第五十ニ話 焦り
ぼんやりしていると、不意に店長が冷たいグラスを頬に押し付けてきた。
「おつかれさま」
吃驚して顔を上げて壁にかけられた時計を見ると、時刻は午後の七時だ。受け取った冷たいグラスの中身はアイスのハーブティーで、レモンの爽やかな香りがする。受け取ってゆっくり飲んでいる場合ではなく、急いでカウンターの奥に引っ込んで私服に着替えた。襟元がきっちりしたシャツや糊の利いたベストから開放されると、自然にため息が出た。
この店は、朝の五時に開いて夜の七時に閉まる。喫茶店にしては、長く開いているものである。
帰ろうと思ったがもらった飲み物に口をつけないのも失礼だと思い、一口飲むと香りから予想できる味よりもうんとフルーツの味が強くて飲みやすいハーブティーだった。
クライドはカフェの制服を店の奥にある従業員スペースに置かせてもらい、ハーブティーを少しずつ飲む。一気に掻っ込んで走ってここを出ても、事態がどうにかなるわけでもない。それより、初日から逃げるように帰るような失態を犯さない方が精神衛生上いい。
ウェイトレスは、既に全員帰ったあとだ。……いや、唯一の例外を除くが。
「ねえ、ハビぃ?」
甘えるような声で、レイチェルが店長を呼ぶ。レイチェルは、店長のことを名前で呼び捨てにしているようだ。
彼女が馴れ馴れしいのはクライドに対する場合だけではなく、誰に対してもそうらしい。そう考えると、最初に感じた嫌悪感が少しやわらぐ気がした。
「今日はココア、ご馳走してくれないの?」
不自然な巻き髪に指を絡めながら、レイチェルは上目遣いで店長を見上げる。店長は相変わらずの伏目でレイチェルを見下ろし、それから視線を前に戻した。
「レイチェル、毎晩調子が良すぎるよ。今度から、ココア代も給料から引くからね」
そういいつつも、店長は笑いながらココアを作り始めた。店長がココアを用意している間、クライドはこれからのことについて考えていた。
帝王、イノセント、そして影の男。帝王の手下がイノセントだということはわかっているが、影の男はどうも違うようだ。同じ君主に仕える者同士が殺し合いを繰り広げたりはしないだろうというのがクライドの考えだ。
だとすれば、違うなにかがあるのだろうか。それとも、やはりイノセントと影の男は帝王に仕えるもの同士だったのか。あるいは、影の男が帝王の下を去ったということも考えられる。
なんにせよ、時間がない。もし大きな組織が帝王の一味のほかにも存在するなら、それはかなり厄介なことだ。イノセントは寝返ってくれる見込みがあるが、影の男はどこまでもクライドたちを弄ぶ気だ。
「クライド、なに難しい顔してるのよ?」
帝王と帝王の手下について想いをめぐらせているとき、レイチェルが急にクライドの顔を覗き込んできた。クライドは驚き、目をしばたかせる。そして思い出したように反論した。
「別に、俺」
「してたわ。可愛い顔が台無しよ?」
嫌味なのか馬鹿にしているのか、どちらだろうか。褒められたようには受取れない。
クライドが少しむっとすると、レイチェルはにこりと笑った。クライドの神経を逆なでしたことなんて、全く気にしていない様子だった。ちょっと鈍感なのかもしれない。
「レイチェル、ココアできたよ」
「ありがと」
クライドの隣で、店長とレイチェルが短く言葉を交わした。
もう外は暗い。この島の日照時間は、大体ラジェルナ国と同じぐらいだ。ラジェルナ国では、この季節は六時ごろに既に暗くなっている。クライドは椅子を引いて立ち上がり、店長に声をかけた。そろそろ帰ろう。
