第五十三話 マフィンのある朝
朝の四時、クライドは起床した。まだあたりはひんやりと涼しく、木立の間を小鳥が飛び移っている音だけが響いている。
睡眠時間が不十分だ。もっと寝たかったが、仕事が始まってしまうのでそうもいかなかった。
胸にかけている雫型のお守りが冷たくて、肌に心地よい。まだ寝起きで体温が高いので、クライドは暖かい手のひらで石を包み込んだ。ひんやりとした感覚にしばらく目を閉じ、また寝てしまいそうになって慌てて目を開ける。
気分を変えようと思って湿度の高い空気を吸い込み、クライドは大きく深呼吸した。そして、眠気覚ましのためにシャワーを浴びに行く。
シャワーから出て見ても、まだ三人は寝ている。いつもならノエルが真っ先に起きているだろうが、昨日は遅かったので仕方ない。ノエルは眼鏡をしたまま寝ていたので、クライドはそれを外して彼の枕元においてやった。
朝食は手軽にとれて美味しいシリアルがよかったが、シリアルがあっても牛乳が無い。諦めて、クライドはパンをほおばった。バターが欲しいところだが、生憎切らしている。身支度を整えると、クライドは寝ている三人を置いて静かに船をあとにする。さあ、仕事だ。
静かな路地を通り、幻想的な朝もやの景色を楽しんだ。水平線にやっと見え出した朝日にきらめく海が清清しい。アンシェントには絶対にない光景だ。
カフェ・ロジェッタに到着すると、ハビは庭の草木に水をやっていた。捲られた袖から覗く筋肉質な腕に、思わず目をやってしまう。カフェの店長ではなくジムのトレーナーだと言われても信じられるほどに、ハビはアスリートのような体つきをしている。
「カルヴァート君、おはよう」
ホースの水を止めながら、ハビはクライドに向き直って爽やかに微笑んだ。クライドも会釈する。
「おはようございます、ハビさん」
挨拶しながらホースの片付けを手伝う。ハビがホースを巻くので、クライドはそれが絡まないように集めてくる役目を引き受けた。ホースを巻き終わってハビがそれを外のガレージにしまおうとした時、能天気だとさえ思えるほど明るい声が近づいてきた。
「クライドー、遅いわ! ねえ、待ってたのよ?」
来た、レイチェルだ。
今日はなかなか気合を入れたようで、あの不自然な巻き髪が今日は綺麗に縦巻きになっている。メイクも違和感なく自然に施されていた。
クライドはレイチェルを見た。嬉しそうにクライドの服の袖を握り、微笑んでいる。
「……待ってなくていいです」
ため息混じりにそういうと、レイチェルは少しだけ悲しそうにした。だが、クライドが謝った方が良いのだろうかという考えに至ったときには既に立ち直っていて、有無を言わさず引っ張られる。
「来て! こっち!」
転びそうになるが何とか持ちこたえ、レイチェルに成されるがままの状態で喫茶店のドアをくぐる。
すると、ふわりといい香りがした。これは、マフィンかマドレーヌの匂いだ。母が昔、作ってくれたことがある。
「クライドに食べて欲しくて作ったの! ハビにはちゃんと許可とったわよ」
嬉しそうな顔で笑いながら、レイチェルは店の奥にあるオーブンの中から焼きたてのマフィンを取りだした。おいしそうな匂いだ。朝食がパン一切れで足りるはずがないので、クライドは今猛烈に空腹を感じていた。オーブンを開け閉めするたび、カウンターじゅうにバターの香りが濃厚に漂う。
「俺に?」
レイチェルを見て聞いてみる。すると彼女は微笑みながら頷いた。その目に、媚を売るような色はない。
あれだけ冷たい態度を取ったのに、レイチェルはクライドのことを嫌わないらしい。少し良心が痛んだ。
「そう、あなたに! 私、あなたに失礼な態度とってたし、ちゃんと謝らなきゃなって」
無邪気にはしゃぎながら、レイチェルはオーブンの中に入っていた残りのマフィンもすべて取り出した。
香ばしい匂いがする。アーモンドを使っているのだろうか?
