してばかりだった。ハビの疲労の原因は、クライドにあるのかもしれない。

「ごめんなさいハビさん。色々と迷惑かけてしまって」

 クライドは俯き、紅茶のカップを見つめた。飲み終わってから少し放置していたので、カップの中には茶渋が付着しかけている。ハビは意外そうな声を上げ、クライドを見た。

「迷惑? そんなこと思ってないよ。僕は君を見るたび、弟が出来たような気分になるんだ。いつでも頼っていいんだよ、カルヴァート君」

 迷惑だと思われていないことについて安堵し、彼の言ったことの意味を考える。弟みたいだというのは、あまり言われ慣れない言葉だ。ただ、ハビの包容力は確かに兄のような感じがする。兄と言うか、もはや父親かもしれない。

 兄も父もいないクライドだが、だからこそそういう年上の男性への憧れは強い。バイト先の店主という遠めの関係だが、一歩だけ歩み寄って、彼を兄のように慕ってしまいたいと少しだけ思う。

「あの、クライドって呼んでください。今頃なんですが」

 ハビは雇用主としてのけじめで新入りのクライドを苗字で呼んでいたのかもしれないが、もともとレイチェルのことだって名前で呼んでいるフレンドリーな人なのだ。クライドの真面目な態度が距離感を作っていたのだとしたら、それは今のうちに撤廃しておきたかった。

「そう、わかった。それじゃあクライド、仕事を再開しよう」

 クライドは笑顔で頷き、水道に歩み寄って紅茶のカップを丁寧に洗った。火傷した手のひらが少し疼いたが、もう慣れてしまった。

 エフリッシュ語を喋りすぎたようで、少しだけふらついた。今日は予想以上に客が多かったので、疲れたのだ。だが、だんだんと喋ることができる時間が長くなっているような気がする。きっと今は、リハビリ期間なのだ。

「クライド、ふらついてるよ。また貧血?」

 ハビが後ろから優しく両肩を支えてくれたので、クライドは大きくふらつかずに済んだ。振り返ってハビを見上げようとするが、首がそこまで回らなかったので中途半端な見上げ方をしたまま答える。

「大丈夫です。俺よく貧血起こすんですよ、慣れてますから」

「薬あげるよ、昨日の薬ってちゃんときいた?」

 そういいながら、ハビは床においてあったバッグを開けた。これはハビの私物なのだろう。

 シンプルな白いバッグで、帆布のような頑丈そうな素材でできた大き目のものだ。ショルダーバッグらしく、妙に長い肩紐がついていた。何だか、ハビにぴったりのバッグだとクライドは思った。

「はい、これ」

 ハビはバッグの中から、透明な薬の入った瓶を取り出してきてクライドに渡してくれた。クライドはそれを受け取り、ハビを見上げた。

 礼を言おうとしたのだが、とたんに強いめまいに襲われてそのまま意識が飛んだ。

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