「そろそろ帰ります」
すると店長はレイチェルと話すのをやめ、カウンターからクライドのほうへやってきた。手に白い封筒を持っている。
「今日の分の給料だよ。あと、貧血の薬も」
店長は、クライドに白い封筒と透き通った水が入った小さな瓶を手渡してくれた。一見しただけでも解るが、瓶の中身はエルフの薬ではない。苦くないことを祈りたい。水が入っているガラスのビンにしては軽すぎるような気がすることが少し引っかかる部分だ。
見た目の割りに軽い小瓶とは違い、白い封筒の中身はずっしりと重かった。だが、おそらく紙幣も入っているだろう。紙幣に描かれた偉人の顔が透けて見える。
クライドは封筒をしっかりと手に持って、店長に礼を言った。
「ありがとうございます、店長さん」
そのまま立ち去ろうとすると、店長に後ろから名前を呼ばれて呼び止められる。振り返ると、店長は爽やかな笑顔で言った。
「ハビって呼んで。毎日朝の五時からだけど、起きるのが大変だったら七時ぐらいでもいいからね。給料は実働時間に応じて支払うよ」
クライドは頷いて、店長もといハビを見上げた。そして、今したばかりの決意を口にする。
「ちゃんと五時にきます。おやすみなさい、ハビさん」
挨拶をして、カフェを後にする。薄闇の中を歩き、クライドは船を目指した。
途中で仲間は誰も見かけなかったが、もう帰っているだろうか?
「ただいま、皆いる?」
船に到着するなり、言いながらクライドは甲板に大の字になった。返事はない。手足を伸ばして寝ていれば、どっと疲労感が体じゅうを巡る。接客業は思いのほか疲れるし、今日はエフリッシュ語で喋りすぎた。店長に貰った薬の瓶を見つめて、軽くため息をついた。飲んでみようか。
小瓶の栓を抜いて、唇に瓶のふちを当てる。そして、一気に中身を口の中に流し込んだ。
クライドは驚く。その水薬は、苦くも甘くもなかった。外見どおりただの水なのではないかと思うほど、無味なものだったのだ。いつものように咽ることもなく、クライドは普通に立ち上がってみた。身体が軽くなったような気がする。エルフの薬ほど劇的な効果は望めないようだが、それでも即効性はあるらしい。
「クライド、戻ったのか?」
グレンの声がして振り向くと、船室の入り口にグレンがいた。グレンはとっくに帰ってきていたらしく、退屈そうな目をしていた。おそらく、暇つぶしのために一人で魔道書でも読んでいたのだろう。
「ノエルとトニーは?」
二人の話し声は聞こえてこないのでおそらくいないだろうと予想がついたが、一応訊いてみた。もしかしたら待ちつかれて寝ているのかもしれない。だとしたら、彼らには悪いが起こす必要がある。
「まだだ。二人はもっとかかるって言ってたぞ。ノエルは十時近くまで働いてるんじゃないのか?」
クライドは二人が帰ってくるまで、グレンと会話して待つことにした。話の種は尽きることがない。グレンは、数種類の薬草をクライドにくれた。エルフの薬の材料になるものだ。礼を言って受け取った。すぐにでもエルフの薬を煎じてみたかったが、まだ足りない材料があるのでできなかった。
クライドは、喫茶店での体験をグレンに話した。話ははずみ、グレンも撮影現場での話をたくさんしてくれた。気づけばいつしか、お互いにイノセントや帝王の話題は持ち出さないことが暗黙のルールになっていた。せめて残りの二人が帰ってくるまでの間は明るい気分でいたい。グレンもそう思ったのだろうか?
