第四十七話 リタとデゼルト
目立つ男だった。赤い帯状の額飾りを後頭部で方結びにした同世代ぐらいの黒髪の少年は、この島の民族衣装を着ていない。筋肉質な身体は薄汚れた綿素材のシャツとデニムのパンツに包まれ、服装に気を遣う余裕の無い層であることは見た目に明らかだ。
「グレン止めろ!」
行く手で待っていたグレンは見えない手で少年の手に持っていた書類を奪おうとしたが、なぜか何かに弾かれたように転んだ。クライドはすかさず銀行の大階段を駆け下りて、走り去ろうとする少年の跡を追う。グレンもすぐに立ち上がってクライドに追いついた。
土地勘があるのか、細い道ばかり選びながら少年は逃走した。見失わないようにクライドは無言で走った。石造りの路地を駆け抜け、畑を突っ切り、鉄格子のはまった施設の脇を通り抜けてもなお少年の足は速度を緩めない。クライドの脇からしびれを切らした様子のグレンがスパートをかけ、ついに飛びかかった。
一瞬見えた少年の鋭い目つきは鷹を思わせた。使われていない水車小屋の側でグレンと少年は取っ組みあった。激しい攻防にクライドは横から手を出せず、とにかく通帳を奪い返そうと想像する。少年の手が開いて通帳が入った袋が浮遊してくるところを。
しかし、目を開けても景色が変わらない。少年は必死の形相でグレンと上になり下になり砂まみれになりながら喧嘩している。彼がグレンの長い金髪を掴んだところで、グレンにかけた変装の魔法がいつのまにか解けていることに気づいた。クライドはグレンが黒髪のショートヘアになったところを想像する。少年の手は何も無いところを掴み、その一瞬の隙を突いてグレンは彼を反転させて背中の上に乗り、両腕を纏めて拘束に成功した。 駆け寄ろうとすると、クライドの腕を誰かが掴む。
「やめな。こいつがどうなってもいいの?」
少女の声だった。年頃は自分たちに近いぐらいで、はきはきとした発音が印象的だ。身長は同じぐらいか少し小さいくらいで、彼女はクライドの両手首を纏めて掴み、空いた手を首に回して何かを突きつけている。少しみじろぎすれば、彼女の手にはナイフが握られていることがわかった。グレンがこちらを見て、にやりとする。気を抜いて魔法の効果が切れてしまったようで、グレンの黒髪はまた長い金髪に戻っていた。
「へー、何。こいつの彼女? 健気だな、危ないからそんなもん仕舞えよ 」
「そいつは私の手下だよ」
「手下じゃねえ! 副船長だ!」
……面倒臭い男女に絡まれてしまった。その思いが視線に出ていたのか、グレンも頷いて肩をすくめる。
「副船長は一生船長には勝てないの。せっかく助けに来てやったのに」
ブツブツ文句を垂れる少女は、抜け目なくクライドを捉えたまま離さない。クライドは目を閉じて想像する。女の子の手に握ったナイフが蝋のように融解し、クライドの首筋を濡らすところを。
「っく、痛……」
想像のとおりには行かなかった。少女のナイフが少し首の肉に食い込む。ぷつりと肌の切れる感覚がして、じわじわと生ぬるい液体が首を伝っていく。
「クライド!」
「グレン、そいつ絶対離すな」
かすれた声が喉から出る。赤い額飾りの少年は苦しげにもがき、グレンはそれを全力で押さえつけていた。クライドは想像する。グレンの右手の傍にナイロン製の堅牢なロープが現れるところを。想像は成功し、登山用具店にあるような鮮やかな色のロープが二メートルほど、ゆるくまとめた状態でグレンの手元に落ちる。グレンはクライドに目配せし、押さえつけていた腕をがんじがらめにしっかり縛り付けている。どうやらこの少年には魔法が弾かれてしまうようだが、魔法で創った武器なら通用することがわかって安心する。