「昨日は本当にごめんなさい、あのあとハビに指摘されて反省したわ。人見知りが激しいからすぐあんな態度をしちゃうの。はい、焼きたてよ」
まだ粗熱も取れないマフィンを差し出しながら、レイチェルは微笑んだ。クライドはそれを受け取って、カウンターの適当な席に腰を下ろした。レイチェルも隣に座って、クライドの様子を窺っている。
その時、扉が開いた。遅れて到着したハビだ。
「ハビのもあるわよ」
「頂こうかな」
ハビはクライドの隣に腰かけながらそういって、レイチェルのほうに手を伸ばした。
骨太な手首に、この喫茶店の雰囲気とよく調和したアンティークな時計がつけられている。だが、その時計は止まっているようだった。秒針が、外で見た時から一度も動いていない。
クライドの見識では、電池切れではないように思う。なぜならそれは、自動巻きの時計だからだ。前にテレビでみた。中世の歴史が好きなので丁度やっていたそんな系統の番組を見ていたら、名のある時計職人が手掛けたこんな時計が登場したのだ。
現在ではクライドの母国であるラジェルナでの生産は終了しているので、クライドはこの時計を余計珍しいものだと思った。
こういう時計には、電池切れも何も最初から電池など入っていない。振ることによってぜんまいを巻くのだ。手首の動作などで簡単に振れる時計なので、今動いていないということは何らかの欠陥が生じているという証拠だ。
「ハビさん、時計とまっていませんか?」
指摘してみると、ハビは古い腕時計に目を移した。一瞬怪訝そうに目を細め、それから時計を耳に当てるハビ。壊れていることに気づいていなかった様子だ。
「本当だ。電池が切れたのかな? 店をついでから今まで、一度もとまったことなんかなかったのに」
少し哀愁の混じった声で、ハビは言う。クライドはそんなハビの横顔を見つめ、それから時計に視線を移した。
いつ壊れてもおかしくなさそうな、しかし高級感のある時計。古くなってもなお胸を張って自己を主張しているようにすら見える。
ハビはこの時計を、もしかしたら誰かから貰ったのかもしれないし、アンティークな店内と調和させるためにわざわざ買ったのかもしれない。クライドが選ぶのは、前者だ。自分で買った時計なら、その動力が電池なのかぜんまいなのかぐらい解るはずだと思うからだ。
「壊れているのかもしれませんね」
自動巻きだということにはふれず、クライドは言った。電池を換えれば復活してくれる、そんな時計ならばこんなに威厳に満ちた高級感はないと思う。昔ながらの時計職人が全精力を注ぎ込んで作ったのであろうその時計は、動かなくても十分に存在感があった。
ハビは時計を外して、大事そうにレジ横の引き出しへとそれをしまった。そして、レイチェルが作ったマフィンに手を伸ばしながらクライドに向かって言った。
「修理に出すよ。気づいてくれてありがとう」
頷きながら、クライドはようやくレイチェルが作ったマフィンを食べることを思い出した。手の中のマフィンは受け取ったときよりも幾分か冷めたが、これぐらいが丁度いいだろう。
「いいえ、俺が気づかなくてもすぐにハビさんの方が気づいたでしょうから」
そういいながら、一口食べてみる。口の中にほわりと広がるのは、少しの暖かさと濃厚な焦がしバターの香り、アーモンドの風味。いい焼き加減だし、そんなに甘すぎることもない。クライドは、一口食べただけでレイチェルのマフィンが好きになった。
一個を平らげてしまってから、クライドはレイチェルのほうを見た。
「こんなに美味しいマフィン、俺のために作ってくれたのか? ありがとうな」
礼を言うと、自然に微笑が浮かんだ。クライドの表情を見たレイチェルは嬉しそうに笑い、トレーの上に載ったマフィンを指差した。
味は二種類あるようで、微妙な色の違いでそれを見分けることが出来る。おそらくプレーンだと思われるものと、今クライドが食べているアーモンド風味。
「もっとあるわ、いっぱい食べて」
レイチェルに言われるまま、クライドは二つ目のマフィンに手をかけた。食べ足りない気はするが、二つ目を食べ終わってから着替えに行く。そろそろ営業時間だ。制服を着て戻ると、レイチェルに三つ目を勧められた。そこで客が来たので、クライドは後ろを振り返ってとりあえず挨拶をした。