それから二時間ぐらいして、アンソニーが帰ってきた。手に何か袋を提げている。ノエルはまだ帰って来ないので、アンソニーから一日のことを聴くことにした。
「聞いてよ二人とも。僕ってば、初日からついてないんだ」
アンソニーは甲板に細い足を投げ出して長座する。そして、憂鬱そうに斜め下を向いた。
「なんかね、僕が新人なの知ってたのか知らなかったのか分からないけど、変なおじさんが絡んできたんだ。七三わけで、四角いめがねしてる人」
アンソニーの口から愚痴を聞くのはそう珍しいことではない。彼は心の内側にいろいろなストレス溜め込むタイプだからだ。
たまに愚痴を聞いてやらないと、彼の顔から笑顔は消える。だからクライドやグレンは、学校でも下級生のフロアに頻繁に遊びに行き、彼のストレス発散を助けてやったりしている。
「それで? 普通そうだな、見た感じ。まあ、想像の範囲でしか知らないけど」
グレンがアンソニーの隣に胡坐をかいてすわりながら、彼の話の続きをうながした。
「その人、すっごく神経質な人だったんだ。ネクタイとか物凄くきっちり結んでるし。普通、一般のデパートにあんなスーツで来る?」
妙な人だ、と一瞬思った。しかし、それも普通かと思ってしまった。仕事の帰りに百貨店によって何か買って帰る人も、いなくはないだろう。クライドの住むアンシェントタウンにデパートはなかったので、これは想像でしかないのだが。
「で、どんなこと言われたんだ?」
グレンはアンソニーの言葉に何度も頷きながら、続きを聞きたそうにした。アンソニーは少し困ったように笑いながら、続きを話す。
「雑誌の並べ方が悪いだとか日用品はもっと大きな箱に入れて売るべきだとか、棚の高さが上段と下段で五ミリ違うとか、もう耳にたこができるんじゃないかってぐらい延々とそんなこと言われ続けて…… 僕、何も知らないのに」
知らない男に説教されている間、アンソニーはずっと俯いていたらしい。それもそうだろう、何も知らないのに責められたりしたらしょげたくもなる。クライドなら何かひとつ言い返そうとも考えたかもしれないが、クライドの知る限りアンソニーは見知らぬ人に文句を言ったことなど一度もないようだ。
「ムカつくおっさん。もしも会ったら『俺はタコです』って書いた紙を背中に貼ってやる」
アンソニーの代わりにすっかりふてくされたグレンが、そういって海の方を見る。静かな夜の海風が、三人の間に一時の沈黙を運んできた。
クライドたちは、少し手持ち無沙汰な状態でノエルの帰りを待つ。もしかしたら何かあったのかもしれないと心配になるぐらい、ノエルは遅かった。
「ただいま、遅くなってごめん」
申し訳なさそうにそういいながらノエルが船にあがってきたのは、午後十一時をすぎたあたりだった。クライドは顔を上げ、ノエルを見て微笑んだ。よかった、無事に帰ってきてくれた。
今からすぐに寝たとしても、クライドは五時間寝られるかどうかわからない。明日は厳しい一日になりそうだ。
ノエルはグレンの隣に腰を下ろした。それを見て、アンソニーが無邪気な笑みを浮かべる。
「やっと来てくれた! ノエルがくるまでこれは開けずにおこうと思ってたんだよ」
そういいながら、アンソニーは手に持っていた袋の中身を出した。中に入っていたのは、ケーキの箱だった。何故ケーキなのだろう。アンソニーは、彼の母が作るケーキを思い出して食べたくなったのだろうか。
アンソニーの母はふくよかな美人で、アンシェントタウンで一番の菓子職人として名を馳せている。テレビの取材を受けたこともある、国内でも有名な凄腕の菓子職人だ。
そんな母に育てられたからだろうか。アンソニーは相当な甘党で、甘いものを極めている。聞いたところによると、学園一料理が上手い家庭科の教師でさえもアンソニーが満足できるようなケーキを作ることはできなかったという。そんなアンソニーが、百貨店のテナントとして入っているような店のケーキを好んで買うだろうか?