「リタ、刺し殺せ」
少年はこちらを睨みつけ、クライドの背後の少女に命令する。リタと呼ばれた少女はそれを鼻で笑った。
「キャプテンに命令できる立場? あんた本当にいけ好かない、山に捨てるからね」
「分かっているだろうリタ、こいつら魔道士だ。護符を取られでもしたら面倒この上ない」
思わずグレンを見た。グレンは楽しそうににやにやしている。このちょっと抜けた少年少女の痴話げんかのおかげで、彼らがどうして魔法を弾いているのか分かった。護符とやらはどこにあるのか、クライドは組み敷かれた少年を観察する。
「そこの金髪」
耳元でリタが言う。おそらくグレンに対しての発言だろう。だがグレンは、にやにやした笑みを崩さずにリタを挑発する。
「なあ、どっちに言ってんだ? 俺たち二人とも金髪なんだけど」
「あんた! お前! 貴様! 人をおちょくるのもいい加減にして」
「短気な女は嫌いじゃないぞ。分かりやすくていい」
楽しそうなグレンは、リタをからかいながら少年の手首のロープをぐっと強く引き寄せる。眉根を寄せて痛みに耐える顔をした少年は、うつぶせの状態で首を無理矢理背後に向けようとしながら唾を飛ばす勢いで怒っていた。その首に、金色の小さなコインのようなネックレスがかかっているのが見える。あれが護符だろうか?
「おいガキ、リタに手を出すんじゃねえ」
「同い年にガキって言われるのは心外だな。学校にも行っていなかったくせに」
「な、何故それを…… 魔道士め、厄介だな」
きっとハッタリだが、少年は素直にグレンの言うことに恐れをなした。少年が怯えた様子を受けて、クライドの背後のリタもひゅっと小さく喉を鳴らす。連鎖的に彼女も怯えたらしい。
「デゼルト、撤退するよ」
「は? どうやって? お前俺の格好ちゃんと見えてるか? 助けろ」
グレンが吹き出した。クライドも吹くかと思ったが、首に突きつけられたナイフの痛みがそれを許さなかった。デゼルトと呼ばれた少年は真剣な顔だった。散々痴話げんかを繰り広げておきながら、最後には高圧的に助けを求めるなんてなかなかの逸材だ。同年代なのだから、学校に行けばきっと瞬く間に『面白い奴』ポジションをほしいままにするだろう。ああ、その前に武器の持込で退学になってしまうか。
「本当にむかつくなあんたは…… こいつ切り刻んだら、すぐ行く」
後ろのリタが本気でクライドを刺しにかかるので、クライドはやめていた抵抗を再び試みた。ナイフを振りかざす予備動作にあわせて身体を捻れば、油断していたリタを簡単に振り払うことができた。振り返れば、同年代ぐらいの少女があんぐり口をあけている。チューブトップにデニムのショートパンツというこの国に来て初めて見る軽装に、年頃の女の子らしくお下げにされた明るい茶髪。毛先はパサパサしていて、栄養状態はよくなさそうだった。痩せた少女はすぐにナイフを構えて応戦してくるので、クライドはそれを避けながら首の傷口に手をやった。ぬるりとした乾きかけの血が、指に纏わりついた。
神経を研ぎ澄ませ、首を伝って流れ落ちる血に意識を向け想像する。爆発が起きて熱風に吹き飛ばされたデゼルトが、恐怖の表情で後ろ手に縛られたまま逃走する姿を。ナイフを取り落としたリタが、逃走したデゼルトを追って走り去る姿を。血の暴走は危険だと知っているが、防護がなされている二人へ直接想像しても無意味なことだと分かっている。リタがナイフを振り下ろしそうになった瞬間、クライドは目を閉じて魔法を発動した。刹那。