やってきたのは五十代くらいの男性だった。色褪せているが元々は黒だったと思われる微妙な色合いのTシャツを着て、同じく色褪せた迷彩柄のカーゴパンツをはいている。彼は六つあるポケットの全てにものを入れているようで、中肉中背なのに足だけやたら太く見えた。特に後ろのポケットにものを多く入れているのか、かなり座りにくそうにしている。
「コーヒーを一杯頼む」
怪訝そうにクライドをみながら、男は言った。
時刻は四時五十分、まだ営業時間前だ。それでもハビはすっかり仕事モードなので、クライドは席を立ってハビがコーヒーを入れるのを待った。
熱いコーヒーを白いカップに注ぎ、ハビは男に砂糖を入れるかどうかたずねている。男は砂糖もクリームも要らないといった。クライドはハビからカップを受け取り、男のところまで運んでいった。
近くに寄って見ると、男のTシャツにはディアダ語で『世界平和』と書かれていることがわかった。彼はエフリッシュ語を喋っているし、もしかするとこの単語の意味をわかっていないかもしれない。
「あの、食べますか?」
レイチェルがマフィンを二つほど皿にのせて、クライドの隣に歩み寄ってきた。レイチェルは椅子に座った状態の男を見下ろして、微笑んでいる。
「いただこうか。いくらだ?」
男が財布を取り出そうとするのをそっと押しとどめ、レイチェルはマフィンがのった皿をコーヒーのとなりに置いた。
「お金はいりません、サービスなので。たくさんあるので、もっと欲しかったら言ってくださいね」
「そうかい、ありがとう」
二人はそんな会話を交わし、それからレイチェルは男に背を向け、男はコーヒーカップを手に取った。
クライドはハビの指示でレイチェルと一緒にカウンターの内側に入り、開店の準備を手伝った。材料棚の鍵を開けたり、ラジオをつけたりしながらクライドはレイチェルに声をかける。
「料理が上手なんだな。また作ってくれよ」
素直に感想を述べてみると、レイチェルは無邪気な笑みを浮かべた。客のいる手前あまり無駄話もできなかったが、レイチェルはクライドを時々見て恥ずかしそうに微笑んでいた。
何となくだが、レイチェルは自分に好意を持っているのだろうとクライドは思った。思ってからすぐ、否定する。あまりの自意識過剰さに嫌気が差した。
「ごちそうさま、レイチェル」
レジに小銭や紙幣を入れて開店準備を続けながら、ハビはにこやかにそういった。そして、何もつけていない左腕をみて苦笑する。どうやら、時計があるものだと思って左腕を覗き込んでしまったらしい。
「美味しかった?」
レイチェルはカウンターの上に両肘を乗せ、身を乗り出すようにしてハビを見つめている。爪先立ちになった足先は全くぶれず、バランス感覚が良さそうだとクライドは思った。そんなところも相まってやはり猫っぽい。
「良かったよ、レイチェル。今度はココア味をつくってみてよ。お店のココア使っていいから」
「やってみるわ! 楽しみにしていてね」
やがて男が席を立った。そして、ハビにコーヒーの代金を払って店から出て行った。ハビはレジをあけてコーヒーの代金をしまい、出入り口の方を少し見てからまたカウンターの内側に立った。
ハビがそこにいると違和感が全くないが、他の誰かがそこにいると微かにひっかかりを感じる。やはり、ここがハビの定位置なのだろう。
ハビが言った通り早朝の客は少なく、七時半をすぎるまでは出勤してきた従業員以外はほぼ誰もこなかった。そこからちらほら会社員らしき人たちが朝食を食べに来て、九時前にはまた少し落ち着いていた。
客がいない時には、クライドはコーヒーの淹れ方を教わったり紅茶の種類について教えてもらったりした。
十時になったのを壁の時計で確認すると、ハビはレイチェルとクライドを呼んだ。
「さて、今日は二人に買出しに行って欲しい。メモは渡すからね」
ハビはそういいながら、シンプルな財布と四つ折りにされたメモをレイチェルに渡した。そして、軽く手を振る。
クライドは会釈して、レイチェルと一緒に店を出た。