「売れ残って廃棄になっちゃうから、全部ただで貰ってきたんだよ。みんな疲れてるだろうから、ちょっとした癒しのひとときを過ごしたいなって思って。母さんのケーキには敵わないだろうけど、まあまあ美味しそうだよ」
クライドは、それをひとつ受け取った。甘さをひかえたチーズケーキだ。ひとくち食べてみると、かなり美味しかった。しばらく、ケーキを食べながら談笑する。
ふと、クライドはノエルの髪に目を留めた。今朝見たときよりも、短くなっているようだ。暗かったのでなかなか気づかなかったが、ノエルが頷いたり首を振ったりするたびに揺れる髪の長さが、何となく足りないような気がするのだ。
「ノエル、髪を切ったのか?」
訊ねてみるとノエルは頷いて、やはり短くなっているように見える鳶色の髪に手をやって微笑んだ。そして、ケーキの最後の一口に手をつけるのをやめてクライドに話をしてくれる。
「同じバイトをしている人に、美容師志望の人がいたんだ。丁度良い機会だから、切ってもらったんだよ」
言い終わってすぐに、ノエルはケーキを平らげた。クライドは大分伸びた自分の髪に手を伸ばし、指を絡めてみる。
少しはねていた髪を引っ張って真っ直ぐに伸ばしてみると、そろそろ肩に着きそうなほどの長さになることがわかった。
「俺も髪切りたいな」
これから夏に入っていくというのに、これでは暑い。髪の長さは長いところで十五センチくらいまでに決めている。今まではそれより長いことは殆どなかったのに、今では余裕で二十センチ以上ありそうだ。仕事が終わったら切りに行こう。
「頼んでおいてあげようか、その人に。彼もまだ美容師の卵だから、無料でやってくれるよ」
「ありがとうな、ノエル」
そろそろ本題を話そうか。もう少し和やかな空気を保っていたいが、言わなければいつまでも心に錘を詰め込んだままになる。そして、今後の動きを検討できずに今日が終わってしまう。
クライドはグレンとアンソニーに声をかけ、二人を振り向かせた。ノエルはクライドの方を見て、いつもどおりの穏やかな笑みを浮かべている。
「昼間、イノセントに会った。帝王がとうとう動き出すらしい。残された時間はあと一ヶ月、あと一ヶ月で帝王が鐘の魔力を使えるようになる。それで、そのために、帝王は俺の魔力を利用する気だってイノセントが言っていた」
皆、黙っていた。それぞれが、それぞれの頭でこのことを真剣に考えているようだった。クライドは、三人を順に見回す。アンソニーは見るからに不安げな顔をしており、グレンは遠くを見つめており、ノエルは顔から穏やかな笑みを消して、それぞれが一心に考え込んでいた。
「今日、いくら稼いだんだい?」
唐突に、ノエルが口を開いた。クライドはハビに渡された封筒の中身を出してみた。中に入っていたのは、きっかり二千百ウェルツ。
クライドにとっては結構な額だが、おそらくこれだけは燃料代にも満たないだろう。現在この島国では、原油の価格が高騰しているらしいのだ。
「僕もそれぐらい稼いだよ。君より少し少ないぐらいだけど、これじゃとてもじゃないけど足りないね」
ノエルはそういって、自分の財布から金を出した。アンソニーが稼いだ額はノエルよりも更に少なかったので、アンソニーは落ち込んでいた。ちなみに、グレンはまだ撮影が終わっていないので報酬をもらっていないらしい。
「三日だ。一日でその額稼げるんだったら、三日働けば何とかできるだろ。全額を燃料費にあてて、食事は海の魚と残ってる小麦粉でなんとかしよう。箱買いした麺類もまだちょっとあるし。俺の仕事は明日終わるから、最低でも今日を入れて二日はここにいないとならないんだ。ごめんな」
グレンの言葉にクライドは頷いて、他の二人を見た。アンソニーもノエルも、頷いてくれる。ノエルは少し考えるような動作をしてから、いつもの笑みを顔に浮かべた。
「四日働いて、漁の道具を少し仕入れたほうがいいんじゃないのかい?」
それもそうだ。クライドが頷くと、グレンも笑顔で頷いた。そしてグレンは、クライドとアンソニーを順に見る。
「そうだな。クライド、トニー、それで決定でいいか?」
頷くと、アンソニーも了承してくれた。しかしクライドの仕事があと五時間後に始まってしまうので、残った問題は明日解決することにして四人は眠りについた。