派手な爆発音が響き、熱風でクライドも吹き飛ばされた。放り出された身体は近くの藪に突っ込み、そこでようやく目を開ける。爆風のあとに立ち上った砂煙でグレンの姿が確認できない。したたかに打ち付けた肩をさすりながら起き上がり、見える範囲の擦り傷と首の傷を想像で直す。砂煙が少しずつ晴れ、倒れこんでいる金髪を見つけたクライドはよろめきながら走った。心臓が嫌な音を立てる。
「グレン! グレン、大丈夫か」
駆け寄るとグレンは上体を起こした。爆発がどこで起きたのか目を閉じたクライドは見ていなかったが、グレンは直撃を避けたらしく外傷は擦り傷ぐらいしかない。安心して頬が緩むが、グレンは気まずそうに目をそらした。
「俺は平気、けど……」
グレンの視線を辿ると、砂煙の向こうに男女がよろめきながら走り去るのが見えた。叩きつけたような黒いこげ跡は水車小屋から少し離れた広い場所にあり、その中心に紙の焦げたようなものが舞っていて嫌な予感がする。
砂煙はもうほとんど消えている。風にふわりと攫われたものは、ノート状の紙のまとまりだ。
「まさか、爆発したのって」
燃え残っているビニール袋の切れ端には銀行のマークと同じ色の塗料が見えた。くらりと立ちくらみがする。きっとこれは、魔力の使いすぎではなく精神的なショックに起因するほうだ。
「そのまさか、なんだよ。まず小爆発を起こしたのは免許証だった。それを見てやべえってわかって、俺は水車小屋の影に隠れたんだ」
「嘘だろ……」
呆然と、クライドは座り込む。魔力を削って知力を尽くして手に入れた大金は、あっさり灰燼と化してしまった。想像で元に戻そうにも、クライドは通帳をしっかり細部まで見ていない。うっかりするとニセモノを創り出してしまうだろう。
「クライド、とりあえず行こう。ここに留まったら、テロの犯人にされるかもしれない」
「そう、だな」
座り込んだクライドにグレンが手を貸してくれるので、クライドはその手を取って立ち上がった。あまりに一瞬過ぎる夢だった。とりあえず下ろしておいた現金がポーチの中にあるのを確認して、深い溜息をつきながらその場を去る。
裏通りを経由し、スラム街を抜けてグレンと二人でノエルたちを探した。人々から向けられる視線があまりに気になるので商店のショーウィンドウで確認してみると、白い民族衣装は土汚れや血でボロボロになっていた。これはまずいと思い、クライドは路地に入ると二人分の服を想像で綺麗にした。グレンの長い金髪と澄んだ碧眼も、漆黒になるよう想像する。
自分たちの起こした爆発のあった方角はすでに騒がしくなっており、軍服や野戦服の男たちが水車小屋方面に向っていかめしい顔で歩いていくのを何人か見送った。グレンの判断に助けられたと思う。今のうちに買い物をして、これ以上何か問題が起きる前にこの島を出てしまおう。
はぐれたままのノエルとアンソニーの居場所を探るつもりで、クライドは民家の壁に凭れて目を閉じる。穏やかな森を思わす安心感はノエルの魔力だが、それは七時の方向から伝わってきた。アンソニーの魔力は視線のように受取ることが多いが、今もノエルの魔力と同じ方角から彼に見られているように感じる。そちらに顔を向ければ、目が合ったような気さえする。二人が一緒にいるだろうということがわかり安心し、クライドはグレンと一緒に歩き始めた。夕方の買出しを始めていると思わしき主婦たちの波に逆らって歩き、たどり着いたのは数百メートル先の公園だった。
「あ、クライド! 近づいてくるのが視えたって言ったら、ノエルがここにいようって」
「クライド、本当にごめん。僕がうかつだった」
