第五十五話 ヘアカット
店の外にある、屋根のついた広いスペースにクライドは案内された。訊ねてみると、ここは車庫なのだとセルジが答えてくれた。ただ、この島では自動車の利用人口が少ないため、ほとんど稼働していないのだという。
ノエルは店内で仕事を続けるため、ここにいるのはレイチェルとセルジとクライドの三人だけだ。セルジが用意したパイプ椅子に腰掛けて、クライドは真っ直ぐ前方を見つめた。
せわしなく行き交う人々と、町の喧騒。この島国は車の所有率が極端に低そうで、見かける車は見るからに高級そうなものばかりだ。庶民は遠出に自転車を使うのが常識らしいと、昨日のうちにクライドは気づいていた。こういう街の事情はよく解る。なぜなら、クライドの住んでいるアンシェントタウンでもそうなのだ。
アンシェントタウンは、山奥の割には広い街だった。だが、それでも車を使う人は少なかった。何しろ、車を動かすためのガソリンを売っている場所が街中どこを探してもないのだ。おそらく市役所や郵便局にはあるのだろうが、ガソリンを入れている人を見たことがないのだ。結果、公共交通機関か緊急車両を見かけることはあっても、普通の車はあまり見かけなかった。
「どんな髪形がいい?」
クライドの首の周りに大きな布をまきながら、セルジは言った。布はクライドの上半身をすっぽりと覆うことができるくらいの大きさで、分厚くておまけに重かった。
「これより五センチくらい短くして、ちょっと透いてください。襟足はあんまり残さなくていいです」
実はクライドは、今まで美容室や床屋の類に行ったことは一度もない。今まで、髪は祖母か母に切ってもらっていたのである。
少しくらい失敗しても髪が跳ねているのでさほど気にならないし、それが意外と人気になったりするのでクライドは自分で髪を切ったこともあった。
とにかく、美容師(たとえまだ卵の段階でも)に髪を切ってもらうのなんて、初めてだ。
「解ったよ、五センチね」
そういいながら、セルジはクライドの髪にはさみを入れ始めた。しゃきんとはさみを振るう軽い音がして、クライドの髪の最初のひとふさが切り落とされる。
しばらく街の喧騒をゆっくりと眺めていると、セルジはクライドの首の周りに巻いてあった布を外した。
もう終わったようだ。セルジが手鏡をわたしてくれたのでそれを見てみると、アンシェントタウンを出て来た頃の自分と似たような髪形になっていた。
ただ少し違うのは、今のほうがシルエットの作り方がかなり上手いということだ。頭の丸みに合わせてカットされた髪は、今風の垢抜けた感じがする。風が吹くたび、頭が涼しい。
ふと見ると、あの大きな布をかけていたのに短い髪が何本かベストについていた。それを払いながらクライドは立ち上がった。
「セルジさん、ありがとうございます」
言い終えてからレイチェルのほうを見てみると、レイチェルは目を輝かせながらクライドを見て恍惚とした表情を浮かべた。
セルジは満足そうに笑い、ハサミをケースにしまう。
「クライド、格好良いわ! それにしてもあなた、センスいいわね」
最初の一言はクライドに向けて、後の一言はセルジに向けてレイチェルが言った。セルジは楽しげに笑いながら、レイチェルを見下ろす。
「あはは、ありがとうお嬢さん。短髪は髪型のバリエーションが少ないけど、アレンジで困ったらアドバイスするよ。いつでも来て」
そういいながら、椅子を片付けるセルジ。クライドはレイチェルやセルジにつられて笑いながら、何気なく街の方を見た。遠くの方を、黒塗りの高級そうな車がすごいスピードで走り去るのが見える。クラクションとブレーキの音が心臓に悪い。アンシェントより明らかに栄えた町だから、こういう危険運転をする人も多少はいるということだろう。
「さあ、休憩時間も終りだ。僕は仕事に戻るね」
道具の片付けを終えたセルジはそう言って、携帯を見て時間を確認している。クライドは礼を言って、レイチェルを連れてそこから去った。