ベンチに座っていた二人は立ち上がってこちらに歩いてきた。二人ともすっかり元通りの容姿に戻っている。暑いのかターバンを外したアンソニーは金髪の巻き毛だし、ノエルもいつもの緑の目だった。彼は髭の生えていない顔で、外していた眼鏡を再びかけている。
「あー、あのな、ノエル。ごめん。通帳、爆発しちゃったんだ」
「爆発……?」
その反応に、ぷ、とグレンが吹き出した。釣られてアンソニーも笑い出す。確かに突然、紙製品である通帳が爆発したなんていわれても信じられないだろう。ノエルは愕然と、クライドの銀色の目を見ていた。
「爆発? バーンって? ふふ、何で?」
アンソニーは楽しそうに笑いながら、グレンの金髪を見てターバンを巻きなおした。自分も目立つ金髪であることは自覚してくれているようだ。グレンはターバンの中に雑に髪を入れながら、ノエルを盗み見ている。
「ひったくり犯をグレンが捕らえたところで、そいつの仲間が俺にナイフを突きつけたんだ。ちょっと当たって血が出て、そしたら……」
「エルフの血が暴走、ということだね。いいんだ、クライド。現金は無事かい?」
「ああ、全部じゃないけどなんとか」
「偽造に偽造を重ねて作った口座だ、どうせいつか足がついたよ。気に病まないで」
四人でスーパーマーケットへ向う。特売品の小麦粉を多めに仕入れ、バターや卵、肉類も手に入れる。野菜は見たことのない種類が殆どだったが、ノエルの知識を元に痛みにくそうな根菜を中心に買った。インスタント麺も箱で買い込み、野菜が切れたとき用にペットボトルの野菜ジュースも二ケース買う。
「一万四千ウェルツ(現代日本円にして五万円弱)も買い物したのか、俺ら」
クライドが想像で出した台車にケース類を載せ、両手に根菜や肉を下げてグレンが上機嫌に笑う。クライドは小麦粉の袋をアンソニーと手分けしてもち、ノエルは割れやすい卵とバターの入った袋を慎重に抱えている。船に戻るまでにこんな大荷物を見咎められて軍人に絡まれたら困ると考え、アンソニーに事前に視力の魔法を依頼した。四人の姿を、人目を引かない雑踏の一部に見えるように錯覚を起こしてもらう。おかげで港まで、誰にも声をかけられずに戻ってくることが出来た。船へと荷物を搬入し、四人も船に乗り込んだ辺りでアンソニーが甲板に倒れこんだ。魔法の使いすぎらしい。クライドは想像を働かせ、エルフの血を人間の魔力に変えてアンソニーに分け与えた。陸を離れるまでは目くらましを継続してもらったほうが安全だ。
「トニー、ごめん、もうちょっとだけ頑張ってくれ」
「わかった…… 終わったら僕、寝てもいい?」
「勿論だ、頼む」
アンソニーは船を見つめ、空色の目で魔法をかけた。船は傍目には何もかわっていないが、魔力の効果で人の意識を留めないようになっている。ノエルが船を出し、グレンが船に積み込んだ荷物を仕分けして倉庫や冷蔵庫に仕舞ってくれた。船が陸から離れ、島が遠くなった頃、アンソニーは再び倒れこむ。見開いた青い目の奥の方に、可視化された魔力が青白く光っている。クライドは倒れたアンソニーを抱き起こし、船室に連れて行って布団をかけた。そうするとアンソニーはゆっくりと目を閉じ、やがて寝息を立てる。
「トニー、寝ちまったか」
「ああ。夕飯の頃に起こそう」
船を動かしてくれるノエルを労う意味も込めて、夕飯はグレンとクライドで作った。自家製のパンはどちらかというとナンだったし卵はやや焦げてしまったが、久しぶりの肉や野菜に胸が躍る。これから暫くは、満足な食事が出来そうだ。
ノエルを呼びに行き、船を自動操縦モードにしてアンソニーを起こす。疲れた身体に食事はよく沁みて、その夜は久しぶりにゆっくり眠ることができた。