通りの礼拝堂にあった時計塔の時間を見て、クライドは街に長居しすぎたことにようやく気づいた。カフェまで急ぎ足で戻る。
店に着いたらクライドがドアを開け、レイチェルを先に入れた。そして、後からクライドも店に入る。今のところ、客はひとりもいない。ハビはクライドの到着を待っていたようで、いつもの伏目を細めて笑った。
「お疲れ様。髪、良い感じだね」
クライドは、買ってきたものを袋ごとハビに手渡した。ハビはそれを受け取ると、すぐに買い物袋から出して定位置に入れ始めた。
角砂糖は袋の封を開けてカウンターの裏側にある容器に移しかえ、ミルクはカウンターの裏にビンごとしまう。そして、さくらんぼの缶はハビの足元にある小さな冷蔵庫にしまった。
「すみません、勤務中に」
クライドは謝りながら、少し下を向いた。すると、頭の上に重たい手が乗った感触があったので顔を上げた。
「セルジは美容師志望だけど、どちらかというと映画のヘアメイクアーティストみたいなことをやりたいみたいだね。ああ見えて結構クリエイティブなんだ」
「仲がいいんですね」
「同級生なんだ。部活が一緒だったこともある」
ハビは言いながら、クライドの後方を見やった。入り口のドアが開いたようだ。振り返ると、この店のウェイトレスが入ってきた。ハビが彼女に笑顔で挨拶をしていたので、クライドもつられて笑顔で挨拶をした。
「映画のロケをやっているみたいだから、今日はお客さんが多そうだよ」
愉快そうにそういって、ハビは店の奥へと消えていく。その背中を見送ってから、クライドは今になってやっとカウンターの内側に回ることに思い至った。
「さっきの女優さん、ノーチェ=スルバランみたいね。知ってる? クライド」
楽しそうなレイチェルはそう言って、アーモンド型の目に好奇心を滲ませてこちらを見ている。
「いや、こっちの芸能人はあんまり詳しくないんだ」
「あら、ラジェルナではまだあんまり流行っていないのね。エナークではすごく人気があるのよ」
「カルツァ=フランチェスカは?」
唯一知っているエナーク人アーティストを挙げてみれば、レイチェルは嬉しそうに笑った。
「好きよ、彼とってもいいわよね。そういえばノーチェ、カルツァの『陽炎の帰り道』のMVに出ていたわ」
「あっ、あのロングヘアの? 髪の長さが変わっていたから全然分からなかった」
「クライドは、どっちがいいと思う? 長いのと短いのと 」
「長いほうが好き」
黒のロングヘアの女の子と知り合う度にグレンににやにやされることを思い出す。わかりやすく黒髪の女の子がタイプだから、クライドの過去の彼女は全員黒のロングヘアだった。
「私ほんとうはストレートなんだけど、巻いているのとどっちがいい?」
「これ、可愛いよ。この服だったら巻いている方が合うんじゃないかな」
口をついて褒め言葉が零れ、クライドは一瞬気まずくなって黙ったが、レイチェルは両手で赤く染まった頬を隠すようにしながらもしっかりクライドを見ていた。
「嬉しい。ありがとう、クライド」
照れて微笑むグレーの活発そうな瞳に、射抜かれたようにクライドは見入った。可愛い。つかの間、時間が止まったような気がした。
「こーら、レイチェル。無駄口が多い」
弾かれたように振り返ると、楽しそうに笑いながらハビがこちらを見ている。怒っている様子はないが、たしかに無駄話をしすぎてしまった。
「ごめんなさい」
謝る声が二人で揃い、クライドはレイチェルと顔を見合わせて何だかくすぐったいような気持ちで笑う。ハビは伝票を整理しながら、窓の外を視線で示す。
「今のうちに、ランチの仕込みを多めにしておくよ」
「わかったわ、手伝う。クライドは店内をお願い、お客さんが来たらとりあえずオーダーだけとって」
「了解」
さすがに調理には携わることが出来ないので、クライドはカウンターのそばに立って客を待つことにした。